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221年春夏秋、皇帝・劉備が夷陵へ

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

221年春、劉備が、劉協が死んだと騙る

春,正月,以議郎孔羨為宗聖侯,奉孔子祀。三月,加遼東太守公孫恭車騎將軍。 初復五銖錢。

221年春正月、議郎の孔羨を宗聖侯として、孔子を祭らせた。
221年3月、遼東太守の公孫恭を、車騎将軍とした。はじめて、五銖錢をもどした。

蜀中傳言漢帝已遇害,於是漢中王發喪制服,謚曰孝愍皇帝。群下競言符瑞,勸漢 中王稱尊號。前部司馬費詩上疏曰:「殿下以曹操父子逼主篡位,故乃羈旅萬裡,糾合 士眾,將以討賊。今大敵未克而先自立,恐人心疑惑。昔高祖與楚約,先破秦者王之。 及屠鹹陽,獲子嬰,猶懷推讓。況今殿下未出門庭,便欲自立邪!愚臣誠不為殿下取 也。」王不悅,左遷詩為部永昌從事。

蜀では、漢帝(劉協)が殺害されたと伝えられ、劉備は喪に服した。劉協に、孝愍皇帝と贈った。郡臣は劉備に、皇帝への即位を勧めた。
前部司馬の費詩は、上疏して、劉備の即位に反対した。劉備は、費詩を左遷して、永昌從事とした。

司馬光が意見を、ながく書いている。抄訳はこちら。司馬光は、全国統一していないこと、血筋が怪しいことを理由に、劉備の正統性を保留している。


221年夏、劉備が皇后を立て、曹丕が甄氏を殺す

夏,四月,丙午,漢中王即皇帝位於武擔之南, 大赦,改元章武。以諸葛亮為丞相,許靖為司徒。
孫權自公安徙都鄂,更名鄂曰武昌。

221年夏4月丙午、劉備は皇帝となった。章武と改元した。諸葛亮を丞相とし、許靖を司徒とした。
孫権は、公安から鄂にうつり、鄂を武昌と改めた。

五月,辛巳,漢主立夫人吳氏為皇後。後,偏將軍懿之妹,故劉璋兄瑁之妻也。立 子禪為皇太子。娶車騎將軍張飛女為太子妃。
太祖之入鄴也,帝為五官中郎將,見袁熙妻中山甄氏美而悅之,太祖為之聘焉,生 子叡。及即皇帝位,安平郭貴嬪有寵,甄夫人留鄴不得見。失意,有怨言。郭貴嬪譖之, 帝大怒。

5月辛巳、劉備は、夫人の呉氏を皇后とした。偏将軍・呉懿の妹である。もとは劉璋の兄・劉瑁の妻だった。劉禅を皇太子とした。車騎将軍・張飛の娘を、皇太子妃とした。
曹操が鄴に入ったとき、曹丕は袁煕の妻・中山の甄氏をめとった。曹叡が生まれた。皇帝となった曹丕は、安平の郭貴嬪を愛した。甄氏の怨みを郭氏から聞き、曹丕は甄氏に怒った。

六月,丁卯,遣使賜夫人死。
帝以宗廟在鄴,祀太祖於洛陽建始殿,如家人禮。
戊辰晦,日有食之。有司奏免太尉,詔曰:「災異之作,以譴元首,而歸過股肱, 豈禹、湯罪己之義乎!其令百官各虔厥職。後有天地之眚,勿復劾三公。」 漢主立其子永為魯王,理為梁王。

221年6月丁卯、曹丕は甄氏を殺した。
曹丕は、宗廟が鄴にあったが、曹操を洛陽の建始殿に祭った。
6月戊辰みそか、日食した。有司は、太尉を罷免しようと言った。曹丕は「日食は曹丕のせいで、太尉のせいではない。三公を責めるな」と詔した。
劉備は、子の劉永を魯王に、劉理を梁王にした。

漢主恥關羽之沒,將擊孫權。翊軍將軍趙雲曰:「國賊,曹操,非孫權也。若先滅 魏,則權自服。今操身雖斃,子丕篡盜,當因眾心,早圖關中,居河、渭上流以討兇逆, 關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏,先與吳戰。兵勢一交,不得卒解,非策之上 也。」群臣諫者甚眾,漢主皆不聽。廣漢處士秦宓陳天時必無利,坐下獄幽閉,然後貸 出。
初,車騎將軍張飛,雄壯威猛亞於關羽;羽善待卒伍而驕於士大夫,飛愛禮君子而 不恤軍人。漢主常戒飛曰:「卿刑殺既過差,又日鞭撾健兒而令在左右,此取禍之道 也。」飛猶不悛。漢主將伐孫權,飛當率兵萬人自閬中會江州。臨發,其帳下將張達、 范彊殺飛,以其首順流奔孫權。漢主聞飛營都督有表,曰:「噫,飛死矣!」

劉備は、関羽が死んだことを恥じ、孫権を撃とうとした。翊軍将軍の趙雲は、「ほんとうの国賊は曹操です。孫権ではない」反対した。

趙雲別伝の話です。なんで、載せちゃったかなあ。

みな出兵を諌めた。劉備は、ゆるさない。廣漢の處士・秦宓は、孫権攻めに反対したせいで、獄に幽閉された。のちに獄から出た。

221年秋7月、諸葛瑾が劉備に外交する

秋,七月,漢主自率諸軍擊孫權,權遣使求和於漢。南郡太守諸葛瑾遺漢主箋曰: 「陛下以關羽之親,何如先帝?荊州大小,孰與海內?俱應仇疾,誰當先後?若審此數, 易於反掌矣。」漢主不聽。

221年秋7月、みずから劉備は、孫権を撃った。孫権は、南郡太守の諸葛瑾に、手紙を書かせた。「曹魏を倒すのが先ではありませんか」と。

諸葛瑾は、南郡太守という役職を負っているから、手紙を書いたのかも? 攻められる土地の責任者だから。もちろん、諸葛亮との血縁とか、魯粛とのつながりとか、も考慮されただろうが。

劉備は、諸葛瑾の意見を聞かない。

時或言瑾別遣親人與漢主相聞者,權曰:「孤與子瑜,有死 生不易之誓,子瑜之不負孤,猶孤之不負子瑜也。」然謗言流聞於外,陸遜表明瑾必無 此,宜有以散其意。權報曰:「子瑜與孤從事積年,恩如骨肉,深相明究。其為人,非 道不行,非義不言。玄德昔遣孔明至吳,孤嘗語子瑜曰:『卿與孔明同產,且弟隨兄, 於義為順,何以不留孔明?孔明若留從卿者,孤當以書解玄德,意自隨人耳。』子瑜答 孤言:『弟亮已失身於人。委質定分,義無二心。弟之不留,猶瑾之不往也。』其言足 貫神明,今豈當有此乎!前得妄語文疏,即封示子瑜,並手筆與之。孤與子瑜可謂神交, 非外言所間,知卿意至,輒封來表以示子瑜,使知卿意。」

ときにある人が孫権に、「諸葛瑾が劉備と通じています」と言った。孫権は、「諸葛瑾は私を裏切らないように、私が諸葛瑾を裏切ることもない」と言った。陸遜は孫権の言葉を聞き、諸葛瑾を信じた。
かつて諸葛瑾は、「私が孫権さまに仕えるように、諸葛亮は劉備に仕えています。諸葛亮に、劉備を裏切らせることはできません」と言った。

諸葛瑾と孫権のむすびつきは、かなり個人的。魯粛と同系統だと思う。孫策につかえず、孫権につかえたグループである。


漢主遣將軍吳班、馮習攻破 權將李異、劉阿等於巫,進軍秭歸,兵四萬餘人,武陵蠻夷皆遣使往請兵。權以鎮西將 軍陸遜為大都督、假節,督將軍硃然、潘璋、宋謙、韓當、徐盛、鮮於丹、孫桓等五萬 人拒之。

劉備は、吳班と馮習に、孫権の将軍である李異と劉阿らを、巫県で破らせた。劉備は、秭歸に進んだ。兵は4万余人。武陵の蠻夷が、みな劉備についた。
孫権は、鎮西將 軍の陸遜を、大都督、假節とした。陸遜は、將軍の硃然、潘璋、宋謙、韓當、徐盛、鮮於丹、孫桓ら5万人で、劉備をふせいだ。

皇弟鄢陵侯彰、宛侯據、魯陽侯宇、譙侯林、贊侯兗、襄邑侯峻、弘農侯斡、壽春 侯彪、歷城侯徽、平輿侯茂皆進爵為公;安鄉侯植改封鄄城侯。
築陵雲台。
初,帝詔群臣,令料劉備當為關羽出報孫權否,眾議鹹雲:「蜀小國耳,名將唯羽。 羽死軍破,國內憂懼,無緣復出。」侍中劉曄獨曰:「蜀雖狹弱,而備之謀欲以威武自 強,勢必用眾以示有餘。且關羽與備,義為君臣,恩猶父子。羽死,不能為興軍報敵, 於終始之分不足矣。」

曹彰ら、曹丕の弟たちは、公に進んだ。曹植だけは鄄城侯である。
曹丕は、陵雲台を築いた。
はじめ郡臣は「関羽が死んだので、劉備はもう出撃しない」と言った。侍中の劉曄だけが「劉備と関羽は、父子のようなものだった。劉備は出撃するだろう」と見ぬいた。

221年8月、孫権が曹丕に降伏して、呉王となる

八月,孫權遣使稱臣,卑辭奉章,並送於禁等還。朝臣皆賀,劉 曄獨曰:「權無故求降,必內有急。權前襲殺關羽,劉備必大興師伐之。外有強寇,眾 心不安,又恐中國往乘其釁,故委地求降,一以卻中國之兵,二假中國之援,以強其眾 而疑敵人耳。天下三分,中國十有其八。吳、蜀各保一州,阻山依水,有急相救,此小 國之利也。今還自相攻,天亡之也,宜大興師,逕渡江襲之。蜀攻其外,我襲其內,吳 之亡不出旬月矣。吳亡則蜀孤,若割吳之半以與蜀,蜀固不能久存,況蜀得其外,我得 其內乎!」帝曰:「人稱臣降而伐之,疑天下欲來者心,不若且受吳降而襲蜀之後也。」 對曰:「蜀遠吳近,又聞中國伐之,便還軍,不能止也。今備已怒,興兵擊吳,聞我伐 吳,知吳必亡,將喜而進與我爭割吳地,必不改計抑怒救吳也。」帝不聽,遂受吳降。

221年8月、孫権は臣を称して、于禁を送り返した。みな曹丕を祝った。
だが劉曄だけは「孫権は、劉備に攻められたから、かりに降伏を言っているだけです。孫権を撃つべきです。劉備は、自然と枯れます」と言った。
曹丕は「孫権は、降ってきた。降った人を攻めては、私に降る人が続かなくなる」と、劉曄を却下した。


於禁鬚髮皓白,形容憔悴,見帝,泣涕頓首。帝慰喻以荀林父、孟明視故事,拜安 遠將軍,令北詣鄴謁高陵。帝使豫於陵屋畫關羽戰克、龐德憤怒、禁降服之狀。禁見, 慚恚發病死。

于禁は、髪もヒゲも白くなり、憔悴した。曹丕は、于禁が関羽に降伏している絵を見せて、于禁を病死させた。

丁巳,遣太常邢貞奉策即拜孫權為吳王,加九錫。劉曄曰:「不可。先帝征伐天下, 十兼其八,威震海內;陛下受禪即真,德合天地,聲暨四遠。權雖有雄才,故漢票騎帆 軍、南昌侯耳,官輕勢卑。士民有畏中國心,不可強迫與成所謀也。不得已受其降,可 進其將軍號,封十萬戶侯,不可即以為王也。夫王位去天子一階耳,其禮秩服御相亂也。 彼直為侯,江南士民未有君臣之分。我信其偽降,就封殖之,崇其位號,定其君臣,是 為虎傅翼也。權既受王位,卻蜀兵之後,外盡禮以事中國,使其國內皆聞,內為無禮以 怒陛下;陛下赫然發怒,興兵討之,乃徐告其民曰:『我委身事中國,不愛珍貨重寶, 隨時貢獻,不敢失臣禮,而無故伐我,必欲殘我國家,俘我人民認為僕妾。』吳民無緣 不信其言也。信其言而感怒,上下同心,戰加十倍矣。」又不聽。諸將以吳內附,意皆 縱緩,獨征南大將軍夏侯尚益修攻守之備。山陽曹偉,素有才名,聞吳稱籓,以白衣與 吳王交書求賂,欲以交結京師,帝聞而誅之。
吳人城武昌。

8月丁巳、太常の邢貞を孫権におくり、孫権を呉王とした。九錫を加えた。劉曄は、呉王に封じることに、反対した。曹丕は、劉曄を却下した。

劉曄のセリフは、上記リンクを参照。文帝紀からも、引かれているかなあ。やらねば。劉曄だけが、孫権を見抜いているというのは、おもしろい。

諸将は、孫権が付いたので、気持ちがゆるんだ。征南将軍の夏侯尚だけが、攻撃の準備をした。山陽の曹偉は、孫呉が藩屏になったと聞き、孫権との交際を求めた。曹丕は、曹偉を殺した。

曹偉は、魏諷とおなじように、謀反をたくらんだ? 分からんなあ。後日やる。

孫呉は、武昌に城を築いた。

「吳人城武昌」たった5文字だが。孫権が築城するとは、曹丕に心服していないことを、ほんのり表す。うまいなあ。


221年冬、孫権と軻比能が、独立し始めます。つづく。