221年冬、孫権と軻比能の抵抗
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
221年冬、楊彪の引退、張既の河西平定
初,帝欲以楊彪為太尉,彪辭曰:「嘗為漢朝三公,值世衰亂,不能立尺寸之益,
若復為魏臣,於國之選,亦不為榮也。」帝乃止。
冬,十月,己亥,公卿朝朔旦,並引
彪,待以客禮。賜延年杖、馮幾,使著布單衣、皮弁以見;拜光祿大夫,秩中二千石;
朝見,位次三公;又令門施行馬,置吏卒,以優崇之。年八十四而卒。
以谷貴,罷五銖錢。
はじめ曹丕は、楊彪を太尉にしたい。楊彪は「私は漢室の三公でした。また曹魏の三公には、なれません」とことわった。曹丕は、あきらめた。
221年冬10月己亥、曹丕は楊彪を、光祿大夫とした。三公につぐ待遇を与えた。楊彪は、84歳で死んだ。
穀物が高いので、五銖錢をやめた。
涼州盧水胡治元多等反,河西大擾。帝召鄒岐還,以京兆尹張既為涼州刺史,遣護 軍夏侯儒、將軍費曜等繼其後。胡七千餘騎逆拒既於鸇陰口,既揚聲軍從鸇陰,乃潛由 且次出武威。胡以為神,引還顯美。既已據武威,曜乃至,儒等猶未達。既勞賜將士, 欲進軍擊胡,諸將皆曰:「士卒疲倦,虜眾氣銳,難與爭鋒。」既曰:「今軍無見糧, 當因敵為資。若虜見兵合,退依深山,追之則道險窮餓,兵還則出候寇鈔,如此,兵不 得解,所謂一日縱敵,患在數世也。」遂前軍顯美。
涼州の盧水で、胡族の治元多らが曹丕に反した。黄河の西は、みだれた。
(引用はじめ)北上する黄河の東側は農耕可能地帯。黄河の西側,後漢の并州の西半分は、遊牧民の居住地。黄河の屈曲部を歴史学的には、オルドス地方と呼ぶ。オルドスでの農耕が本格的に始まったのは、農業技術の進歩した明清期。当時の長安は、常に南匈奴を真北に抱えていた。(引用おわり)
曹丕は、鄒岐を還した。京兆尹の張既を、涼州刺史とした。護
軍の夏侯儒、將軍の費曜らを、張既につづかせた。張既は、7千騎の胡族と戦った。張既は士卒をはげまし、顯美に進んだ。
十一月,胡騎數千,因大風欲放火
燒營,將士皆恐。既夜藏精卒三千人為伏,使參軍成公英督千餘騎挑戰,敕使陽退。胡
果爭奔之,因發伏截其後,首尾進擊,大破之,斬首獲生以萬數,河西悉平。
後西平□
光反,殺其郡守。諸將欲擊之,既曰:「唯光等造反,郡人未必悉同。若便以軍臨之,
吏民、羌、胡必謂國家不別是非,更使皆相持著,此為虎傅翼也。光等欲以羌、胡為援,
今先使羌、胡鈔擊,重其賞募,所虜獲者,皆以畀之。外沮其勢,內離其交,必不戰而
定。」乃移檄告諭諸羌,為光等所詿誤者原之,能斬賊帥送首者當加封賞。於是光部黨
斬送光首,其餘皆安堵如故。
221年11月、張既は胡族を破り、黄河の西は鎮まった。
のちに西平の某光が反して、太守を殺した。張既は外交して、羌族や胡族を分断して、平定した。
221年11月、曹丕と孫権の外交
邢貞至吳,吳人以為宜稱上將軍、九州伯,不當受魏封。吳王曰:「九州伯,於古
未聞也。昔沛公亦受項羽封為漢王,蓋時宜耳,復何損邪!」遂受之。
吳王出都亭候邢
貞,貞入門,不下車。張昭謂貞曰:「夫禮無不敬,法無不行。而君敢自尊大,豈以江
南寡弱,無方寸之刃故乎!」貞即遽下車。中郎將琅邪徐盛忿憤,顧謂同列曰:「盛等
不能奮身出命,為國家並許、洛,吞巴、蜀,而令吾君與貞盟,不亦辱乎!」因涕泣橫
流。貞聞之,謂其徒曰:「江東將相如此,非久下人者也。」
魏の邢貞は、呉にきた。呉人は孫権に「上将軍」「九州伯」を勧め、魏の封国になることに反対した。孫権は「九州伯とは、前例がない。劉邦ですら、項羽に漢王に封じられた。曹丕に封じられるのは、時宜にかなっている」として、魏の封国となった。
邢貞は、孫権をあなどって、車を降りなかった。張昭は、邢貞をしかりつけた。中郎將をつとめる琅邪の徐盛は、魏の使者に辱められたことに、涙を流した。邢貞はこれを聞き「江東の人たちは、ながくは曹魏の下にはいないな」と語った。
吳王遣中大夫南陽趙咨入 謝。帝問曰:「吳王何等主也?」對曰:「聰明、仁智、雄略之主也。」 帝問其狀,對 曰:「納魯肅於凡品,是其聰也;拔呂蒙於行陳,是其明也;獲於禁而不害,是其仁也; 取荊州兵不血刃,是其智也;據三州虎視於天下,是其雄也;屈身於陛下,是其略也。」 帝曰:「吳王頗知學乎?」咨曰:「吳王浮江萬艘,帶甲百萬,任賢使能,志存經略, 雖有餘閒,博覽書傳,歷史籍,採奇異,不效書生尋章摘句而已。」帝曰:「吳可征 否?」對曰:「大國有征伐之兵,小國有備御之固。」帝曰:「吳難魏乎?」對曰: 「帶甲百萬,江、漢為池,何難之有!」帝曰:「吳如大夫者幾人?」對曰:「聰明特 達者,八九十人;如臣之比,車載斗量,不可勝數。」
孫権は、中大夫をつとめる南陽の趙咨を、曹丕に送った。趙咨は、曹丕からのイジワルな質問を、機転で切りかえした。「私くらいの聡明さの者なら、車に乗せて量るほど、いくらでもいます」と。
帝遣使求雀頭香、大貝、明珠、 象牙、犀角、玳瑁、孔雀、翡翠、斗鴨、長鳴雞於吳。吳群臣曰:「荊、揚二州,貢有 常典。魏所求珍玩之物,非禮也,宜勿與。」吳王曰:「方有事於西北,江表元元,恃 主為命。彼所求者,於我瓦石耳,孤何惜焉!且彼在諒闇之中,而所求若此,寧可與言 禮哉!」皆具以與之。
曹丕は孫権に、南方の珍しい宝を要求した。孫権は、惜しまずに贈った。
吳王以其子登為太子,妙選師友,以南郡太守諸葛瑾之子恪、綏遠將軍張昭之子休、
大理吳郡顧雍之子譚、偏將軍廬江陳武之子表皆為中庶子,入講詩書,出從騎射,謂之
四友。登接待僚屬,略用布衣之禮。
孫権は、孫登を王太子とした。
孫登に、師友をつけた。南郡太守をつとめる諸葛瑾の子、諸葛恪。綏遠將軍をつとめる張昭の子、張休。大理をつとめる吳郡の顧雍の子、顧譚。偏將軍をつとめる廬江の陳武の子、陳表。4人は中庶子となり、詩書や騎射をした。四友と呼ばれた。孫登は、布衣之禮で、属僚たちと会った。
221年12月、半独立した孫権の酒宴
十二月,帝行東巡。
帝欲封吳王子登為萬戶侯,吳王以登年幼,上書辭不受;復遣西曹掾吳郡沈珩入謝,
並獻方物。帝問曰:「吳嫌魏東向乎?」珩曰:「不嫌。」曰:「何以?」曰:「信恃
舊盟,言歸於好,是以不嫌;若魏渝盟,自有豫備。」又問:「聞太子當來,寧然乎?」
珩曰:「臣在東朝,朝不坐,宴不與,若此之議,無所聞也。」帝善之。
221年12月、曹丕は東へ巡った。
曹丕は、孫登を差し出せと命じたが、孫権がこばんだ。孫権は、西曹掾をつとめる吳郡の沈珩を曹丕に送り、奉献した。曹丕は、沈珩に聞いた。「孫権は、魏軍が東にくるのを、嫌がるか」と。沈珩は答えた。「嫌がりません。同盟国ですから。でももし魏軍が同盟を破るなら、孫呉にも備えがあります」と。
曹丕は「孫登が、魏に来ると聞いたが、ほんとうか」と聞いた。沈珩は「私は朝廷に出席しておりません。知りません」と答えた。曹丕は、沈珩を評価した。
吳王於武昌臨釣台飲酒,大醉,使人以水灑群臣曰:「今日酣飲,惟醉墮台中,乃
當止耳!」張昭正色不言,出外,車中坐。王遣人呼昭還入,謂曰:「為共作樂耳,公
何為怒乎?」昭對曰:「昔紂為糟丘酒池,長夜之飲,當時亦以為榮,不以為惡也。」
王默然慚,遂罷酒。
吳王與群臣飲,自起行酒,虞翻伏地,陽醉不持;王去,翻起坐。
王大怒,手劍欲擊之,侍坐者莫不惶遽。惟大司農劉基起抱王,諫曰:「大王以三爵之
後,手殺善士,雖翻有罪,天下孰知之!且大王以能容賢蓄眾,故海內望風;今一朝棄
之,可乎!」王曰:「曹孟德尚殺孔文舉,孤於虞翻何有哉!」基曰:「孟德輕害士人,
天下非之。大王躬行德義,欲與堯、舜比隆,何得自喻於彼乎?」翻由是得免。王因敕
左右:「自今酒後言殺,皆不得殺。」基,繇之子。
孫権は、武昌の釣台で、墜落するまで酒を飲んだ。張昭が孫権をいさめた。「孫権さんは、殷の紂王とおなじことを、している。自分で認識していないだろうが」と。孫権は、酒宴をやめた。
孫権が酒をついだとき、虞翻は酔ったふりをして、倒れた。孫権は、虞翻を斬ろうとした。「曹操は、孔融を斬った。私が虞翻を斬ってもよい」と。劉基がいさめた。劉基は、劉繇の子である。
221年、鮮卑の大人・軻比能がつよくなる
初,太祖既克蹋頓,而烏桓浸衰,鮮卑大人步度根、軻比能、素利、彌加、厥機等 因閻柔上貢獻,求通市,太祖皆表寵以為王。軻比能本小種鮮卑,以勇健廉平為眾所服, 由是能威制餘部,最為強盛。自雲中、五原以東抵遼水,皆為鮮卑庭,軻比能與素利、 彌加割地統御,各有分界。軻比能部落近塞,中國人多亡叛歸之;素利等在遼西、右北 平、漁陽塞外,道遠,故不為邊患。帝以平虜校尉牽招為護鮮卑校尉,南陽太守田豫為 護烏桓校尉,使鎮撫之。
はじめ曹操が蹋頓に克ち、烏丸は衰えた。鮮卑の大人である步度根、軻比能らは、閻柔をとおして貢献と通交をした。曹操は、鮮卑を王とした。軻比能は弱小だったが、強盛になった。雲中から五原は、東は遼水まで、鮮卑の版図となった。漢族をおびやかした。
曹丕は、平虜校尉の牽招を、護鮮卑校尉とした。南陽太守の田豫を、
護烏桓校尉とした。牽招と田豫に、異民族を鎮撫させた。101116