前1年、前漢哀帝が崩じ、王莽が再登場
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
なぜ三国サイトが、王莽をするか。曹操たちが学んだ「歴史」を知ることが、三国を知る手段になると思うからです。宜しければ、お付き合いください。
前1年春、異民族50ヶ国が、朝貢する
春,正月,匈奴單于及烏孫大昆彌伊秩靡皆來朝,漢以為榮。是時西域凡五十國, 自譯長至將、相、侯、王皆佩漢印綬,凡三百七十六人;
而康居、大月氏、安息、罽賓、 烏弋之屬,皆以絕遠,不在數中,其來貢獻,則相與報,不督錄總領也。
前1年春正月、匈奴の单于と、烏孫の大昆弥と、伊秩靡が、みな来朝した。前漢は栄えている。このとき西域には、50ヶ国ある。
西域の人は、訳長の担当者から、部将、大臣、王侯にいたるまで、みな漢の印綬をつけた。いま、376人がきた。
だが、康居、大月氏、安息、罽賓、
烏弋などは、とても遠いので、今回の376人には、含まれない。前漢に貢献して、連絡をよこすだけだ。前漢の都護の下に、入っていない。
是時上以大歲厭勝所在,捨單于上林苑蒲陶宮,告之以加敬於單于;單于知之, 不悅。
黄龍年間より、単于がくるごとに、錦などの宝物をあたえた。単于は、前漢の郡臣のうち、董賢が若いので、これを怪しんだ。単于は、訳長を通じて、問うた。哀帝は、単于に答えた。「大司馬の董賢は、若いけれど、賢いから抜擢したのだ」と。単于は、立ち上がった。前漢が賢臣を用いていることを、祝った。
このとき大歳だから、哀帝は、厭勝所在。
単于は、上林苑の蒲陶宮に泊まった。
単于を蒲陶に泊めて、単于を敬おうとした。単于はこれを知り、喜ばなかった。
【追記】Golden_hamster(T_S)氏より、ご指摘。
(引用はじめ)帝は単于に天文の呪いをかけるために単于を蒲陶宮に置き、単于には「これは単于を敬った特別扱いです」と言い訳した、と。
「太歲厭勝所在」は自分も説明できないけど、木星の運行で単于に呪いをかけるようなことが出来る(と信じられた)のだろう。葡萄宮はそれに適した方角なのだと思われる。「告之以加敬於單于」は、「単于には「敬意を払っているんですよ」と(本意を隠して)告げた」。単于は嬉しくないに決まってる。(引用おわり)
前1年夏、哀帝が死ぬ
五月,甲子,正三公官分職。大司馬、衛將軍董賢為大司馬;丞相孔光為大司徒; 御史大夫彭宣為大司空,封長平侯。
前1年夏4月、壬辰みそか、日食した。
5月甲子、三公の職掌を、整理した。
大司馬・衛將軍をする董賢を、大司馬とした。丞相をする孔光を、大司徒とした。御史大夫をする彭宣を、大司空として、長平侯に封じた。
胡三省がひく『漢書』恩沢侯表はいう。長平侯は、済南郡に封地がある。
帝睹孝成之世祿去王室,及即位,屢誅大臣,欲強主威以則武、宣。然而寵信讒諂, 憎疾忠直,漢業由是遂衰。
前1年6月戊午、哀帝は未央宮で死んだ。
哀帝は、成帝のとき、皇帝が政治をしていないのを見た。だから哀帝は、しばしば大臣を誅した。哀帝は皇帝権力を、武帝や宣帝のように、強めたい。
顔師古はいう。武帝や宣帝のとき、法に則って、政治した。
しかし哀帝は、讒諂な人材をもちい、忠直な人材をにくみ、前漢を衰えさせてしまった。
ぼくは思う。ひとりも分からん!がんばれ、ぼく。董賢の評価が、前の単于のときと、正反対なのが気になる。董賢は、へつらっただけの人物?
前1年夏、王莽が董賢に代わる
太皇太后の王氏は、哀帝が死んだ日に、未央宮にきた。皇帝の璽綬を、おさめた。太后は、大司馬の董賢を召した。董賢に、哀帝の葬儀の手はずを問うた。董賢は、手はずが分からない。太后は言った。「新都侯の王莽は、かつて大司馬として、成帝の葬儀をしきった。王莽に、董賢を補佐させよう」と。董賢は頓首して言った。「すばらしい」と。
王太后は、王莽を召した。
太后は詔して、王莽に、権限をつけた。兵を発する権限、百官に上奏させる権限、中黄門と期門兵を指揮する権限が、王莽についた。
ぼくは思う。王莽の再登場と逆転劇は、ここから始まる。かつて王莽は、成帝のとき大司馬になった。哀帝に敵視され、新都侯に左遷されていた。
王莽は太后に指名されたから、権限がある。王莽は尚書に、董賢を弾劾させた。董賢は、哀帝が病気なのに、医薬を飲まさなかった。
(引用はじめ)「使尚書劾賢帝病不親醫藥」を「哀帝が病気なのに、医薬を飲まさなかった。」と訳していますが、おそらく少し不足かと。飲ませないを責められたのではなく、たぶん「自分で毒見しなかった」のを責められているのだと思われます。「親」は「自分でする」というイメージの語。
つまり「董賢、お前さんがちゃんと毒見していれば陛下は死ななかったんじゃないのか?」と言われているのだ。当時の医薬は毒と紙一重なので(今もか)、分量を誤ったことによる事故死だったのだろうか。それとも、治療のふりした毒殺だったということなのか。どっちにしろ自然死ではないということだ。
「自分で毒見」あるいは「自分で投薬」か。いずれにしろ、いつも皇帝のそばにいたという董賢が、肝心な医薬を自分で世話せずにいたために皇帝は死ぬ羽目になったんだぞ、ということ。 (引用おわり)
王莽は、董賢が宮殿の司馬中に入れないようにした。
ぼくは思う。王莽は門兵を掌握して、名目でも物理的にも、支配を始めた。
董賢は、なすスベなし。冠をぬぎ、はだしで謝った。
6月己未、王莽は謁者をやり、太后の詔を董賢に命じた。「董賢は若くて、道理を分かっていないくせに、大司馬になった。董賢は、大司馬の印綬を返し、宮殿より去れ」と。その日のうちに、董賢とその妻は、自殺した。
董賢の家人は、恐れて、夜に董賢を葬った。王莽は、董賢の自殺がウソだと疑った。董賢の棺を掘り起こし、死体を確認した。死体を獄中に埋めた。
前1年夏、ふたたび王莽が大司馬となる
王太皇太后は詔した。「大司馬の適任者をあげよ」と。
王莽は、かつて大司馬だったが、敵対する外戚・丁氏や傅氏に、大司馬を辞めさせられた。だが王莽の賢さは、みなに評価されていた。
また王莽は、太皇太后の近親である。大司徒の孔光をはじめ、みな王莽を大司馬に推した。
於是武舉 公孫祿可大司馬,而祿亦舉武。
前将軍の何武と、左将軍の皇孫祿は、2人で謀って言った。「恵帝や昭帝のとき、外戚の呂氏や霍氏や上官氏が、権力を持った。前漢を危うくした。いま成帝と哀帝は、子がいない。もし幼い皇帝を立てたら、外戚が権力を持つだろう。王莽はいけない」
胡三省はいう。「親疏相錯」の「親」は、外戚のこと。「疏」は、劉氏でない異姓を、将軍や公卿とすること。顔師古はいう。「錯」はゴチャゴチャに混ざること。胡三省はいう。「為國計便」とは、便宜をはかれ、ということ。
ここにおいて何武は、皇孫祿を大司馬にあげた。皇孫祿は、何武を大司馬にあげた。
太皇太后與莽議立嗣。安陽侯王舜,莽之從弟,其人修飭,太皇太后所信愛也,莽 白以舜為車騎將軍。
秋,七月,遣舜與大鴻臚左鹹使持節迎中山王箕子以為嗣。
6月庚申、王太皇太后は、王莽を大司馬、領尚書事とした。
王太皇太后は、王莽と皇帝をさがした。安陽侯の王舜は、王莽の従弟である。王舜は、人柄が整っているので、王太皇太后に信愛された。
王莽は、王舜を車騎将軍にした。
前1年秋7月、王舜は、大鴻臚の左鹹とともに、持節を持った。中山王の劉箕子を、つぎの皇帝とした。
前1年秋、王莽が敵対する外戚をつぶす
王莽は、成帝の皇后を、北宮にうつした。哀帝の皇后を、桂宮にうつした。王莽に敵対した外戚・傅氏と丁氏は、みな免官された。
傅氏のうち、傅喜だけは、王莽に用いられた。傅喜は孤立して、国に去った。王莽は、傅太后と丁太后をおとしめ、定陶王母と丁姫とした。
王莽は、もと大司馬・董賢の一族を弾圧した。
王莽は、大司空の孔光を敬った。孔光の娘婿・甄邯を侍中、奉車都尉とした。王莽は、孔光と王太后の威光を、身につけた。あえて孔光は、王莽に文句を言わない。王太后は、王莽の政策を、すぐに、すべて許した。
前1年秋、だれも王莽に逆らえない
又奏董宏子高昌侯武父為佞邪,奪 爵。
又奏南郡太守毋將隆前為冀州牧,治中山馮太后獄,冤陷無辜,關內侯張由誣告骨 肉,中太僕史立、泰山太守丁玄陷人入大辟,河內太守趙昌譖害鄭崇,幸逢赦令,皆不 宜處位在中土,免為庶人,徙合浦。中山之獄,本立、玄自典考之,但與隆連名奏事; 莽少時慕與隆交,隆不甚附,故因事擠之。
何武と公孫祿を、任国に左遷した。董宏の爵位をうばった。中山の馮太后の獄にからめて、王莽は恣意的な裁きをした。
紅陽侯の王立は、王太后の弟である。王莽は、王立をはばかる。王莽は口実をつくり、王立を任国に左遷した。
王莽が上下の人を脅したのは、こんな調子だ。
王莽についた人は抜擢された。王莽をうらんだ人は、誅滅された。
王莽は、思っていることを、オモテに出した。王莽の党与は、王莽の願いを察して、上奏した。そのくせ、王莽は涙を流して、上奏の内容をこばんだ。王莽は、王太后を惑わした。王莽は下々の人に、信を示した。
前1年8月~、平帝が即位し、孔光が太傅に
大司空彭宣以王莽專權,乃上書言:「三公鼎足承君;一足不任,則覆亂美實。臣 資性淺薄,年齒老眊,數伏疾病,昏亂遺忘,願上大司空、長平侯印綬,乞骸骨歸鄉里, 俟寘溝壑。」莽白太后策免宣,使就國。莽恨宣求退,故不賜黃金、安車、駟馬。宣居 國數年,薨。
戊午,右將軍王崇為大司空,光祿勳東海馬宮為右將軍,左曹、中郎將甄豐為光祿勳。
前1年8月。王莽は、成帝の皇后と、哀帝の皇后を、庶人におとした。この日、2人の皇后は自殺した。
大司空の彭宣は、王莽を非難した。「三公は、鼎のように皇帝を支える。王莽は三公の1人なのに、バランスを崩している。私は大司空を返上して、引退したい」と。王莽は、彭宣に退職金を与えず。帰国して数年で、彭宣は死んだ。
平帝年九歲,太皇太后臨朝,大司馬莽秉政,百官總己以聽於莽。莽權日盛,孔光 憂懼,不知所出,上書乞骸骨;莽白太后,帝幼少,宜置師傅,徙光為帝太傅,位四輔, 給事中,領宿衛、供養,行內署門戶,省服御食物。以馬宮為大司徒,甄豐為右將軍。
前1年9月辛酉、中山王が皇帝となる。大赦した。
平帝は9歳だ。王太皇太后が、臨朝した。大司馬の王莽が、すべて政治をみた。王莽は日に日に盛んだ。孔光は、引退を申し出た。王莽は、平帝が幼いから「師傅」をおいた。孔光を太傅にとし、位は四輔とした。孔光は、禁中の諸事を、しきった。
馬宮を大司徒とした。甄豊を右将軍とした。
前1年冬10月壬寅、哀帝を義陵に葬った。101122