表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

098年-101年、燒當羌を解体する

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

098年、ついに、燒當羌の迷唐が降る

孝和皇帝下永元十年(戊戌,公元九八年) 夏,五月,京師大水。 秋,七月,己巳,司空韓稜薨。八月,丙子,以太常太山巢堪為司空。
冬,十月,五州雨水。 行征西將軍劉尚、越騎校尉趙世坐畏懦征,下獄,免。謁者王信領尚或屯枹罕,謁 者耿譚領世營屯白石。譚乃設購賞,諸種頗來內附,迷唐恐,乃請降;信、譚遂受降罷 兵。十二月,迷唐等率種人詣闕貢獻。

098年夏5月、京師で大水あり。
098秋7月己巳、司空の韓稜が薨じた。8月丙子、太常する太山の巢堪を、司空とした。
098年冬10月、五州で雨水あり。
行征西將軍の劉尚と、越騎校尉の趙世は、遠征で畏懦したから、下獄してクビ。謁者の王信は、劉領の軍営を、枹罕領した。謁者の耿譚は、趙世の軍営を、白石(隴西)で領した。耿譚は、迷唐を降した。098年12月、迷唐らは、後漢に貢獻した。

戊寅,梁節王暢薨。初,居巢侯劉般薨,子愷當嗣,稱父遺意,讓其弟憲,遁逃久 之,有司奏請絕愷國。肅宗美其義,特優假之,凱猶不出。積十餘歲,有司復奏之,侍 中賈逵上書曰:「孔子稱『能以禮讓為國乎何有』。有司不原樂善之心,而繩以循常之 法,懼非長克讓之風,成含弘之化也。」帝納之,下詔曰:「王法崇善,成人之美,其 聽憲嗣爵。遭事之宜,後不得以為比。」乃征愷,拜為郎。
南單于師子死,單于長之子檀立,為萬氏屍逐鞮單于。

098年戊寅、梁節王の劉暢が薨じた。
はじめ(088年)、居巢(廬江)侯の劉般が薨じた。子の劉愷は、父の遺意をうけ、弟の劉憲に譲って、遁逃した。有司は、劉愷を責めて、居巣侯をとりつぶせと言う。侍中の賈逵が、孔子に照らし、劉愷を弁護した。10数年後、和帝は劉愷をゆるし、弟の劉憲に侯を嗣がせた。劉愷を、郎とした。
南單于の師子が死んだ。長之の檀が立つ。萬氏屍逐鞮單于となる。

099年、中大夫の魯丕が、漢の儒教を論ず

   孝和皇帝下永元十一年(己亥,公元九九年)
夏,四月,丙寅,赦天下。
帝因朝會,召見諸儒,使中大夫魯丕與侍中賈逵、尚書令黃香等相難數事,帝善丕 說,罷朝,特賜衣冠。丕因上疏曰:「臣聞說經者,傳先師之言,非從己出,不得相讓; 相讓則道不明,若規矩權衡之不可枉也。難者必明其據,說者務立其義,浮華無用之言, 不陳於前,故精思不勞而道術愈章。法異者各令自說師法,博觀其義,無令芻蕘以言得 罪,幽遠獨有遺失也。」

099年夏4月丙寅、天下を赦した。
和帝は、儒者をあつめた。中大夫の魯丕と、侍中の賈逵と、尚書令の黃香らに、むずかしいテーマを議論させる。和帝は、魯丕をもちいた。魯丕に、衣冠をたまう。魯丕は上疏した。「儒教の経書を説くひとは、先師の教えを伝えるだけだ。私のアイディアではない。難しいことに答えられたのも、先師の教えを踏まえただけだ」と。

100年、飢えた燒當羌は、恩を仇でかえす

   孝和皇帝下永元十二年(庚子,公元一零零年)
夏,四月,戊辰,秭歸山崩。 秋,七月,辛亥朔,日有食之。 九月,戊午,太尉張酺免。丙寅,以大司農張禹為太尉。
燒當羌豪迷唐既入朝。其餘種人不滿二千,饑窘不立,入居金城。帝令迷唐將其種 人還大、小榆谷;迷唐以漢作河橋,兵來無常,故地不可復居,辭以種人饑餓,不肯遠 出。護羌校尉吳祉等多賜迷唐金帛,令糴谷市畜。促使出塞,種人更懷猜驚。是歲,迷 唐復叛,脅將湟中諸胡寇鈔而去,王信、耿譚、吳祉皆坐征。

100年夏4月戊辰、秭歸山(南郡)が崩れた。
100年秋7月辛亥ついたち、日食した。9月戊午、太尉の張酺を免じた。9月丙寅、大司農の張禹を、太尉とした。
燒當羌の豪迷唐は、入朝した。燒當羌は、2千人もおらず、飢えて自立できない。護羌校尉の吳祉らは、迷唐に金帛をあたえ、穀物、家畜を買わせた。この歳、迷唐は、ふたたび反した。迷唐は、湟中の諸胡を寇鈔した。王信、耿譚、吳祉らは、みな罪をうけた。

燒當羌のあつかいが、後漢にとって、大きなテーマらしい。『資治通鑑』が、強調しすぎている、だけなのか燒當羌の話題をなくすと、あまりに記述量が減る。そういう事情?


101年、涼州、并州、幽州は、戸数が少ない

   孝和皇帝下永元十三年(辛丑,公元一零一年)
秋,八月,己亥,北宮盛饌門閣火。
迷唐復還賜支河曲,將兵向塞。護羌校尉周鮪與金城太守侯霸及諸郡兵、屬國羌、 胡合三萬人出塞至允川。侯霸擊破迷唐,種人瓦解,降者六千餘口,分徙漢陽、安定、 隴西。迷唐遂弱,遠逾賜支河首,依發羌居。久之,病死,其子來降,戶不滿數十。 荊州雨水。

101年秋8月己亥、北宮の盛饌門閣が、出火した。
迷唐が、後漢を攻めた。護羌校尉の周鮪と、金城太守の侯霸は、諸郡と羌胡の3万をひきい、迷唐の種族を瓦解させた。6千余口がくだる。漢陽、安定、 隴西にうつす。迷唐は病死し、子はくだった。子は、数十に満たない。 荊州で雨水あり。

冬,十一月,丙辰,詔曰:「幽、並、涼州戶口率少,邊役眾劇,束脩良吏進仕路 狹。撫接夷狄,以人為本,其令緣邊郡口十萬以上,歲舉孝廉一人,不滿十萬,二歲舉 一人,五萬以下,三歲舉一人。」鮮卑寇右北平,遂入漁陽,漁陽太守擊破之。 戊辰,司徒呂蓋以老病致仕。 巫蠻許聖以郡收稅不均,怨恨,遂反;辛卯,寇南郡。

101年冬11月丙辰、和帝は詔した。「幽州、并州、涼州は、戸数が減った。良吏に、夷狄を撫接させたい。郡の戸数が10万以上なら、歳に1人の孝廉をあげよ。10万に満たねば、2年に1人の孝廉をあげよ。5万以下なら、3年に1人だ」と。

胡三省は、3州にある郡をあげる。幽州で10万戸をこえるのは、玄ト郡だけ。并州の大きな郡でも、3万余だ。小さい郡では、2千戸に満たない。涼州の大きな郡でも、3万に満たない。敦煌は、748戸しかない。
ぼくは思う。和帝は、10万とか5万とか言っているが、まるで意味がない。また後漢末を読むときは、面積でなく、戸数で、その土地を攻めとる価値を、重みづけしないと。

鮮卑が右北平を寇し、漁陽に入る。漁陽太守は、鮮卑を擊破した。
11月戊辰、司徒の呂蓋は、老病だから致仕した。 巫(南郡)蠻の許聖は、郡の課税が不均衡だから、怨恨して反した。11月辛卯、許聖は南郡を寇した。101227