159-160年、李雲の諫言、黄瓊の改革
『後漢紀』を抄訳します。
159(2) 梁冀を殺し、亳皇后をたてる
〔一〕范書及通鑑「王躬」均作「袁盱」。
はじめ桓帝は、中官と謀略をなした。桓帝は、尚書令の尹勳を召して、謀略をまかせた。もとより桓帝は、梁冀をにくむ。桓帝が恐れたのは、謀略するとき、倉卒(兵士)がパニックになることだ。尹勲は明斷だから、うまく倉卒を動かした。梁冀をころすと、桓帝は尹勲の指揮能力をよみした。
梁冀につらなり、公卿、列侯、校尉、刺史、二千石のうち、死んだのは数十人。梁冀の故吏、賓客で、免絀された人は3百余人。このせいで朝廷は、一空となる。ただ光祿勳の王躬、廷尉の邯鄲義だけが、朝廷にのこった。
〔范曄と司馬光は、「王躬」でなく、「袁盱」が朝廷にのこったとする〕
このとき禁中より使者をはっして、道路に交馳させた。公卿は、判断をうしなう。州府、市朝、閭里は、鼎沸した。数日で、定まった。みな百姓は、快哉した。梁冀の財貨は、王府をみたした。天下の租稅を、半減した。
協字巨勝,周舉之子,玄虛養道,以典墳自娛。初以父任為郎,自免歸,徵辟不就,杜門不出十餘年。及延〔熹〕(嘉)初,乃開門延客,遊談宴樂。是秋梁冀誅,而協亦病卒,識者以為知命〔一〕。 〔一〕識者,蔡邕也。
さきに名行を立てた高節の士は、おおく梁冀に殺害された。みな梁冀にしたがう。ただ周協だけは、志を屈さず、梁冀の殺害をのがれた。ゆえに士人は、周協にふくした。〔范曄は周「協」を、周「勰」とする〕
周協は、あざなを巨勝という。周挙の子だ。玄虛にして道を養い、典墳して、たのしむ。父のおかげで郎に任じられたが、みずから免歸した。徵辟されても、就かず。杜門を10餘年でず。
延熹のはじめ、周協は、客をあつめ、遊談、宴樂した。同年の秋、梁冀がころされた。周協もまた、病死した。識者は、天命を知った。〔識者とは、蔡邕である〕
〔一〕按范書梁冀傳注曰:「香蓋掖庭署人之名也。」不言是鄧禹之孫。又續漢五行志曰:「先是亳后因賤人得幸。」鄧氏貴重,不當屢易其姓,且立為后,不即復鄧氏姓,其非鄧禹后裔明矣。
はじめ梁冀が盛んになると、尚書の陳霸は上疏して、梁冀の罪をとなえ、梁冀をころせと言った。桓帝は、梁冀をころさず。陳霸は、梁冀が殺害されたと知り、7日たべず、死んだ。
8月戊寅、太尉の胡廣、司徒の韓縯は、梁冀に阿附した。死一等を減じられた。8月壬午、亳氏を皇后にたてた。じつは鄧后である。皇后は、鄧香の娘だ。鄧香は、鄧禹の孫だ。
〔范曄の梁冀伝の注釈をみるに。「けだし香は、掖庭の署人の名である」と。鄧禹の孫としない。また司馬彪「五行志」はいう。「これよりさき、亳后は賤人だったが、桓帝から愛された」と。鄧氏は貴重された。しばしば姓を変えるのは、おかしい。また亳氏が皇后になっても、鄧姓にもどらない。鄧禹の後裔でないことは、明らかである〕
はじめ亳皇后の母・鄧宣は、微賤だった。鄧宣は、亳皇后を生んだ。のちに鄧宣が梁紀にとついだので、梁姓となった。梁紀の姊の子は、孫壽である。孫寿は、梁冀の妻である。亳氏が掖庭にはいると、寵愛を受けて、皇后にたつ。梁姓をにくみ、亳氏に改めた。
鄧宣を長安君とした。鄧香に、車騎將軍、安陽侯を追尊した。鄧宣の子・鄧演を、南頓侯に封じた。位は特進。
皇后を鄧氏にもどした。鄧宣を、昆陽君とした。鄧演の子・鄧康を、比陽侯とした。〔司馬彪「郡国志」によると、南陽郡に比陽県がある。范曄は「沘陽」とする〕
賞賜は巨萬。梁冀を平定した功績により、封じた。
〔「宦官を五侯とした」が、脱落している。單超は新豐侯、徐璜は武原侯、貝瑗は東武陽侯、左悺は上蔡侯、唐衡は汝陽侯に封じられた〕
159(3) 李雲が桓帝をいさめ、殺される
白馬令の李雲は上書した。副書(コピー)を、三公府にうつした。「もと大将軍の梁冀をころした謀臣を、萬戸にふうじた。高祖がこれを聞いたら、非難されないか。西北の列將が、納得してくれるか。孔子は言った。「帝は、諦である」と。
〔李賢は『春秋運斗樞』をひく。「五帝は、修名立功し、修德成化し、統調陰陽し、招類使神したから、帝と称した。帝というのは、諦である」と。鄭玄の注釈はいう。「つまびらかに、物や色をあきらめることである」と〕
いま官位がみだれ、小人が高位となる。財貨は公行し、政治は日に日に、おとろえる。桓帝は、諦めたくないか」と。桓帝は大怒した。李雲を、黃門北寺におくる。中常侍の管霸は、御史、廷尉とともに、李雲を雜考した。弘農五官掾の杜眾は、李雲が罪をえたことを、いたんだ。上書して「私・杜衆は、李雲と同日に死にたい」と言った。いよいよ桓帝は怒り、李雲と杜衆を、廷尉にくだした。
大鴻臚陳蕃上疏救雲曰:「臣聞所言,雖不識禁忌于上,其意歸於憂國,但違將順之禮。禮譏暴諫,然亦有狂狷愚忠。不顧誅族之禍者,古今有之。是以高祖忍周昌不諱之言,孝成皇帝赦朱雲腰領之誅〔一〕。二主非不忿,此二臣以忠不思難,皆不罪之。今日殺李雲,天下猶言陛下誅諫臣,所以臣敢觸龍鱗也。」上不從,雲、眾死獄中,蕃免歸田里。
〔一〕漢書朱雲傳曰:雲於公卿前,斥宣帝師張禹尸位素餐,願得尚方斬馬劍以誅之。帝怒,令御史將下死不赦。左將軍辛慶忌免冠叩頭流血諫,上意解。并留雲所折殿檻曰:「勿易!以旌直臣。」
廷尉は「李雲は大逆だ」と言い、中常侍の管霸は「李雲はくるっており、罰する必要はない」と言った。桓帝は言った。「管霸は、李雲に『桓帝は諦めたくない』と言わしておいて、李雲をゆるせと言うのか」と言った。桓帝は、小黃門の吳伉にめいじて、廷尉の上奏をみとめ、李雲を罰した。
大鴻臚の陳蕃は、上疏して李雲を救いたい。「李雲はタブーを吐いたが、国をうれいての発言だ。高祖は周昌をゆるし、成帝は朱雲をゆるした。高祖と成帝は、臣下の発言に怒ったが、ゆるしたのだ。桓帝も、李雲をゆるせ」と。
桓帝は陳蕃をきかず、李雲と杜衆を、獄死させた。陳蕃は免ぜられ、田里に帰った。
〔『漢書』に朱雲伝がある。朱雲は、宣帝の師・張禹を斬れと言った〕
夫諫之為用,政之所難者也。處諫之情不同,故有三科焉。推誠心言之於隱,貴於誠入,不求其功,諫之上也。率其所見,形於言色,面折庭爭,退無後言,諫之中也。顯其所短,明其不可,彰君之失,以為己名,諫之下也。夫不吝其過,與眾功之,明君之所易,庸主之所難。觸其所難,暴而揚之,中諫其猶致患,而況下諫乎?故諫之為道,天下之難事,死而為之,忠臣之所易也。
古之王者,辯方正位,各有其事〔一〕。在朝者必諫,在野者不言,所以明職分,別親疏也。忠愛心至,釋耒而言者,王制所不禁也。無因而去,處言之地難,故君子罕為也。
〔一〕周禮天官冢宰曰:「惟王建國,辨方正位,體國經野,設官分職,以為民極。」
袁宏はいう。君主も臣下も、心がわりしやすい。王朝の末期にあっては、君主と臣下がかみあわない。君主が平凡だと、いさめた臣下は命がけである。
そもそも、自分となんの利害もない過去を「対象」として、「研究」するなんて、不自然なこと。冷静に考えて、意味がない。西洋由来のサイエンスが、そういう精神をもちこんだのだろうが、、袁宏はサイエンティストでない。期待してもいけない。
159年(4) 黄瓊が、梁冀後の改革を期待される
〔一〕十月戊辰朔,無壬寅。范書作十一月事,甚是。疑袁紀有脫文。
10月、桓帝は長安にゆく。章陵をまつる。10月壬寅、中常侍の單超が、車騎將軍となる。
〔10月ついたちは、戊辰である。10月に壬寅はない。范曄は11月のこととする。范曄がただしく、袁宏は脱落がある〕
12月、西戎が塞(長城)をおかした。護羌校尉の段熲が、西戎を討った。天竺国が、來獻した。
もと太尉の黄瓊を、太尉とした。光祿大夫の祝恬を、司徒とした。
〔この記事を、范曄は159年10月より前とする。ときに胡廣と韓縯は、どちらも梁冀にへつらって免じられた。また范曄の黄瓊伝はいう。「黄瓊は病だといい、6、7回も爵封を辞退した。あまりに黄瓊がきつく辞退するので、桓帝はゆるした」とする〕
桓帝は詔した。「太尉の黄瓊は、清儉不撓でしばしば忠謇があり、師傅之義がある。なんども三公を経験し、梁冀にへつらわない。黄瓊を、邟鄉侯とする」と。黄瓊はかたく辞退したが、ゆるされず。
范曄は、後漢にへつらわない、独立心がゆたかな黄瓊を強調した。後漢は腐っているが、臣下はスジを通したと。范曄は、劉宋の人。范曄は後漢をとおい昔の悲劇ととらえ、「後漢がこんなに腐っていたから、魏晋南北朝という、大分裂時代が始まったじゃないか」と怒っている。
袁宏は、後漢だけを悪者にせず、臣下もいっしょになり、王朝をかたむけたと考える。
袁宏は、東晋の人。范曄ほど、後漢から遠くない。後漢-曹魏-両晋のつながりが濃いから、後漢を当事者として把握する。観念にしてしまわない。人文科学がめざすところの「客観的」には、袁宏のほうがちかい。
范曄が、たびたび結論をひっくり返しているとしたら、罪ぶかいなあ!
〔一〕春秋繁露曰:「天不剛則列星亂其行,居不堅則邪臣亂其官。故為天者務剛其氣,為君者務堅其政。」
このとき、梁冀が誅されたばかりで、天下は政治改革をのぞんだ。ゆえに黄瓊を三公とし、州県で不法する人を、上奏させた。死徙された人は、10余人。海内は翕然とし、桓帝の意思をうかがった。
だが、単超ら五侯が専権して、黄瓊には抑えられない。黄瓊は病気だと言い、朝廷にでない。黄瓊は上表した。「桓帝が即位してから、梁冀と宦官がのさばる。富は王公にちかい。梁冀と宦官にさからえば、殺された。もと太尉の李固、杜喬は、梁冀に殺された。みな心をいためた」
〔二〕指和氏先後獻玉璞於楚厲王、武王,玉人不識,指璞為石,因此被刖左右足。文王即位,始命玉人理之,而得寶玉璧。事見韓非子。 〔三〕范書系此表於延熹七年。
黄瓊は上表した。「もと白馬令の李雲は、宦官を批判して、殺された。忠諌は、出てこない。唐衡ら宦官は、梁冀にならぶ。忠臣の尚書令・尹勲も、殺された。みな心をいためた。桓帝は、宦官を重んじるな」と。
〔范曄は、この上表を延熹七年(164)におく〕
いま袁宏がひいた上表で、単超の名がある。単超は、160年に死ぬ。もし上表の原文に、単超の名があるなら、159年に置いたほうが、スッキリする。
160年、桓帝が旧友を列侯とする
延熹三年(160)、正月丙申、天下を大赦した。正月丙午、車騎將軍の單超が薨じた。
閏月、羌族が張掖を寇した。護羌校尉の段熲が、羌族を討った。
5月甲戌、桓帝は詔した。「汝南太守の張彪と、もと河南尹の鮑吉は、私・桓帝とのあいだがらが、潛龍之旧である。2人を列侯とする」
范曄『後漢書』は、後漢の皇帝を、いかにもダメに描く。ぼくらは、民主主義の観点から、范曄に共感してしまいがち。「専制君主って、恣意的でムカつく」と。まったく、マトハズレである。范曄は、皇帝の専権について、文句を言っているのでない。魏晋南北朝の分裂期がはじまるキッカケをつくったことに、范曄は怒りをぶつけているのだ。
九月,泰山盜賊群起。 十二月,中郎將宗資討之。
6月辛酉〔范曄の桓帝紀は、「辛丑」とする〕、司徒の祝恬が薨じた。光祿勳の种暠を、司徒とした。
〔范曄の桓帝紀は、「司空の盛允を、司徒とした」とある。司馬光『通鑑考異』はいう。「祝恬が薨じたのち、盛允が司徒となる。盛允が免じられ、种暠が司徒となる。半年で代わったので、袁宏が誤ったのだ」と〕
袁宏は、もっぱら依拠できる、後漢の史料の決定版を、持っていなかったようだ。ここに、范曄『後漢書』が編纂されるニーズを、見つけることができる。
9月、泰山の盜賊が、群起した。12月、中郎將の宗資が、盗賊を討った。
ここまでが、『後漢紀』巻21でした。つづきます。110602