144年、順帝が崩じ、馬勉が皇帝を称す
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
144年春、趙沖が羌族の伏兵に殺される
144年春、護羌從事する馬玄は、諸羌に誘われた。馬玄は羌族をひきいて、塞外にでた。護羌校尉する衛琚は、馬玄をおい、8百余の首級をとる。
趙沖は、ふたたび叛羌をおい、建威の鸇陰河にきた。
趙沖が国境を越えると、ひきいた降胡6百余人が、叛いてにげた。趙沖は追ったが、羌族の伏兵にあい、趙沖は死んだ。趙沖は死んだが、羌族にダメージを与えた。趙沖の子を、義陽亭侯とした。
144年夏、南匈奴のつぎ、長江の賊へ
144年夏4月、匈奴中郎將の馬寔が、南匈奴の左部を破った。ここにおいて、胡と羌と烏桓は、すべて馬寔に降った。
中常侍高梵從中單駕出迎太子,時太傅杜喬等疑不欲從而未決,暠乃手劍當車曰:「太 子,國之儲副,人命所系。今常侍來,無詔信,何以知非奸邪?今日有死而已!」梵辭 屈,不敢對,馳還奏之。詔報,太子乃得去。喬退而歎息,愧暠臨事不惑;帝亦嘉其持 重,稱善者良久。
4月辛巳、皇子の劉炳を、皇太子とした。改元して、天下を赦した。
太子は、承光宮にいる。順帝は、侍御史する種暠に、太子を監督させた。中常侍の高梵は、車1台で劉炳を迎えにきた。ときに太傅の杜喬らは、皇太子を行かせてよいか、決められない。
種暠は剣をぬき、剣を車にあてた。「皇太子は国のナンバー2だ。詔がないのに、皇太子を連れ出す高梵は、奸賊ではないか。高梵には、死んでもらう」と。高梵は身をまげ、答えられず、ひき返した。
順帝の詔がきて、皇太子は承光宮から去ることができた。杜喬は、種暠のように振舞えなかったことを愧じた。順帝は、種暠をほめた。
でも、ルールはルールとして、厳然としてある。ルールの制定には、背景がある。どんな背景か。皇太子が政敵につれ出され、殺されるリスクだろう。
揚州と徐州で、盜賊が群起した。連年やまず。
144年秋8月、九江の范容、周生らは、城邑を寇掠した。歷陽に拠った。范容は長江や淮水で、巨患となった。御史中丞の馮緄は、州兵で范容を攻めた。
いや、違うのか。南匈奴があばれるあいだ、並行して長江流域も、あばれた。でも後漢は、放置せざるを得なかった。長江流域の「賊」は、挙兵した年数がボカされている。そうとう長く、放置されたんだろう。後漢として不名誉だ。討伐ができたタイミングで、史書にはじめて登場させる。
144年8月、順帝が崩じ、皇甫規が梁冀を批判
144年8月庚午、順帝は玉堂前殿で死んだ。太子が皇帝となる。2歳。梁皇后を、皇太后とした。梁太后が臨朝した。8月丁丑、太尉の趙峻は、太傅となる。大司農の李固は、太尉となり、錄尚書事を参じた。
9月丙午、順帝を憲陵に葬り、廟号を敬宗とした。この日、京師と太原、雁門で、地震した。
9月庚戌、賢良方正な人材をあげさせた。皇甫規は、政策をこたえた。
「順帝は、くだらない小人に惑わされ、ワイロが、はびこりました。大将軍の梁冀と、河南尹の梁不疑の兄弟を除きなさい」
梁冀は怒った。皇甫規を宮殿から下がらせ、郎中とした。皇甫規は病気だと辞退して、帰郷した。皇甫規の故郷では、梁冀をはばかり、皇甫規をもちいず。皇甫規は、10余年くすぶった。
ぼくは補う。質帝のとき、皇甫規は何も提言していないのだ。
144年冬、馬勉が皇帝を称す
冬,十月,日南蠻夷復反,攻燒縣邑。交趾刺史九江夏方招誘降之。
十一月,九江盜賊徐鳳、馬勉等攻燒城邑;鳳稱無上將軍,勉稱皇帝,築營於當塗 山中,建年號,置百官。
揚州刺史の尹耀と、九江太守の鄧顯は、歴陽で范容らに、敗死した。
144年冬10月、日南の蠻夷が、ふたたび反した。蛮夷は、縣邑を焼いた。交趾刺史する九江の夏方は、蛮夷を降らせた。
11月、九江の盜賊・徐鳳と馬勉らが、城邑を焼いた。徐鳳は、無上將軍を称した。馬勉は、皇帝を称した。當塗の山中に、営を築いた。
賢はいう。当塗県の山は、いまの宣州だ。『両漢志』を見ると、当塗県は、九江郡にぞくす。『続志』はいう。当塗県は、馬丘衆と徐鳳が、ここで反した。また、塗山がある。禹が諸侯に会したところだ。
晋室が南にわたり、淮水の民は、長江をわたった。東晋の成帝のとき、于胡に、当塗の地名をつくった。東晋がおいた当塗は、唐代に宣州にぞくした。いま(胡三省の時代)の当塗県は、後漢の当塗県とはちがう。
ぼくは補う。東晋のとき、当塗の地名が徙された。もとの当塗は、五胡十六国に取られたから。ぼくにとっては、胡三省のときの当塗より、後漢の当塗のほうが、馴染みぶかい。いらん注釈である。笑
馬勉は年号を立て、百官をおいた。
九江郡で馬勉が皇帝を称したのは、南匈奴の反乱で、順帝が北に兵力を向けすぎたから。順帝の時代、徐州や揚州は、頻繁に独立する。時代は下りまして。孫権が献帝に叛いて赤壁を開戦できたのは、曹操が烏桓北伐を長引かせたから。孫策を嗣いだ直後の孫権は、張昭や張紘に導かれ、献帝の平凡な臣下だ。いちおう会稽太守だけど、独立とか、そういう話はそもそもない。
ついでに。
徐州や揚州とおなじで、泰山郡も遠心する。順帝の時代、李固が泰山太守になってから、治まったが。曹操のとき、泰山には臧覇がいた。臧覇は曹操から見て、単純な部下では、なさそうだ。
144年12月、九江の賊・黃虎らが、合肥を攻めた。
この歳、群盜が憲陵をあばいた。101128