110年、龐参と鄧隲が、涼州を放棄したい
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
110年春、関中から、南陽や潁汝の人が撤退
鄧騭在位,頗能推進賢士,薦何熙、李郃等列於朝廷,又辟弘農楊震、巴郡陳禪等 置之幕府,天下稱之。震孤貧好學,明歐陽《尚書》,通達博覽,諸儒為之語曰:「關 西孔子楊伯起。」教授二十餘年,不答州郡禮命,眾人謂之晚暮,而震志愈篤。騭聞而 辟之,時震年已五十餘,累遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂 才王密為昌邑令,夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰: 「暮夜無知者。」震曰:「天知,地知,我知,子知,何謂無知者!」密愧而出。後轉 涿郡太守。性公廉,子孫常蔬食、步行;故舊或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世 稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」
110年春正月、元會と徹樂のとき、庭車をならべず。
鄧騭が大将軍にいるとき、おおく賢士を挙げた。何熙、李郃らが、朝廷にならぶ。また、弘農の楊震、巴郡の陳禪らを、大将軍の幕府に置いた。
楊震は、歐陽《尚書》に明るく、「關西の孔子」と呼ばれた。50歳をすぎ、荊州刺史、東萊太守となる。荊州の茂才・王密に、秘密でワイロを渡された。楊震は、「天知,地知,我知,子知。みんな知ってる」と言った。のちに涿郡太守となるが、魚肉を食べない。車騎にのらない。産業もやらず。
鄧隲が、ひろく人材を求めたのは。後漢が、危機的な状況だからだ。とくに、ほぼ帰化したはずの、南匈奴が離反したのがイタい。関中を切り取られた。鄧隲が、儒教の史家から見て、理想的な為政者だとしたら、それは勘違いである。
海賊の張伯路は、ふあたび郡県を攻めた。御史中丞の王宗に、幽州と冀州の数万をつけ、宛陵令する扶風の法雄を青州刺史として、張伯路を討つ。
南單于は、耿種を数ヶ月かこむ。梁慬と耿夔は、単于を虎澤(西河)に追い返した。正月丙午、百官や郡縣の給与を減らした。110年2月、南匈奴が常山を寇した。
羌族の滇零は、褒中(漢中)を寇した。漢中太守の鄭勤は、褒中にいる。
任尚は軍功がないので、長安にもどす。南陽、穎川、汝南の吏士を、西の戦線に送るのをやめた。2月乙丑、はじめて京兆の虎牙都尉を、長安におく。扶風都尉を、雍県におく。前漢の前例にならい、三輔都尉をまねる。
それよりぼくは、南陽、穎川、汝南の人材を、西方から引き上げたことに、興味をひかれる。洛陽周辺の人材は、西方には、役に立たないのだ。後漢が、かるく分裂したような気がする。諸葛亮が北伐し、雍州から西を切りとったのは、現実的な作戦だ。
関中の羌族と、南の漢中をふくめて、ひとつの勢力圏だ。いまの後漢と、曹魏の版図と、どのくらい同じで、どのくらい違うのだろう。ぼくは、似てる気がする。
110年春、龐参が鄧隲に、涼州を棄てろと言う
謁者の龐參は、鄧隲に説いた。「辺境の人口は、自活できない。三輔に移住させよ」と。鄧隲は、涼州の放棄に賛成した。公卿を集めて、鄧隲は議論させた。公卿も賛成した。
郎中する陳國の虞詡は、太尉の張禹に言った。「鄧隲は、涼州を放棄するという。3つ、反論したい。ひとつ。先帝が苦労して開拓した土地を、目先の費用をケチって放棄するな。ふたつ。涼州を棄てれば、三輔が前線となり、前漢の陵墓があぶない。みっつ。涼州は武臣の産地だ。武臣の子孫が、涼州にいる。子孫たちが、後漢に棄てられたと騒ぐ」と。
はじめ張禹は、涼州を放棄したい。だが張禹は、虞詡に論破されて、涼州を残せと言った。みな公卿たちは、意見をひるがえして、涼州を残したい。涼州の豪桀を、掾屬や牧守にした。長吏の子弟を郎として、涼州の人々を安慰した。
鄧隲は、意見に反対した虞詡を、中傷したい。虞詡は朝歌の県長だが、朝歌で賊が長吏を殺した。鄧隲は、虞詡を責めた。だが虞詡は、賊をうまく平定した。
鄧隲のやり方を見ると、まえの竇憲とか、あとの梁冀と変わらない。まあ、反対意見がとおると、だれでも不快だろうが。涼州の放棄は、ただの投げやりでない。鄧隲なりに後漢を思いやった結果だ。だから、虞詡にひっくり返されて、面白くない。
110年3月、南単于が降伏、漢中の全滅
110年3月、何熙の軍は、五原の曼柏にきた。何熙は急病で、すすめず。龐雄と梁慬は、耿種羌をひきい、虎澤にきた。南単于は、韓琮に言った。「漢人は死に絶えたと聞いたが、漢人が攻めてきた」と。南単于は、後漢に降伏した。何熙が死んだ。梁慬を度遼將
軍とした。龐雄は京師にかえり、大鴻臚となる。
ふたたび先零羌は、褒中を寇した。漢中太守の鄭勤は、主簿の段崇のいさめを聞かず、大敗した。主簿の段崇や、その部下たちも、ともに戦死した。
金城の郡治を、襄武(隴西)にうつした。
3月戊子、杜陵園(宣帝の陵)が出火した。
3月癸巳、郡國9で地震あり。
110年夏、海賊の張伯路が、海上に逃げる
110年夏4月、6州でイナゴ。
6月丁丑、天下を赦した。
王宗と青州刺史の法雄は、張伯路を破った。たまたま大赦の知らせが届く。賊は、官軍が軍装を解かないので、降らない。
王宗は、法雄と話した。王宗は、賊を攻撃したい。法雄は、攻撃を諌めた。「兵は兇器だ。もし賊が海に逃げたら、攻めにくい。賊と戦わずに、治めよ」と。王宗は、法雄をみとめ、官軍の軍装を解いた。賊は喜んで、帰郷した。だが東萊郡だけは、兵装をつづけた。賊は驚き、遼東から海上の島に逃げた。
110年冬、鄧隲が母に服喪し、三公の下に降る
110年秋7月乙酉、3郡で大水あり。
騎都尉の任仁は、羌族に負けたので、延尉が死刑とした。護羌校尉の段禧が死んだ。ふたたび、さきの護羌校尉の侯霸を代えた。護羌校尉を、張掖にうつす。
110年9月甲申、益州郡で地震あり。
鄧太后の母・新野君が、病気だ。鄧太后が看病にこもるので、三公が諌めた。110年冬10月甲戌、新野君が薨じた。鄧隲は服喪したいが、鄧太后は許したくない。曹大家は上疏した。「いま鄧隲の4兄弟は、ふかく忠孝で、出しゃばらない。だがもし服喪をサボれば、名声がなくなる」と。太后は鄧隲に、母への服喪を許した。
鄧隲は服喪が終わった。鄧隲は、前とおなじ高位に就かない。鄧隲は、三公の下につき、特進や侯の上となる。独裁せず、朝堂で公卿たちと話し合った。
鄧太后は、和帝の陰皇后の家属を、故郷(南陽)に帰した。101228
ぼくは思う。鄧氏は、なにかワリに合わない仕事を、後漢に任されている態度だ。劉氏が負担すべき、後漢の重みを、兄弟で背負っている。周囲は、鄧氏になびくけれど。事実、金銭はいくらでも集まるだろうけれど。
この態度は、決して鄧氏だけでなく、どの外戚にも共通だろう。ただ史家が、善玉に描くか、悪玉に描くかだけが違う。梁冀しかり。