156年、鮮卑の檀石槐を、段熲が防ぐ
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
155年と156年は、2年弱前に、訳したことがある。基本的には、それを引用します。適宜、いまの知識で補いつつ。自己カンニング。
156年春夏、檀石槐が、鮮卑に大帝国
初,鮮卑檀石槐,勇健有智略,部落畏服,乃施法禁,平曲直,無敢犯者,遂推以 為大人。
156年春3月、蜀郡属国で南夷が造反した。
はじめ鮮卑の檀石槐は、勇健で智略があり、部落の人に畏服されていた。法制を定めると、曲直は平らかとなり、犯罪が無くなった。ついに推戴されて、檀石槐は「大人」となった。
檀石槐は弾汙山のケツ仇水の上に宮廷を作った。高柳から北に300余里のところでは、兵馬ははなはだ盛んだった。東西の部族の大人は、みな檀石槐に帰属した。
鮮卑の領土は、南は後漢と国境を接し、北は丁零羌を防ぎ、東は夫余を、西は烏孫を撃った。かつて匈奴が支配した土地を手に入れて、東西で1万4千余里を支配した。
156年秋、「穎川四長」韓韶が、泰山で善政
秋7月、檀石槐は雲中を寇した。もと烏桓校尉の李膺を、度遼将軍とした。李膺が国境に到着すると、羌族や胡族はみな李膺に畏服して、捕虜に取っていた男女をことごとく後漢に返還してきた。
公孫挙と東郭竇らが3万人を集めて、青州・兗州・徐州の3州を寇して、郡県を破壊した。連年これを討伐したが、官軍は勝てず。尚書は有能な人物を選んだ。司徒掾する頴川の韓韶を、エイ県長に任命した。
賊は、韓韶が賢者であることを聞くと、互いに戒めてエイ県には入らず。エイ県は安全だから、他県から流民が万余戸も移ってきた。韓韶は倉を開いて施しをした。倉庫担当は(賊の味方だと思われるのを警戒して)、韓韶に施しをやめるように言った。韓韶は言った。「私は人民の救済をしているだけだ。もし罪に服しても、笑いを含んで地に戻れるだろう」と。
泰山太守は、韓韶の名徳を知る。韓韶を賊に連座させなかった。
韓韶と同郡の荀淑、鍾皓、陳寔は、みなかつて県長になって、徳のある政治をやったから「頴川四長」と称えられた。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)潁川の韓氏といえば韓馥。(引用おわり)
156年秋、段熲が、泰山賊を斬る
はじめ鮮卑が遼東を寇すると、属国都尉の段熲は、配下を率いて向かった。段熲が急行したから、賊は驚いて去った。
段熲は驃騎のニセ印璽を使って、撤退命令を受けた振りをした。段熲は偽りに撤退し、道に伏兵を残した。賊は段熲が撤退するのだと信じ、追撃した。段熲は、賊をことごとく斬獲した。
「賊は驚いて去った。段熲は驃騎のニセ印璽を使って」これは違うかも。「賊が驚いて去ってしまうのを恐れて、早馬で偽印璽による嘘の召還命令を出させて、退いたふりをして賊を討った」ということです。賊は去っていない。「驃騎」ではなく「駅騎」。(引用おわり)
段熲は(作戦のためとはいえ)璽書を偽作したから、重刑に服すべきだった。だが功績に免じて、司寇を受刑し、議郎を拝した。
ぼくは補う。段熲が鮮卑を破ったのは、156年でない。段熲を、つぎの文で登場させるため、段熲の略歴を紹介したのだ。
このころ、東方の盗賊は、さかんだ。公卿は文武の才能がある将帥を選ぶように詔が出た。司徒の尹頌は、段熲を推薦した。段熲は中郎将を拝し、公孫挙と東郭竇を斬った。首を万余級とり、余党は降伏して離散した。段熲は列侯に封じられた。
156年冬、梁冀の孫が城父侯となる
封梁不疑子馬為穎陰侯,梁胤子桃為城父侯。
156年冬12月、京師で地震した。
梁不疑の子・梁馬を、頴陰侯に封じた。梁胤の子・梁桃を城父侯に封じた。
ぼくは思う。「梁冀の孫まで封じられ、梁冀は強いなあ」ではない。城父は、もともと梁冀の持ちもの。梁冀の食邑を、分割しているとも解釈できる。董卓の一族が、ことごとく封じられ、董氏が膨張したときとは、ちょっとちがう。
101202
鮮卑が遼東を侵し、青州・兗州・徐州が漢人によって乱された。でも李膺や段熲によって平定された。
末世にあっても、「頴川四長」のように、次世代の主役となる清い名士が、存在感を発揮しつつある。そういう1年だと描かれていました。いや、そういう1年に見えるように、史実が取捨されていました。そう言ったほうが正確ですね(笑)
以上、2年弱前の、おめでたい感想。
いまのぼくが補う。李膺や段熲は、後漢の高官だ。国家の命運を動かし、戦争する。いっぽう「頴川四長」は、県長に過ぎない。エピソードとしては面白いが、焼け石に水である。基本方針は、フロンティアの武力弾圧。
たまたま魏晋で、「頴川四長」の系列が主流になった。だから史書に、登場しているに過ぎない。吹けば飛ぶよ、「頴川四長」なんて。