092年、袁安が死に、竇憲が自殺する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
092年春、周栄が袁安に尽くし、袁安が死ぬ
春,正月,遣大將軍左校尉耿夔,授於除鞬印綬,使中郎將任尚,持節衛護屯伊吾, 如南單于故事。
092年春正月、大將軍左校尉の耿夔は、北単于の除鞬に印綬をさずけた。中郎將の任尚は、持節して、伊吾を衛護した。北単于を統治する方法は、南単于の前例にならう。
三月,癸丑,司徒袁安薨。 閏月,丁丑,以太常丁鴻為司徒。
はじめ廬江の周榮は、袁安の府に辟された。袁安は、竇景に上奏し、北單于を後漢が立てることに反対した。みな周栄が、上奏を具草した。
竇氏の客・太尉掾の徐齮は、ふかく周栄を悪む。徐齮は、周栄を脅した。「周栄は、袁公の腹心之謀だ。竇氏に逆らう上奏をかいた。竇氏は、悍士や刺客が、城中に満ちる。せいぜい気をつけろ」と。周栄は言った。「私は、江淮に孤生した。宰士(袁安)に仕えることができた。もし竇氏に殺害されても、かまわない」と。周栄は妻子に命じた。「もし私が竇憲に殺されても、殯斂するな。死体を腐らせ、朝廷に何が正しいか分からせる」と。
『後漢書』周栄伝を訳し、周瑜の家柄を知る
092年3月癸丑、司徒の袁安が薨じた。閏月丁丑、太常の丁鴻を司徒とした。
092年夏、竇憲の4兄弟を自殺させる
六月,戊戌朔,日有食之。丁鴻上疏曰:「昔諸呂握權,統嗣幾移;哀、平之末, 廟不血食。故雖有周公之親而無其德,不得行其勢也。今大將軍雖欲敕身自約,不敢僭 差;然而天下遠近,皆惶怖承旨。刺史、二千石初除,謁辭、求通待報,雖奉符璽,受 台敕,不敢便去,久者至數十日,背王室,向私門,此乃上威損,下權盛也。人道悖於 下,效驗見於天,雖有隱謀。神照其情,垂象見戒,以告人君。禁微則易,救末者難; 人莫不忽於微細以致其大,恩不忍誨,義不忍割,去事之後,未然之明鏡也。夫天不可 以不剛,不剛則三光不明;王不可以不強,不強則宰牧從橫。宜因大變,改政匡失,以 塞天意。」
丙辰,郡國十三地震。 旱,蝗。
092年夏4月丙辰、竇憲は京師にかえる。
6月戊戌ついたち、日食した。司徒の丁鴻は、上疏した。「前漢の呂后や王莽の禍いが、くり返されている。みな竇憲にびびる。刺史や太守は、竇憲に挨拶するため、数十日を持つ。和帝を強め、竇氏を弱めよ」と。
6月丙辰、郡國13で地震あり。日照、イナゴ。
竇氏の父子や兄弟は、みな卿や校となり、朝廷に充滿した。穰侯の鄧疊と、鄧疊の弟・步兵校尉の鄧磊と、その母の元、竇憲の娘婿・射聲校尉の郭舉、郭舉の父・長樂少府の郭璜は、ともに交結した。
ぼくは思う。竇太后の敵に、鄧氏がおおいのは、なにか関係ある?
鄧磊の母・元と、射聲校尉の郭舉は、禁中に出入りし、竇太后と会える。ともに竇太后を殺そうとした。ひそかに和帝は、謀を知った。
このとき、竇憲の兄弟は專權する。和帝は、内外の臣僚と、親接できない。宦官とだけ、和帝は親接できる。竇憲にへつらわない宦官は、中常侍・鉤盾令の鄭眾だけだ。和帝は、鄭衆に、竇憲を殺す相談をした。竇憲は涼州にいる。和帝は乱を慮り、なかなか実行できない。
ぼくは思う。竇憲が洛陽にいないから、殺せない。和帝が慮った「乱」とは、何か。涼州が反乱するのか。つぎの段で、和帝は竇憲を殺す。涼州への対策がなされたとは思えない。竇憲が率いた涼州の外征軍が、洛陽に乗りこめば、後漢は一瞬で滅亡する。
たまたま竇憲と鄧疊は、京師にもどる。ときに清河王の劉慶は、和帝の恩にあい、禁中に寝泊りした。和帝は、『漢書』外戚伝をほしがる。宦官たちは、懼れて『漢書』をわたさない。劉慶とは、千乘王の劉コウ(和帝の長兄)をつれて、夜に禁中へ入る。劉慶は鄭衆と語り、『漢書』外戚伝から、外戚をころした故事を調査した。
6月庚申、和帝は北宮にゆく。執金吾と五校尉に詔して、城門をかためた。郭璜、郭舉、鄧疊、鄧磊を捕え、獄死させた。
謁者僕射は、竇憲から大將軍の印綬をうばった。竇憲を冠軍侯とした。竇篤、竇景、竇瑰を、みな国に行かす。和帝は、竇憲が太后の一族だから、竇憲を誅殺したという名目を作りなくない。厳しくて有能な国相を、竇氏の兄弟につけた。竇憲、竇篤、竇景は、国についた。国相が迫って、竇憲の兄弟を、自殺させた。
092年夏、竇氏派を一掃し、袁賞を郎とする
はじめ河南尹の張酺は、しばしば竇景の不法を正した。
竇氏が敗れると、張酺は上疏した。「夏陽侯の竇瑰だけは、賓客をおさえ、法を犯さなかった。竇瑰に自殺を迫るのは、やめよ」と。和帝は、竇瑰を生かした。竇氏の宗族や賓客は、竇憲のおかげで官位にあった。みな免じられ、故郡に帰った。
はじめ班固の奴は、洛陽令の種兢を酔って罵った。種兢は、班固が竇氏の賓客だから、班固を捕えて、獄中で殺した。班固は『漢書』を書いたが、まだ完成しない。和帝は、班固の女弟・曹壽の妻・昭に、『漢書』を継続させた。
はじめ竇憲が妻をめとると、天下の郡國は、みな禮慶した。漢中郡も、竇憲を祝いたい。戸曹の李郃は、漢中太守を諌めた。「竇憲は外戚だが、権勢が危うい。竇憲と交通するな」と。だが漢中太守は、竇憲を祝う。祝賀の使者となった李郃は、速度をおとした。李郃が扶風にいるとき、竇憲が失脚し、竇憲と交通した人が、免官された。李郃のおかげで、漢中太守だけが、免官されず。
帝除袁安子賞為郎,任隗子屯為步兵校尉,鄭眾遷大長秋。帝策勳班賞,眾每辭多 受少,帝由是賢之,常與之議論政事,宦官用權自此始矣。
和帝は、清河王の劉慶に、おおくを下賜した。劉慶は小心で恭孝にふるまい、自ら廢黜した。つつしんだから、劉慶は、和帝からの寵祿を保った。
和帝は、袁安の子・袁賞を郎にした。任隗の子・任屯を、步兵校尉にした。
鄭眾は大長秋にうつる。和帝がボーナスを配分するとき、鄭衆は多くを受けなかった。和帝は鄭衆が賢いと思い、ともに政事を議論した。宦官が権限をもったのは、これが始まりだ。
092年冬、護羌校尉の鄧訓は、西北で神となる
092年秋7月己丑、太尉の宋由は、竇憲の与党だから免じた。宋由は自殺した。092年8月辛亥、司空の任隗が薨じた。8月癸丑、大司農の尹睦を、太尉とした。太傅の鄧彪は、老だから、樞機の職務を返上した。和帝は、鄧彪の引退を許し、鄧彪に代えて、尹睦に錄尚
書事させた。
護羌校尉鄧訓卒,吏、民、羌、胡旦夕臨者日數千人。羌、胡或以刀自割,又刺殺 其犬馬牛羊,曰:「鄧使君已死,我曹亦俱死耳!」前烏桓吏士皆奔走道路,至空城郭; 吏執,不聽,以狀白校尉徐傿,傿歎息曰:「此為義也!」乃釋之。遂家家為訓立祠, 每有疾病,輒請禱求福。
092年冬10月己亥、宗正の劉方を、司空とした。
武陵、零陵、澧中で、蠻が叛した。
護羌校尉の鄧訓が卒した。吏民も、羌胡も、数千人が葬儀にきた。ある羌胡は、鄧訓に殉死した。べつの羌胡は、犬馬牛羊を刺殺し、「鄧使君がすでに死んだ。我曹も、ともに死なん!」と言った。
かつて烏桓の吏士は、烏桓校尉だった鄧訓の部下に、空城に入った罪を許された。異民族の家では、鄧訓の祠をつくり、疾病のたびに、鄧訓に祈った。
蜀郡太守の聶尚は、鄧訓に代わり、護羌校尉となる。聶尚は、諸羌を恩懷したい。迷唐を故地にかえし、恩を売った。のちに諸羌が血盟をむすび、後漢の金城塞を寇した。聶尚はクビになった。101225