030年春夏、公孫述と隗囂が硬化する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
030年正月、山東がたいらぎ、隴西がのこる
春,正月,丙辰,以舂陵鄉為章陵縣,世世復徭役,比豐、沛。
吳漢等拔朐,斬董憲、龐萌,江、淮、山東悉平。諸將還京師,置酒賞賜。
帝積苦兵,間以隗囂遣子內侍,公孫述遠據邊垂,乃謂諸將曰:「且當置此兩子於 度外耳。」因休諸將於雒陽,分軍士於河內,數騰書隴、蜀,告示禍福。
030年春正月丙辰、舂陵郷を、章陵縣とした。世よ、徭役を復した。高帝の故郷、豐県、沛県とおなじだ。
吳漢らは、朐県をぬき、董憲、龐萌をきった。すべて江淮、山東は、たいらいだ。悉平。諸將は、京師にもどった。置酒、賞賜した。
ぼくは思う。司馬光は、大胆にはぶきすぎたのだ。
隗囂が、子を洛陽に內侍させた。公孫述は、遠くでのさばる。劉秀は、諸将に言った。「あとは、隗囂と公孫述だけだ」と。諸将を洛陽でやすませた。軍士を、河内にわけた。しばしば文書をつたえ、隴蜀に禍福をしめした。
030年春、公孫述が天下統一する戦略
公孫述は、中原に文書をおくり「公孫述に符命がくだった」と言った。劉秀は、公孫述に文書した。「図讖がいう公孫とは、あなたでなく、前漢の宣帝のことだ。漢に代わるのは、当塗高であり、公孫述でない。符命をいつわるとは、公孫述は王莽とおなじだ」と。
劉秀は文書に「公孫皇帝へ」と書いた。公孫述は、こたえず。
公孫述の騎都尉する平陵の荊邯は、公孫述に言った。「隗囂は、雍州(隴西、天水)にいる。更始帝がコケて、山東がみだれたからだ。劉秀は、山東を優先して、隗囂を放置した。劉秀は、天下の4分の3をえた。劉秀は、来歙や馬援をおくり、隗囂をくずした。劉秀は、天下の5分の4をえた。もし劉秀が天水をせめれば、隗囂はやぶれる。劉秀は、天下の9分の8をえる」と。
さらに荊邯は、公孫述に言った。「陛下は、益州にこもり、王莽のように百姓から搾取する。現状のままでは、いけない。田戎を江陵におき、江南にあて、巫山におけ。田戎が檄文をうつし、呉楚、長沙より南をなびかせろ。延岑を関中にだせ。三輔、天水、隴西が、みずから公孫述に服するだろう」と。
公孫述は、郡臣に問うた。博士の呉柱は、荊邯に反対した。「周武王が殷室をうつとき、よばないのに、諸侯8百が孟津にあつまった。公孫述には、諸侯があつまらない」と。
荊邯は言った。「東帝(劉秀)は、地盤がないくせに、敵をたいらげている。いきおいだけだ。劉秀のいきおいは、つづかない。劉秀の弱点をつかず、益州にこもっていたら、隗囂とおなじだ。隗囂は、みずからを周文王になぞらえ、ダラダラしている」と。
公孫述は、荊邯をもちいた。山東から亡命した兵を、北軍に編成した。延岑を漢中に、田戎を巫山においた。公孫述は、漢中の諸将とあわさった。蜀人と、弟の公孫光は、公孫述の進駐に反対した。「本拠(蜀郡)をあけて、千里の外にゆくな」と。公孫述は、進駐をやめた。公孫述は、延岑と田戎を信頼せず、ついに公孫氏だけを進駐させた。
公孫述は、銅銭をやめて、鉄銭をさだめた。流通せず。郡県の官名を、このんで変更した。わかいころ公孫述は、前漢の郎になったので、前漢の故事をふんだ。
2人の子を王として、犍為、廣漢の数県をはませた。ある人が、公孫述をいさめた。「まだ天下統一しないのに、子を王に封じた。大志がないことが、見え見えになる」と。公孫述はしたがわず。
030年春、馮異をねぎらい、公孫述が荊州をねらう
申屠剛、杜林自隗囂所來,帝皆拜侍御史。以鄭興為太中大夫。
馮異は、長安から洛陽にきた。劉秀は公卿に言った。「私が起兵したとき、馮異は(頴川で)主簿になった。私のために困難をおかし、関中をさだめた」と。劉秀は、馮異に詔した。「蕪蔞亭で豆粥をつくり(更始二年)、虖沱河で麦飯をつくってれた(更始二年)。まだ、むくいていない」と。
馮異は稽首してあやまった。「私は聞く。管仲は桓公に言った。『桓公は、私が桓公のバックルを射たことを忘れるな。私は、檻車にのせられたことを忘れない』と。国家(劉秀)は、河北での困難を忘れるな。私も、巾車之恩(更始元年)を忘れない」と。10余日、洛陽にとどまった。馮異は、妻子とともに関中にもどった。
ぼくは思う。管仲について、『史記』がひかれているが、はぶく。
申屠剛、杜林は、隗囂のところから、劉秀をたずねた。2人を、侍御史とした。鄭興を、太中大夫とした。
ぼくは思う。曹操が、張紘に官位をあたえて、とどめるのと、おなじだ。
030年3月、公孫述は、田戎を江關(巴郡の魚復県)にだした。荊州をとれず。劉秀は隗囂に「天水から、蜀をうて」と命じた。隗囂は「白水(広漢)がけわしく、桟道がキツい」と、ことわった。劉秀は、隗囂をうちたいと考えた。
030年夏、来歙が発憤し、隗囂が刺殺しかける
030年夏4月丙子、劉秀は長安にゆき、園陵に謁した。耿弇、蓋延ら7将軍をやり、隴道から蜀をうつ。さきに中郎將の來歙に璽書をもたせ、隗囂をさとした。隗囂は、結論をださず。
隗囂は發憤して、隗囂に言った。「きみは、子の隗恂を、劉秀にあずけている。劉秀にしたがわねば、族殺される」と。隗囂は、来歙を殺したい。隗囂は牛邯をつかい、来歙の車をかこんだ。
隗囂の部将・王遵がいさめた。「来歙は、ひとりできたが、劉秀の姑子をめとる。来歙を殺せば、隗囂は族滅される。『春秋』で、宋が楚の使者をとらえたので、楚に復讐された。小国の楚ですら、手ごわい。まして劉秀は、大国だ。来歙をころすな」と。来歙の言葉は、西州で信頼されていた。来歙は、ころされず。
5月己未、劉秀の車駕は、長安から洛陽にもどる。
ついに隗囂が、兵を発して、そむいた。王元を隴坻におき、木をきり、道をふさいだ。劉秀の諸将は、隗囂にやぶれて、隴水をくだった。隗囂は、きつく追撃した。馬武がふせいで、軍をかえした。
030年夏、官吏を減らし、任期をのばす
6月辛卯、劉秀は詔した。「官吏をおくのは、民のためだ。いま民が遭難し、戶口がへった。だが縣官・吏職は、おおいままだ。司隸、州牧が部するところで、吏員をへらせ。縣國に長吏は、いらない。まとめて管理せよ」と。
400余県がはbかれた。吏職が、10分の1に減損した。
9月丙寅みそか、日食した。執金吾の朱浮は、上疏した。「地方官の任期がみじかすぎて、成果がでない。」と。劉秀は、牧守の交替をへらした。
つぎは、030年12月。隗囂とたたかいます。つづきます。