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037年、盧芳が匈奴にかたづき、天下統一

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

037年春、盧芳が隨昱におどされ、匈奴ににげる

世祖光武皇帝中之下建武十三年(丁酉,公元三七年)
春,正月,庚申,大司徒侯霸薨。
戊子,詔曰:「郡國獻異味,其令太官勿復受!遠方口實所以薦宗廟,自如舊制。」 時異國有獻名馬者,日行千里,又進寶劍,價直百金。詔以劍賜騎士,馬駕鼓車。上雅 不喜聽音樂,手不持珠玉,嘗出獵,車駕夜還,上東門候汝南郅惲拒關不開。上令從者 見面於門間,惲曰:「火明遼遠。」遂不受詔。上乃回,從東中門入。明日,惲上書諫 曰:「昔文王不敢槃於游田,以萬民惟正之供。而陛下遠獵山林,夜以繼晝,其如社稷 宗廟何!」書奏,賜惲布百匹,貶東中門候為參封尉。

037年春正月庚申、大司徒の侯霸が薨じた。正月戊子、詔した。「郡國は異味を獻ずるが、太官に受けさせるな。旧制にもどせ」と。

よくわからないので、後日。天下統一の過程を見たかった。内政がからんでくると、本日の興味からとおくなる。

上東門候する汝南の郅惲は、夜に劉秀が猟からもどると、入門をこばんだ。郅惲は、夜遊びをいさめた。劉秀は、郅惲を降格した。

二月,遣捕虜將軍馬武屯虖沱河以備匈奴。
盧芳攻雲中,久不下。其將隨昱留守九原,欲脅芳來降;芳知之,與十餘騎亡入匈 奴,其眾盡歸隨昱,昱乃詣闕降。詔拜昱五原太守,封鐫胡侯。
硃祜奏:「古者人臣受封,不加王爵。」丙辰,詔長沙王興、真定王得、河間王邵、 中山王茂皆降爵為侯。丁巳,以趙王良為趙公,太原王章為齊公,魯王興為魯公。是時, 宗室及絕國封侯者凡一百三十七人。富平侯張純,安世之四世孫也,歷王莽世,以孰謹 守約保全前封;建武初,先來詣闕,為侯如故。於是有司奏:「列侯非宗室不宜復國。」 上曰:「張純宿衛十有餘年,其勿廢!」更封武始侯,食富平之半。
庚午,以紹嘉公孔安為宋公,承休公姬常為衛公。

037年2月、捕虜将軍の馬武が、虖沱河で匈奴にそなえる。
盧芳が雲中にはいり、くだらない。盧芳の部将・隨昱は、九原を留守した。盧芳に「劉秀にくだれ」と言った。盧芳は、匈奴ににげた。隨昱は劉秀にくだり、五原太守、鐫胡侯となる。

ぼくは思う。事実上、盧芳はここで、退場です。群雄を廃業。

朱祜は上奏した。「人臣に、王爵をくわえるな」と。南陽の劉氏を、王からおろした。宗室の137人が爵位をおとされた。富平侯の張純は、封邑を半分にされた。
3月庚午、孔子と周室の子孫を、宋公と衛公にした。

三月,辛未,以沛郡太守韓歆為大司徒。
丙子,行大司空馬成復為揚武將軍。

3月辛未、沛郡太守の韓歆を、大司徒とした。
3月丙子、行大司空の馬成を、揚武將軍にもどした。

037年夏、功臣たちとの大団円

吳漢自蜀振旅而還,至宛,詔過家上塚,賜谷二萬斛; 夏,四月,至京師。於是大 饗將士,功臣增邑更封凡三百六十五人,其外戚、恩澤封者四十五人。定封鄧禹為高密 侯,食四縣;李通為固始侯,賈復為膠東侯,食六縣;餘各有差。已歿者益封其子孫, 或更封支庶。

呉漢は蜀攻めからもどり、宛県にきた。夏4月、呉漢は京師にきた。功臣365人を封じた。外戚と恩沢で封じられたのは、45人。鄧禹、李通、賈復らが侯爵となる。

帝在兵間久,厭武事,且知天下疲耗,思樂息肩,自隴、蜀平後,非警急, 未嘗復言軍旅。皇太子嘗問攻戰之事,帝曰:「昔衛靈公問陳,孔子不對。此非爾所 及。」鄧禹、賈復知帝偃干戈,修文德,不欲功臣擁眾京師,乃去甲兵,敦儒學。帝亦 思念,欲完功臣爵土,不令以吏職為過,遂罷左、右將軍官。耿弇等亦上大將軍、將軍 印綬,皆以列侯就第,加位特進,奉朝請。

劉秀は軍事がきらいだ。隴蜀をたいらげたら、軍事の話題をしない。鄧禹と賈復は、軍事でなく儒学をおこした。左右の軍官をやめた。耿弇らは、大将軍の印綬をかえした。

鄧禹內行淳備,有子十三人,各使守一藝, 修整閨門,教養子孫,皆可以為後世法,資用國邑,不修產利。
賈復為人剛毅方直,多 大節,既還私第,闔門養威重。硃祜等薦復宜為宰相,帝方以吏事責三公,故功臣並不 用。是時,列侯唯高密、固始、膠東三侯與公卿參議國家大事,恩遇甚厚。帝雖制御功 臣,而每能回容,宥其小失。遠方貢珍甘,必先遍賜諸侯,而太官無餘,故皆保其福祿, 無誅譴者。

鄧禹には13人の子がいた。産業しない。
賈復は、私邸をかえした。朱祜が賈復を三公にすすめた。だが賈復が功臣だから、三公にしない。劉秀の功臣で、誅譴された人はいない。

ぼくは思う。高帝とちがい、劉秀の功臣がいきのびたのは、なぜか。劉秀のキャラのおかげじゃない。功臣を高位につけなかったからだろう。いくら劉秀が人格にすぐれていても、功臣が大国をもったら、ぜったいに紛争がおきる。「仕組みで解決」というやつだ。


益州傳送公孫述瞽師、郊廟樂器、葆車、輿輦,於是法物始備。時兵革既息,天下 少事,文書調役,務從簡寡,至乃十存一焉。
甲寅,以冀州牧竇融為大司空。融自以非舊臣,一旦入朝,在功臣之右,每召會進 見,容貌辭氣,卑恭已甚,帝以此愈親厚之。融小心,久不自安,數辭爵位,上疏曰: 「臣融有子,朝夕教導以經藝,不令觀天文,見讖記,誠欲令恭肅畏事,恂恂守道,不 願其有才能,何況乃當傳以連城廣土,享故諸侯王國哉!」因復請間求見,帝不許。後 朝罷,逡巡席後,帝知欲有讓,遂使左右傳出。它日會見,迎詔融曰:「日者知公欲讓 職還土,故命公暑熱且自便。今相見,宜論它事,勿得復言。」融不敢重陳請。
五月,匈奴寇河東。

益州は、公孫述の皇帝セットをおくってきた。兵革がやんだので、文書の調役を、10分の1にへらした。
4月甲寅、冀州牧の竇融を、大司空とした。竇融は舊臣でないから、功臣にびびった。劉秀は、竇融を三公にとどめた。
5月、匈奴が河東を寇した。

038年、西域都護をおかず、梁統が刑を論じる

世祖光武皇帝中之下建武十四年(戊戌,公元三八年)
夏,邛谷王任貴遣使上三年計,即授越巂太守。
秋,會稽大疫。
莎車王賢、鄯善王安皆遣使奉獻。西域苦匈奴重斂,皆願屬漢,復置都護;上以中 國新定,不許。

038年夏、邛谷王の任貴が、越巂太守となる。
038年秋、會稽で大疫あり。
莎車王の賢、鄯善王の安が、奉獻した。西域は、匈奴の重斂にくるしみ、後漢にぞくしたい。都護をおいてもらいたい。劉秀は、都護をおかず。

太中大夫梁統上疏曰:「臣竊見元帝初元五年,輕殊死刑三十四事,哀帝建平元年, 輕殊死刑八十一事;其四十二事手殺人者,減死一等。自是以後,著為常准,故人輕犯 法,吏易殺人。臣聞立君之道,仁義為主,仁者愛人,義者正理。愛人以除殘為務,正 理以去亂為心;刑罰在衷,無取於輕。高帝受命,約令定律,誠得其宜,文帝唯除省肉 刑、相坐之法,自餘皆率由舊章。至哀、平繼體,即位日淺,聽斷尚寡。丞相王嘉輕為 穿鑿,虧除先帝舊約成律,數年之間百有餘事,或不便於理,或不厭民心,謹表其尤害 於體者,傅奏於左。願陛下宣詔有司,詳擇其善,定不易之典。」事下公卿。
光祿勳杜 林奏曰:「大漢初興,蠲除苛政,海內歡欣;及至其後,漸以滋章。果桃菜茹之饋,集 以成贓,小事無妨於義,以為大戮。至於法不能禁,令不能止,上下相遁,為敝彌深。 臣愚以為宜如舊制,不合翻移。」
統復上言曰:「臣之所奏,非曰嚴刑。《經》曰: 『爰制百姓,於刑之衷。』衷之為言,不輕不重之謂也。自高祖至於孝宣,海內稱治, 至初元、建平而盜賊浸多,皆刑罰不衷,愚人易犯之所致也。由此觀之,則刑輕之作, 反生大患,惠加奸軌,而害及良善也!」事寢,不報。

太中大夫の梁統が上疏した。刑の軽重を論じた。光祿勳の杜林がこたえた。梁統の意見は、もちいられず。

ぼくは思う。『資治通鑑』の記事が、内政にかたむくことを確認するため、038年を見た。確認できた。梁統が、梁冀の祖先なんですね。すごいなあ、後漢。つながる。


つかれたので、おしまい。天下統一、おめでとう!おわり。110714