033-034年、隗氏を平定する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
033年春、隗囂が死に、公孫述が荊州にすすむ
春,正月,穎陽成侯祭遵薨於軍。詔馮異並將其營。遵為人,廉約小心,克己奉公, 賞賜盡與士卒;約束嚴整,所在吏民不知有軍。取士皆用儒術,對酒設樂,必雅歌投壺。 臨終,遺戒薄葬;問以家事,終無所言。帝愍悼之尤甚,遵喪至河南,車駕素服臨之, 望哭哀慟;還,幸城門,閱過喪車,涕泣不能已;喪禮成,復親祠以太牢。詔大長秋、 謁者、河南尹護喪事,大司農給費。至葬,車駕復臨之;既葬,又臨其墳,存見夫人、 室家。其後朝會,帝每歎曰:「安得憂國奉公如祭征虜者乎!」衛尉銚期曰:「陛下至 仁,哀念祭遵不已,群臣各懷慚懼。」帝乃止。
033年春正月、穎陽成侯の祭遵が、軍中で薨じた。馮異が、祭遵の軍営をあわせた。
祭遵の人となりは、廉約で小心。したわれた。劉秀は、河南にゆき、祭遵をいたんだ。「祭遵ほどの人を、もう得られない」と。衛尉の銚期は、劉秀に言った。「劉秀は至仁だが、祭遵を惜しみすぎた。みな郡臣が、自分が祭遵におよばないことを、おそれる」と。劉秀は、惜しむのをやめた。
公孫述遣其翼江王田戎、大司徒任滿、南郡太守程泛將數萬人下江關,擊破馮駿等 軍,遂拔巫及夷道、夷陵,因據荊門、虎牙,橫江水起浮橋、關樓,立□贊柱以絕水道, 結營跨山以塞陸路,拒漢兵。
隗囂は、病んで餓えて、大豆や乾飯をたべて、恚憤して死んだ。王元、周宗は、隗囂の子・隗純純を、王とした。冀県による。公孫述は、趙匡、田弇をおくり、隗純をたすけた。劉秀は、馮異にうたせた。
公孫述は、翼江王の田戎、大司徒の任滿、南郡太守の程泛を、江關にゆかす。劉秀の部将・馮駿らをやぶる。巫県(南郡)、夷道、夷陵をぬく。
公孫述軍は、荊門、虎牙によった。長江をわたり、浮橋、關樓をつくった。サン柱をつくって水道を絶った。結營、跨山して、陸路をふさいだ。劉秀軍をふせいだ。
033年夏、護羌校尉、頴川太守が治政する
吳漢率王常等四將軍兵五萬餘人擊盧芳將賈覽、閔堪於高柳;匈奴救之,漢軍不利。 於是匈奴轉盛,鈔暴日增。詔硃祜屯常山,王常屯涿郡,破奸將軍侯進屯漁陽,以討虜 將軍王霸為上谷太守,以備匈奴。
033年夏6月丙戌、劉秀は緱氏(河南)にゆく。轘轅にのぼる。
吳漢は、王常ら4将軍をひきい、高柳(代郡)で、盧芳の部将・賈覽、閔堪をうった。匈奴が盧芳をすくい、呉漢はまけた。匈奴がさかんで、ますます鈔暴した。劉秀は、硃祜を常山におき、王常を涿郡におき、破奸將軍の侯進を漁陽におき、討虜
將軍の王霸を上谷太守として、匈奴にそなえた。
秋,八月,來歙率馮異等五將軍討隗純 於天水。 驃騎將軍杜茂與賈覽戰於繁畤,茂軍敗績。
劉秀は來歙に、すべて長安の諸将を監護させた。太中大夫の馬援が、来歙の副官となる。来歙は、上書した。
「公孫述は、隴西と天水が籓蔽となったので、安心した。いま隴西と天水をくだせば、公孫述はきわまる。兵糧を、ふやしてくれ」と。劉秀はみとめ、汧県に穀物6萬斛をつんだ。
033年秋8月、来歙は馮異ら5将軍をつれて、天水で隗純をうった。驃騎將軍の杜茂は、繁畤(雁門)で、賈覽にやぶれた。
司徒掾班彪上言:「今涼州部皆有降羌,羌胡被發左衽,而與漢人雜處,習俗既 異,言語不通,數為小吏黠人所見侵奪,窮恚無聊,故致反叛。夫蠻夷寇亂,皆為此也。 舊制,益州部置蠻夷騎都尉,幽州部置領烏桓校尉,涼州部置護羌校尉,皆持節領護, 治其怨結,歲時巡行,問所疾苦。又數遣使譯,通導動靜,使塞外羌夷為吏耳目,州郡 因此可得警備。今宜復如舊,以明威防。」帝從之。以牛邯為護羌校尉。
諸羌は、王莽末から、塞內に入居する。金城の屬縣は、羌族にとられた。隗囂は羌族をうてず、慰納した。隗囂は、羌族の兵をつかい、劉秀をこばんだ。
司徒掾の班彪は、上言した。「涼州は、羌胡と漢人が雜處する。習俗のちがう異民族がいたら、旧制ではどうしたか。益州に蠻夷騎都尉をおき、幽州は烏桓校尉をかね、涼州には護羌校尉をおいた。いま護羌校尉をおけ」と。
劉秀はみとめ、牛邯を護羌校尉とした。
盗賊が、陰貴人の母と弟を殺した。劉秀はいたみ、陰貴人の弟を、宣恩侯にしたい。鄭興は言った。「陰氏は皇后でない。戦功もない。侯爵はいらない」と。陰貴人は、鄭興から説明をうけて、宗族に高位をもとめなくなった。
莎車王康卒,弟賢立,攻殺拘彌、西夜王,而使康兩子王之。
劉秀は、寇恂をもどし、漁陽太守の郭伋を、穎川太守とした。山賊の趙宏、召吳らをくだして、附農させた。郭伋がかってに山賊をくだしても、劉秀はとがめず。郭伋の威信をきき、江南や、幽州、冀州から、ぞくぞく賊がくだった。
莎車王の康が卒して、弟の賢がたった。拘彌、西夜王をころした。劉秀は、康の2子を、王とした。
034年春、馮異が隗純をせめたが、死ぬ
春,正月,吳漢復率捕虜將軍王霸等四將軍六萬人出高柳擊賈覽,匈奴數千騎救之。 連戰於平城下,破走之。
夏陽節侯馮異等與趙匡、田弇戰且一年,皆斬之。隗純未下,諸將欲且還休兵,異 固持不動,共攻落門,未拔。夏,異薨於軍。
034年春正月、ふたたび吳漢は、捕虜將軍の王霸ら4将軍をつれて、高柳で賈覽をうつ。匈奴が賈覽をすくったが、平城(雁門)のもとで、賈覽と匈奴をやぶった。
夏陽節侯の馮異らと、趙匡、田弇を、1年ごしで斬った。隗純をぬくまえに、034年夏、馮異が軍中で薨じた。
034年秋、寇恂が使者をきり、高峻をくだす
初,隗囂將安定高峻擁兵據高平第一,建威大將軍耿弇等圍之,一歲不拔。帝自將 征之,寇恂諫曰:「長安道裡居中,應接近便,安定、隴西必懷震懼;此從容一處,可 以制四方也。今士馬疲倦,方履險阻,非萬乘之固也。前年穎川,可為至戒。」帝不從, 戊戌,進幸汧。
034年秋8月己亥、劉秀は長安にゆく。
はじめ隗囂の部将・安定の高峻は、高平の第一城による。建威大將軍の耿弇らが、高峻をかこむが、1年でぬけず。劉秀は親征したいが、寇恂がいさめた。
「劉秀が洛陽から長安にゆけば、ちかいので、安定、隴西はおそれて、四方はさだまる。士馬はつかれた。劉秀は、辺境にゆくな。前年の頴川を、いましめとせよ」と。
劉秀はしたがわず。8月戊戌、汧県にゆく。
高峻は、軍師の皇甫文をやり、寇恂にくだると言った。皇甫文の態度は、寇恂にくっさない。寇恂は怒り「皇甫文を殺せ」と言った。諸将は諫めた。「せっかく高峻がくだると言うのに、使者を殺して敵対するな」と。だが寇恂は皇甫文を斬った。
皇甫文の副使は、高峻につげた。「軍師の皇甫文は、無礼をやって殺された。すぐに降れ。降らないなら、固守せよ」と。高峻は惶恐して、即日に城門をひらいた。
諸将は寇恂にきいた。「なぜ皇甫文を殺したのに、高峻がくだったのか」と。寇恂は言った。「皇甫文は、高峻の腹心だ。無礼をやり、高峻が私にくだる意思がないことを示した。だから、くじいた」と。諸将は「かなわんわ」と言った。
034年冬、来歙が、隗純をくだす
先零羌與諸種寇金城、隴西,來歙率蓋延等進擊,大破之,斬首虜數千人。於是開 倉稟以賑饑乏,隴右遂安,而涼州流通焉。 庚寅,車駕還宮。
034年冬10月、來歙と諸将は、落門をおとした。周宗、行巡、苟宇、趙恢らは、隗純をつれて、くだった。
王元は、蜀にくだった。隗氏を京師の東にうつした。のちに隗純は、賓客とともに胡族へ亡入した。武威でつかまり、誅された。
先零羌らが、金城、隴西を寇した。來歙は蓋延をひきい、やぶった。官庫をひらき、穀物をくばった。ついに隴右が平安となる。涼州に開通した。10月庚寅、劉秀の車駕は、還宮した。
つぎ035年。隗氏がほろびた。ついに公孫述と決着がつくのか。