031年、朔寧王の隗囂が、関中へ北伐
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
031年春、公孫述が隗囂を、朔寧王とする
春,三月,罷郡國輕車、騎士、材官,今還復民伍。
公孫述立隗囂為朔寧王,遣兵往來,為之援勢。
031年春3月、郡国の輕車、騎士、材官をやめた。民伍をもどした。
公孫述は、隗囂を朔寧王とした。公孫述は、隗囂に援兵した。
ぼくは思う。地名じゃなくて、雑号将軍の発想で、王号をつくる。新鮮だなあ。
@Golden_hamsterさんはいう。前漢武帝の時の平干王、前漢末の広世王、広宗王なども同じような発想だったと思われます。
3月癸亥みそか、日食した。百僚に、封事させた。太中大夫の鄭興は、上疏した。
「劉秀が善政しないから、日食や月食があるのだ。適さない人が、高位にいるのが、よくない。いま公卿や大夫は、漁陽太守の郭伋を大司空にしないと、政治がさだまらないと考える」と。
鄭興は言った。「道ゆく人は、みな『劉秀は、功臣を高位につける。よくないことだ』と言う。人選をただしくすれば、日食や月食はおさまる」と。
劉秀は、政治に真剣なので、鄭興はこれを言ったのだ。
031年夏、司隷校尉は、三公を督察しない
大司農江馮上言:「宜令司隸校尉督察三公。」
031年夏4月壬午、大赦した。
5月戊戌、前將軍の李通を、大司空とした。
大司農の江馮は、上言した。「司隸校尉に、三公を督察させよ」と。
酒泉太守竺曾以弟報怨殺人,自免去郡;竇融承製拜曾武鋒將軍,更以辛肜為酒泉 太守。
司空掾の陳元は、上疏して、江馮に反対した。
「私はきく。臣を師とするのは、帝である。臣を賓とするのは、霸である。だから、周武王は、太公を師とした。齊桓公は、管仲を仲父とした。高帝は、蕭何に特権をあたえた。文帝は、三公の権限をおおきくして、申屠嘉に鄧通をせめさせた。三公の権限がよわければ、董忠のはかりごと(更始元年)を防げなかった。三公の権限を、掣肘してはいけない」と。
劉秀は、陳元にしたがう。
酒泉太守の竺曾は、弟に復讐させた。竺曾は、みずから酒泉をさった。竇融は承制して、竺曾を武鋒將軍とした。辛肜を酒泉
太守とした。
031年秋冬、隗囂が、馮異と祭遵をせめる
031年秋、隗囂は、步騎3万をひきいて、安定をおかし、陰槃(安定)にいたる。馮異がふせぐ。隗囂は、別將に隴水をくだらせ、汧県で祭遵をせめた。どちらも隗囂がひいた。
これらによれば、劉秀の諸将がやぶれたとき、隗囂が2将をつかわし「勝ちに乗じた」のだ。また「馮異が栒邑にくるまえ」とある。 つまり、馮異と祭遵が、王元と行巡をやぶったのは、建武六年だとあきらか。
建武七年8月になり、本紀は「隗囂が安定を寇した。馮異と祭遵が、迎撃した」とある。これは隗囂伝のいう「秋、隗囂が安定をおかし、陰槃にいたる。馮異がこばむ。隗囂は、別將に隴水をくだらせ、汧県で祭遵をせめた。どちらも隗囂がひいた」という記事とおなじ。隗囂は2年にわたり、馮異と祭遵をせめたのだ。ゆえに祭遵伝は「しばしば隗囂をくじく」とある。
『後漢紀』は、建武六年をのせず、七年秋にまとめる。
また列伝で「隗囂が、勝ちに乗じて」とするが、もし1年たっていれば、「乗じて」がおかしい。馮異は、1年かけて栒邑にいたらないことになる。『後漢紀』の誤りである。
劉秀は、みずから隗囂を征めた。さきに竇融と、合流を約束したが、雨で道がとだえた。隗囂がひいた。劉秀は、竇融との合流をやめた。劉秀は、来歙に文書をもたせ、王遵をくだした。太中大夫、向義侯とした。
031年冬、盧芳は、盧芳の五原太守する李興の兄弟を誅した。盧芳の朔方太守する田颯、雲中太守する喬扈は、郡をあげて劉秀にくだった。劉秀は、2人をもとの太守にとどめた。
南陽太守杜詩政治清平,興利除害,百姓便之。又修治陂池,廣拓土田,郡內比室 殷足,時人方於召信臣。南陽為之語曰:「前有召父,後有杜母。」
劉秀は、図讖をこのんだ。鄭興と、郊祀を議した。鄭興は「私は図讖なんて知らん」と言った。劉秀が怒った。鄭興は「私は図讖を、まだ学んでいないと言ったのです」と言い訳した。
南陽太守の杜詩は、善政をしたわれた。南陽では「この南陽を、むかし召信臣が治めてくれた(元帝の竟寧元年)。いま杜詩が治めてくれた。2人は南陽にとって、父母のようなもの」と言った。
つぎ032年。つづきます。隗囂は、まだがんばります。