036年、公孫述が死に、竇融が入朝する
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
036年春夏、劉秀の軍が、成都へ
春,正月,吳漢破公孫述將魏堂、公孫永於魚涪津,遂圍武陽。述遣子婿史興救之, 漢迎擊,破之,因入犍為界;諸縣皆城守。詔漢直取廣都,據其心腹。漢乃進軍攻廣都, 拔之,遣輕騎燒成都市橋。公孫述將帥恐懼,日夜離叛,述雖誅滅其家,猶不能禁。帝 必欲降之,又下詔喻述曰:「勿以來歙、岑彭受害自疑,今以時自詣,則宗族完全。詔 書手記,不可數得。」述終無降意。
036年春正月、呉漢は、公孫述の部将・魏堂、公孫永を、魚涪津(犍為)でやぶり、武陽をかこむ。公孫述は、子婿の史興に、武陽をすくわせる。呉漢はこれをやぶり、犍為の境界にはいる。諸縣は、みな城守した。呉漢は、廣都(蜀郡)をぬいた。輕騎をやり、成都の市橋(七星橋の1つ)を焼いた。公孫述の將帥はおそれ、日夜、離叛した。公孫述は、離叛した将帥の家族を殺しても、離叛がとまらない。
劉秀は、公孫述をくだしたい。劉秀は言った。「公孫述は、来歙と岑彭を殺害したが、公孫述の宗族をまっとうしてやる」と。公孫述は、くだらない。
帝戒吳漢曰:「成都十餘萬眾,不可輕也。但堅據廣都,待其來攻,忽與爭鋒。若 不敢來,公轉營迫之,須其力疲,乃可擊也。」漢乘利,遂自將步騎二萬進逼成都;去 城十餘里,阻江北營,作浮橋,使副將武威將軍劉尚將萬餘人屯於江南,為營相去二十 餘里。
帝聞之大驚,讓漢曰:「比敕公千條萬端,何意臨事勃亂!既輕敵深入,又與尚 別營,事有緩急,不復相及。賊若出兵綴公,以大眾攻尚,尚破,公即敗矣。幸無它者, 急引兵還廣都。」詔書未到,九月,述果使其大司徒謝豐、執金吾袁吉將眾十許萬,分 為二十餘營,出攻漢,使別將將萬餘人劫劉尚,令不得相救。漢與大戰一日,兵敗,走 入壁,豐因圍之。
036年秋7月、馮駿は江州をぬき、田戎をとらえた。
劉秀は、吳漢にいましめた。「成都は10余万いる。軽んじるな。廣都をまもり、公孫述の出撃をまて」と。しかし呉漢は、成都を攻めてしまった。
劉秀はおどろいて、呉漢をせめた。「成都を攻めるな。廣都にもどれ」と。
劉秀の文書がつく前に、9月、呉漢はやぶれた。公孫述の大司徒する謝豐、執金吾する袁吉が、成都の包囲を負かした。呉漢は、かこまれた。
呉漢は諸将をはげました。3日こもってから、夜に呉漢は出撃した。大司徒の謝豊と、執金吾の袁吉を斬った。
ここにおいて呉漢は、廣都にひく。副官の武威将軍する劉尚を、公孫述の前においた。劉秀は言った。「広都にひいて、よかった。しかし公孫述は、劉尚でなく、呉漢を攻めるだろう。もし公孫述が劉尚を攻めたら、劉尚をたすけろ。公孫述は飢えているから、やぶれる」と。
呉漢は公孫述と、廣都と成都のあいだで、8戦8勝した。ついに成都の郭中にはいった。臧宮は綿竹をぬき、涪城(広漢)をぬき、公孫述の弟・公孫恢をきった。繁県(蜀郡)、郫県(蜀郡)をぬき、臧宮は、呉漢と成都であわさる。
李通は権勢をさけて、辞職したい。大司空になって2年で、印綬をかえした。のちに有司が、皇子を封建せよと言った。劉秀は、李通の大謀(王莽の地皇三年)をおもい、李通の少子・李雄を召陵侯とした。
漢軍餘七日糧,陰 具船,欲遁去。蜀郡太守南陽張堪聞之,馳往見漢,說述必敗,不宜退師之策。漢從之, 乃示弱以挑敵。
公孫述は困急して、延岑に言った。「どうしよう」と。延岑は言った。「男児なら、死中に求生せよ。坐して窮するな。財物は、すぐあつまる。執着するな」と。公孫述は、金帛をバラまき、死士5千餘人を延岑につけた。延岑は、呉漢をおそった。呉漢は川におちた。呉漢は、馬の尾をつかんで、川から出られた。
呉漢は、軍糧があと7日分しかない。ひきたい。蜀郡太守する南陽の張堪は、呉漢に「ひくな」と言った。呉漢は、ひくのをやめた。
036年冬、公孫述が死に、西土を平定する
大戰,岑三合三勝,自旦及日中,軍士不得食,並疲。漢因使護軍高午、唐邯將銳卒數 萬擊之,述兵大亂;高午奔陳刺述,洞胸墮馬,左右輿入城。述以兵屬延岑,其夜,死;
明旦,延岑以城降。辛巳,吳漢夷述妻子,盡滅公孫氏,並族延岑,遂放兵大掠,焚述 宮室。帝聞之怒,以譴漢。又讓劉尚曰:「城降三日,吏民從服,孩兒、老母,口以萬 數,一旦放兵縱火,聞之可為酸鼻。尚宗室子孫,嘗更吏職,何忍行此!仰視天,俯視 地,觀放麑、啜羹,二者孰仁?良失斬將吊民之義也!」
036年冬11月、臧宮は鹹陽門(成都の北面東頭門)にゆく。11月戊寅、みずから公孫述は呉漢をせめた。延岑に、臧宮をふせがせた。
公孫述の部将・延岑は3勝したが、軍士は空腹になった。呉漢は、護軍の高午、唐邯に、公孫述の兵をうたせた。公孫述の軍士は、大乱した。公孫述は、延岑についたが、その夜に公孫述は死んだ。
翌朝、延岑はくだった。
11月辛巳、呉漢は、公孫述の妻子を、みな殺した。公孫氏、延岑を族殺して、公孫述の宮室をやいた。劉秀は、これを聞いて怒った。劉秀は、呉漢の副官・劉尚に言った。「くだした城を焼いたら、人民がなつかない。劉尚は、宗室の一員だ。楽羊の故事みたく、スープになりたいか」と。
はじめ公孫述は、廣漢の李業を、博士にめした。李業がしたがわないので、大鴻臚の尹融をおくり、李業をおどした。李業は、公孫述につきたくないので、毒酒をのんだ。公孫述は、賢者を殺したことをはじて、品物をおくった。李業の子はうけず、にげた。
述又征蜀郡王皓、王嘉,恐 其不至,先系其妻子,使者謂嘉曰:「速裝,妻子可全。」對曰:「犬馬猶識主,況於 人乎!」王皓先自刎,以首付使者。述怒,遂誅皓家屬。 王嘉聞而歎曰:「後之哉!」 乃對使者伏劍而死。
犍為費貽不肯仕述,漆身為癩,陽狂以避之。同郡任永、馮信皆托 青盲以辭征命。
また公孫述は、巴郡の譙玄をめした。譙玄は、毒薬をのんだ。
公孫述は、蜀郡の王皓、王嘉の妻子をつなぎ、出仕を強いた。失敗した。
犍為の費貽も、狂ったふりをした。同郡の任永、馮信も、公孫述につかえず。
劉秀は蜀を平定すると、常少を太常に、張隆を光祿勳にした。譙玄は死んでいたので、中牢をまつった。李業の閭に表した。費貽、任永、馮信をめした。任永、馮信は病死した。ひとり費貽だけが出仕し、合浦太守までなる。
公孫述の部将・程烏、李育は、才幹があるから、もちいた。西土は、みなよろこび、歸心した。
はじめ王莽は、廣漢の文齊を、益州太守とした。文齊は善政して、公孫述にくだらず。文齊は、劉秀の
鎮遠將軍、成義侯となる。
036年12月、竇融が入朝し、冀州に転じる
是歲,參狼羌與諸種寇武都,隴西太守馬援擊破之,降者萬餘人,於是隴右清靜。 援務開恩信,寬以待下,任吏以職,但總大體,而賓客故人日滿其門。諸曹時白外事, 援輒曰:「此丞、掾之任,何足相煩!頗哀老子,使得遨遊。若大姓侵小民,黠吏不從 令,此乃太守事耳。」傍縣嘗有報讎者,吏民驚言羌反,百姓奔入城,狄道長詣門,請 閉城發兵。援時與賓客飲,大笑曰:「虜何敢復犯我!曉狄道長,歸守寺捨。良怖急者, 可床下伏。」後稍定,郡中服之。
12月辛卯、揚武將軍の馬成に、行大司空事させた。
この歳、參狼羌が諸種とともに、武都を寇した。隴西太守の馬援がやぶった。ここにおいて、隴右が清靜となる。馬援は、うまく政治した。郡中はふくした。
山桑節侯王常、牟平烈侯耿況、東光成侯耿純皆薨。況疾病,乘輿數自臨幸,復以 弇弟廣、舉並為中郎將。弇兄弟六人皆垂青紫,省侍醫藥,當世以為榮。
盧芳與匈奴、烏桓連兵,數寇邊。帝遣驃騎大將軍杜茂等將兵鎮守北邊,治飛狐道, 築亭障,修烽燧,凡與匈奴、烏桓大小數十百戰,終不能克。
詔した。「辺境の吏人は、胡族に敵わなければ、守っていてよい。前漢のように、敵を放置したら斬るなんてことはない」と。
山桑節侯の王常、牟平烈侯の耿況、東光成侯の耿純が、みな薨じた。耿況が疾病すると、劉秀は見舞って、一族を厚遇した。
盧芳と匈奴、烏桓が、しばしば寇邊した。驃騎大將軍の杜茂らが、匈奴や烏丸と戦ったが、かてない。
尋拜融 冀州牧。又以梁統為太中大夫,姑臧長孔奮為武都郡丞。姑臧在河西最為富饒,天下未 定,土多不修檢操,居縣者不盈數月,輒致豐積;奮在職四年力行清潔,為眾人所笑, 以為身處脂膏不能自潤。及從融入朝,諸守、令財貨連轂,彌竟川澤;唯奮無資,單車 就路,帝以是賞之。
竇融と5郡の太守を、入朝させた。竇融は冀州牧となる。梁統は太中大夫となる。姑臧長の孔奮は、武都郡丞となる。孔奮は、清さをたたえられた。
睢陽令の任延を、武威太守とした。任延は「上官にしたがっておくだけが、国家の利益ではない」と言った。劉秀は「そのとおり」と嘆息した。
つぎ037年。天下統一の収束かなあ。いちおう読もう。