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035年、岑彭が公孫述をおいつめる

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

035年春、岑彭が、荊州から益州へさかのぼる

世祖光武皇帝中之上建武十一年(乙未,公元三五年)
春,三月,己酉,帝幸南陽,還幸章陵;庚午,車駕還宮。
岑彭屯津鄉,數攻田戎等,不克。帝遣吳漢率誅虜將軍劉隆等三將,發荊州兵凡六 萬餘人、騎五千匹,與彭會荊門。彭裝戰船數十艘,吳漢以諸郡棹卒多費糧谷,欲罷之。 彭以為蜀兵盛,不可遣,上書言狀。帝報彭曰:「大司馬習用步騎,不曉水戰,荊門之 事,一由征南公為重而已。」

035年春3月己酉、劉秀は南陽にゆき、章陵にゆく。3月庚午、還宮した。

『通鑑考異』はいう。劉秀のスケジュールが、史料でことなる。『後漢紀』にしたがう。

岑彭は津郷にいて、しばしば田戎らを攻めたが、かてず。劉秀は、吳漢に誅虜將軍の劉隆ら3將をつけて、荊州を攻めた。岑彭と、荊門であわさる。岑彭は、水軍をもつ。呉漢は、諸郡の兵が軍糧をくうので、動かしたくない。
岑彭は「蜀兵はつよいから、呉漢をつかうな」と言った。劉秀は岑彭に言った。「大司馬の呉漢は、步騎がうまいが、水戰はダメだ。荊門のことは、征南大将軍の岑彭に、すべてまかせる」と。

閏月,岑彭令軍中募攻浮橋,先登者上賞。於是偏將軍魯 奇應募而前,時東風狂急,魯奇船逆流而上,直衝浮橋,而欑柱有反杷鉤,奇船不得去。 奇等乘勢殊死戰,因飛炬焚之,風怒火盛,橋樓崩燒。岑彭悉軍順風並進,所向無前, 蜀兵大亂,溺死者數千人,斬任滿,生獲程汎,而田戎走保江州。

035年閏月、岑彭は浮橋をつくり、先登して、公孫述軍につっこむ人の戦功を厚くした。偏將軍の魯奇が、先登した。風がつよく、浮橋が焼けた。
岑彭の全軍は、順風をうけて進んだ。蜀兵は大亂して、数千が溺死した。任滿を斬り、程汎をいけどった。田戎は、江州にげた。

彭上劉隆為南郡太守; 自率輔威將軍臧宮、驍騎將軍劉歆長驅入江關。令軍中無得虜掠,所過,百姓皆奉牛酒 迎勞,彭復讓不受。百姓大喜,爭開門降。詔彭守益州牧,所下郡輒行太守事,彭若出 界,即以太守號付後將軍。選官屬守州中長吏。彭到江州,以其城固糧多,難卒拔,留 馮駿守之;自引兵乘利直指墊江,攻破平曲,收其米數十萬石。吳漢留夷陵,裝露橈繼 進。

岑彭は上書して、劉隆を南郡太守とした。みずから岑彭は、輔威將軍の臧宮、驍騎將軍の劉歆をひきい、江關にはいる。

『華陽国志』はいう。春秋戦国のとき、巴と楚が攻めあい、江関城がおかれた。白帝城のむかいだ。

虜掠を禁じたので、岑彭は百姓に歓迎された。岑彭は益州牧となり、太守の仕事をやった。岑彭が益州を出るとき、太守たちは岑彭の後ろに、したがった。官屬をえらび、州中に長吏をおく。

ぼくは思う。益州牧の岑彭は、権限がおおきいなあ。

岑彭は江州につく。守備がかたく、ぬけない。馮駿をおき、江州ぜめを続けさせた。みずから岑彭は、墊江(巴郡)にむかい、平曲(巴郡)をやぶる。岑彭は、吳漢を夷陵にとどめ、水軍をすすませた。

035年夏、公孫述が、来歙を刺殺する

夏,先零羌寇臨洮。來歙薦馬援為隴西太守,擊先零羌,大破之。
公孫述以王元為將軍,使與領軍環安拒河池。六月,來歙與蓋延等進攻元、安,大 破之,遂克下辨,乘勝遂進。蜀人大懼,使刺客刺歙,未殊,馳召蓋延。延見歙,因伏 悲哀,不能仰視。歙叱延曰:「虎牙何敢然!今使者中刺客,無以報國,故呼巨卿,欲 相屬以軍事,而反效兒女子涕泣乎!刃雖在身,不能勒兵斬公邪?」延收淚強起,受所 誡。

035年夏、先零羌は臨洮を寇した。來歙あ、馬援を隴西太守にすすめて、先零羌をやぶらせた。
公孫述は、隗囂の部将・王元を將軍とした。領軍の環安とともに、河池(武都)におく。035年6月、来歙と蓋延らは、王元と環安をやぶり、下辨をくだした。
蜀人はおそれ、刺客をやって来歙を刺した。来歙は、死ぬまえに蓋延に会った。蓋延は、泣きまくった。「虎牙大将軍の蓋延は、泣くな。蓋延が、私のかわりに戦わねば、私は手負いだが、蓋延を斬る」と。蓋延は、泣きやんだ。

歙自書表曰:「臣夜人定後,為何人所賊傷,中臣要害。臣不敢自惜,誠恨奉職不 稱,以為朝廷羞。夫理國以得賢為本,太中大夫段襄,骨鯁可任,願陛下裁察。又臣兄 弟不肖,終恐被罪,陛下哀憐,數賜教督。」投筆抽刃而絕。帝聞,大驚,省書攬涕。 以揚武將軍馬成守中郎將代之。歙喪還洛陽,乘輿縞素臨吊、送葬。

みずから来歙は、上表した。「私は夜に、刺客にやられた。だれが刺客か、わからない。太中大夫の段襄は、正直だから、彼をたよれ。私の兄弟をよろしく」と。筆をなげて、死んだ。
劉秀はおどろき、上表をみて泣いた。揚武將軍の馬成に、中郎將を守させ、来歙にかえた。来歙の死体は、洛陽にきた。

趙王良從帝送歙喪還,入夏城門,與中郎將張邯爭道,叱邯旋車,又詰責門候,使 前走數十步。司隸校尉鮑永劾奏:「良無籓臣禮,大不敬。」良尊戚貴重,而永劾之, 朝廷肅然。永辟扶風鮑恢為都官從事,恢亦抗直,不避強禦。帝常曰:「貴戚且斂手以 避二鮑。」

趙王の劉良は、来歙の死体をおくって、夏城門にはいる。中郎將の張邯と、道をあらそった。ケンカした。司隸校尉の鮑永は、劾奏した。「劉良は、籓臣の禮がない。おおいに不敬だ」と。劉良は、劉秀の近親だが、鮑永が劾めたので、朝廷は肅然とした。鮑永は、扶風の鮑恢を辟して、都官從事とした。

『百官志』はいう、司隷校尉の従事史は、12人。都官従事は、百官の犯法を察挙した。

鮑恢も抗直で、強禦をさけない。劉秀は「貴戚も、二鮑を避けとけ」と言った。

永行縣到霸陵,路經更始墓,下拜,哭盡哀而去,西至扶風,椎牛上苟諫塚。 帝聞之,意不平,問公卿曰:「奉使如此,何如?」太中大夫張湛對曰:「仁者,行之 宗;忠者,義之主也。仁不遺舊,忠不忘君,行之高者也。」帝意乃釋。

鮑永が、霸陵(京兆)にいった。

胡三省はいう。司隷校尉は、三河、三輔、弘農をつかさどる。

鮑永は、更始帝・劉玄の墓をとおりすぎた。下拜して、哭して哀しみをつくし、去った。西して、扶風にゆく。鮑永を保護した、苟諫の塚にそなえた。劉秀はムッとして「鮑永は、なぜこんな行動をしたのか」と聞いた。

ぼくは思う。更始帝や苟諫は、劉秀の旧敵である。

太中大夫の張湛が、理由をつけた。劉秀は納得した。

035年秋、公孫述の天命をおいつめる

帝自將征公孫述;秋,七月,次長安。
公孫述使其將延岑、呂鮪、王元、公孫恢悉兵拒廣漢及資中,又遣將侯丹率二萬餘 人拒黃石。岑彭使臧宮將降卒五萬,從涪水上平曲,拒延岑,自分兵浮江下還江州,溯 都江而上,襲擊侯丹,大破之;因晨夜倍道兼行二千餘里,逕拔武陽。使精騎馳擊廣都, 去成都數十裡,勢若風雨,所至皆奔散。

劉秀は、みずから公孫述をせめた。035年秋7月、長安にゆく。
公孫述は、部将の延岑、呂鮪、王元、公孫恢に、すべて兵をあつめさせ、広漢(広漢)および資中(犍為)で、劉秀をふせぐ。また侯丹は、黃石灘でふせぐ。岑彭は臧宮に、くだった5万をつけて、涪水(広漢属国)から平曲をさかのぼり、延岑をふせぐ。みずから兵をわけて長江をくだり、江州にもどる。都江をのぼり、侯丹をやぶる。
朝夜に2倍速ですすみ、2千余里をゆき、武陽(犍為)をぬく。精兵で、廣都(蜀郡)をぬく。成都まで、数十里。風雨のいきおいで、公孫述の軍を奔散させてすすむ。
はじめ公孫述は、劉秀の兵が平曲にきたときき、大兵でふせぐ。岑彭が武陽にきたので、延岑をだした。蜀地はふるえた。公孫述は杖で地をうち「これ、何ぞ神なるか」と言った。

延岑盛兵於沅 水。臧宮眾多食少,轉輸不至,降者皆欲散畔郡邑,復更保聚,觀望成敗。宮欲引還, 恐為所反;會帝遣謁者將兵詣岑彭,有馬七百匹,宮矯制取以自益,晨夜進兵,多張旗 幟,登山鼓噪,右步左騎,挾船而引,呼聲動山谷。
岑不意漢軍卒至,登山望之,大震 恐;宮因縱擊,大破之,斬首、溺死者萬餘人,水為之濁。延岑奔成都,其眾悉降,盡 獲其兵馬珍寶。

延岑は、沅水(広漢県)におおい。臧宮は、兵数がおおいが食糧がすくない。劉秀にくだる人はみな、郡邑にこもって、勝敗を見とどける。

ぼくは思う。後漢初の豪族がやりがちなパタン。

臧宮は、兵をひきたい。そむかれるのを、おそれた。劉秀の謁者が、馬をもって、岑彭をたずねた。臧宮は、馬を自分のものにした。臧宮は登山して、山谷でさわいだ。
延岑は、いきなり劉秀の兵がきたので、おそれた。臧宮は劉秀の兵をやぶった。1万余人が、斬首、溺死した。川がにごった。延岑は成都ににげた。公孫述から劉秀にくだった兵は、兵馬や珍寶をうばった。

自是乘勝追北,降者以十萬數。軍至平陽鄉,王元舉眾降。帝與公孫述 書,陳言禍福,示以丹青之信。述省書歎息,以示所親。太常常少、光祿勳張隆皆勸述 降。述曰:「廢興,命也,豈有降天子哉!」左右莫敢復言。少、隆皆以憂死。
帝還自長安。

これより、勝ちに乗じて、負けた人をおった。10万余人がくだった。劉秀の軍は、平陽郷にすすむ。王元がくだった。劉秀は公孫述に、文書して禍福をといた。公孫述は文書をみて歎息し、親しい人にしめした。太常の常少、光祿勳の張隆は、みな降伏をすすめた。公孫述は言った。「廢興は、命なり。降伏する天子が、あるものか」と。左右は、もう言うことがない。常少、張隆は、どちらも憂死した。
劉秀は、長安にもどった。

035年冬、岑彭が殺され、馬援が羌族に政策

冬,十月,公孫述使刺客詐為亡奴,降岑彭,夜,刺殺彭。太中大夫監軍鄭興領其 營,以俟吳漢至而授之。彭持軍整齊,秋毫無犯。邛谷王任貴聞彭威信,數千里遣使迎 降;會彭已被害,帝盡以任貴所獻賜彭妻子。蜀人為立廟祠之。
馬成等破河池,遂平武都。先零諸種羌數萬人,屯聚寇鈔,拒浩亹隘。成與馬援深 入討擊,大破之,徙降羌置天水、隴西、扶風。

035年冬10月、公孫述は刺客をやる。いつわって岑彭にくだり、岑彭を刺殺した。太中大夫・監軍の鄭興は、岑彭の兵をあつめた。吳漢がくるのを、まった。岑彭の軍はととのい、わずかも犯さず。邛谷王の任貴は、岑彭の威信をきいて、數千里をきて、くだった。岑彭が殺されたので、任貴が献じたものを、岑彭の妻子にあたえた。蜀人は、岑彭の廟をたて、まつった。

胡三省はいう。任貴が公孫述にくだったことは、建武元年にある。ぼくは思う。後漢初は、蜀方面で、暗殺が2回もあった。『三国志』で重要な暗殺は、ないのに。

馬成らは、河池をやぶり、武都をたいらげた。先零の諸種羌・數萬人が、屯聚して寇鈔した。浩亹隘をふせいだ。馬成と馬援は、ふかく羌族にはいり、やぶった。くだった羌族を、天水、隴西、扶風にうつした。

是時,朝臣以金城破羌之西,塗遠多寇,議欲棄之。馬援上言:「破羌以西,城多 完牢,易可依固。其田土肥壤,灌溉流通。如令羌在湟中,則為害不休,不可棄也。」 帝從之。民歸者三千餘口,援為置長吏,繕城郭,起塢候,開溝洫,勸以耕牧,郡中樂 業。又招撫塞外氏、羌,皆來降附,援奏復其侯王君長,帝悉從之。乃罷馬成軍。

このとき朝臣は、金城郡の破羌県より西は、とおくて寇されるから、放棄したい。馬援は鄭玄した。「城がおおくて、守りやすい。田土は肥壤で、灌溉が流通する。もし放棄したら、羌族から後漢への害が、つづく。放棄するな」と。劉秀は、馬援をもちいた。
民3千余口が、後漢に帰した。馬援は長吏をおき、城郭をなおし、塢候をつくり、産業をおこした。塞外から、氐羌をくだす。馬援は上奏して、胡族の侯王や君長をもどす。劉秀は、すべて馬援にしたがう。馬成の軍をやめた。

いちおうこれで、公孫述に乱された涼州を、修復した。


十二月,吳漢自夷陵將三萬人溯江而上,伐公孫述。
郭人及為并州牧,過京師,帝問以得失,人及曰:「選補眾職,當簡天下賢俊,不 宜專用南陽人。」是時在位多鄉曲故舊,故人及言及之。

035年12月、吳漢は、夷陵の3万をひきい、長江をのぼる。公孫述をうつ。

ついに、最終決戦です。

郭伋は并州牧となり、京師をとおった。劉秀に問われ、郭伋はこたえた。「南陽の人ばかり、もちいるな」と。このとき、劉秀の故郷・南陽の人がおおく用いられた。だから郭伋は、これを言ったのだ。

つぎ、036年。『資治通鑑』の巻がかわる。つづきます。