032年、略陽の陥落、隗囂をかこむ
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
032年春、来歙が、隗囂の急所・略陽をおとす
世祖光武皇帝中之上建武八年(壬辰,公元三二年)
032年春、來歙は2千余人をひきい、山に道をひらいた。略陽(天水に属す、冀城のこと)をおそった。来歙は、隗囂の守將・金梁をきった。隗囂はおどろき「なんぞ、その神たるか」と言った。劉秀はよろこんだ。「略陽は、隗囂の重要な拠点だ。心腹がこわれたから、たやすく支体もこわれる」と。呉漢らは、いそいで略陽へゆく。
劉秀は、隗囂が重要な拠点をうしなったので、いっきに精鋭で、ほかの拠点をおとしたい。包囲したが、ぬけず。呉漢につけて、精鋭をひかせた。
隗囂は、王元に隴坻をまもらせ、行巡に番須口をまもらせ、王孟に雞頭道をふせがせ、牛邯を瓦亭におく。隗囂は、みずから略陽をかこむ。公孫述は、李育と田弇をおくり、隗囂をたすける。
來歙は、略陽を堅守したが、矢がつきた。建物や樹木をきって、兵に見せかけた。隗囂は、月をかさねたが、来歙をくだせず。
032年夏、劉秀と竇融が、隗囂を壊滅させる
032年夏閏4月、みずから劉秀は、隗囂を征めたい。光祿勳する汝南の郭憲がいさめた。「東方が、定まったばかりだ。遠征するな」と。郭憲は佩刀をぬき、劉秀の馬車のツナをきった。劉秀はしたがわず、西して漆県(扶風)につく。劉秀の大軍は、遠くへゆきにくい。
劉秀は馬援に聞いた。馬援は言った。「隗囂の將帥は、土崩之勢だ。もし劉秀がくれば、隗囂はくずれる」と。劉秀は言った。「隗囂は、もう視野のなかだ」と。翌朝、高平県の第一城にゆく。
竇融は、5郡の太守をひきい、羌族の小月氏をつれる。
竇融は、劉秀とあわさった。劉秀は、竇融を歓待した。
劉秀と隗囂は、すすんだ。隗囂からくだった王遵に、文書をもたせて、牛邯をくだした。牛邯を、太中大夫とした。隗囂の大將13人、屬縣16がくだり、10余万人が、みなくだった。
隗囂は、妻子をひきいて、西城(漢陽)にゆき、楊廣にしたがう。田弇と李育は、上邽(天水)にいる。略陽のかこみは、とけた。劉秀は、略陽をまもった来歙をねぎらった。
劉秀は、隗囂に言った。「降伏したら、ゆるす。もし高帝のときの、鯨布のように、みずから皇帝をとなえるなら、やってみろ」と。隗囂はくだらず。劉秀は、隗恂をころした。
呉漢と岑彭に、西城をかこませた。耿弇と蓋勲に、上邽をかこませた。
4県をもって、竇融を安豐侯とした。
弟の竇友を顯親侯とした。竇友のもとの5郡太守を、みな列侯とした。西させ、鎮所にもどした。
5郡太守とは、竺曾、梁統、史苞、庫鈞、辛ユウである。
竇融は、ずっと西方にいるので、安心できない。しばしば上書して「西方の長官を、べつの人にかえろ」と言った。
劉秀は竇融に「竇融は、私にとって、左右の手のようなものだ。西方でがんばれ」と言った。
032年秋、頴川と東郡がそむき、寇恂と耿純が鎮圧
穎川の盜賊がおこった。屬縣をおとした。河東の守兵が、劉秀にそむいた。京師はさわいだ。劉秀は「郭憲を、長官にしておけばよかった」と言った。
032年秋8月、劉秀は上邽から、昼夜かねて、東にもどる。岑彭に文書をあたえた。「もし西城と上邽をおとしたら、南して公孫述をうて。人は満足を知らないことに、苦しむ。隴をえて蜀をのぞむ。1たび兵をだすごとに、白髪がふえる」と。
ぼくは思う。曹操は、馬超を放置して、河間の平定にいった。光武帝とおなじ。お膝元のガードが、どうもあまいようです。
庚申,車駕南征, 穎川盜賊悉降。寇恂竟不拜郡,百姓遮道曰:「願從陛下復借寇君一年。」乃留恂長社, 鎮撫吏民,受納餘降。
9月乙卯、劉秀の車駕は、還宮した。劉秀は、執金吾の寇恂に言った。「頴川は、京師にちかい。寇恂だけが、たよりだ。意見をのべよ」と。寇恂は言った。「頴川は、劉秀が隴蜀にいったから、スキをついただけだ。劉秀が南して頴川にゆけば、盗賊はおそれる。私が前駆をやる」と。
9月庚申、劉秀が頴川にゆくと、盗賊はくだった。寇恂が、頴川太守にならない。百姓が道をふさいだ。「劉秀は、あと1年でいいから、寇恂を頴川太守にしてくれ」と。
寇恂は長社で、頴川をしずめた。
東郡、濟陰でも、盗賊がたった。劉秀は、李通と王常にうたせた。東光侯の耿純は、かつて東郡太守だった。耿純の威信は、衛地(=東郡)にきこえた。耿純は太中大夫となり、戦わずに、東郡の盗賊をくだした。耿純を、東郡太守にもどした。9月戊寅、劉秀は頴川から、洛陽にかえる。
安丘侯の張歩が、妻子をつれて、臨淮ににげた。琅邪太守の陳俊がきった。
032年冬、呉漢が攻城にミスり、雍州がそむく
楊廣死,隗囂窮困,其大將王捷別在戎丘,登城呼漢軍曰:「為隗王城守者,皆必 死,無二心。願諸軍亟罷,請自殺以明之。」遂自刎死。
032年冬10月丙午、劉秀は懷県にゆく。11月乙丑、洛陽にもどる。
楊廣が死に、隗囂は窮困した。隗囂の大將・王捷は、戎丘(西城の西北)にいた。呉漢の軍に「隗囂の城を守る人は、二心がない。呉漢は、軍をひけ。私が自殺して、二心がないことを明らかにする」と言った。自刎した。
はじめ劉秀は、呉漢に言った。「諸郡の兵士は、そこにいるだけで、軍糧をくう。もし兵士がにげたら、士気をそこねるから、軍事行動をやめろ」と。だが呉漢は、隗囂を力ぜめした。軍糧がへり、病気や逃亡がふえた。
岑彭は、谷水をやぶり、西城をひたした。隗囂の部将・王元、行巡、周宗が。蜀兵をひきいて「百万人がきたぞ」と、呉漢をおどかした。呉漢がおどろき、隗囂への包囲がくずれた。王元らは、西城にはいった。隗囂を、冀県につれだしたい。
吳漢は、軍糧がつきた。輜重をやき、隴水をくだった。蓋延、耿弇も、呉漢にしたがい、ひく。隗囂に追撃された。岑彭がふせいだ。ただ祭遵だけが、汧県にのこった。
呉漢は長安にもどり、岑彭は津郷にもどる。安定、北地、天水、隴西が、また隗囂についた。
校尉する太原の溫序は、隗囂の部将・苟宇にとらわれた。苟宇は溫序に「隗囂にくだれ」と言った。溫序が「隗囂になんて、くだれるか」と怒って、苟宇の兵を殺した。苟宇は「温序は義士だ。剣をたまえ」と言った。温序は剣をくわえて「賊に殺されても、私を、けがれた土に葬るな」と言った。
温序伝はいう。温序は、護羌校尉となった。襄武にきて、苟宇にとらわれた。『通鑑考異』はいう。温序伝と、『後漢紀』では、温序を護羌校尉とする。西羌伝では、護羌校尉は、つぎの建武九年におかれ、牛邯がついた。また「牛邯が死に、護羌校尉ははぶかれた」とある。温序伝がおかしいので、司馬光はただ「校尉の温序」と記した。
温序は、伏して自殺した。從事の王忠は、温序の死体を洛陽にはこんだ。温序の3子を、郎とした。
032年12月、高句麗王が、朝貢した。劉秀は、高句麗に王号をもどした。王莽が、高句麗を格下げしたのだ。この歳、大水あり。
つぎは、033年。ついに隗囂が死にます。あっけない結末!