030年冬、竇融と馬援が、隗囂をおどす
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
030年12月、馮異が隗囂をやぶり、北地をくだす
癸巳,詔曰:「頃者師旅未解,用度不足,故行十一之稅。今糧儲差積,其令郡國 收見田租三十稅一,如舊制。」
12月壬辰、大司空の宋弘をめんじた。
12月癸巳、劉秀は詔した。「10分の1税から、郡国を30分の1税とする。景帝二年の旧制にもどす」と。
馮異引 軍未至栒邑,隗囂乘勝使王元、行巡將二萬餘人下隴,分遣巡取栒邑。異即馳兵欲先據 之,諸將曰:「虜兵盛而乘勝,不可與爭鋒,宜止軍便地,徐思方略。」異曰:「虜兵 臨境,忸心犬小利,遂欲深入;若得栒邑,三輔動搖。夫攻者不足,守者有餘。今先據 城,以逸待勞,非所以爭也。」潛往,閉城,偃旗鼓。
行巡不知,馳赴之。異乘其不意, 卒擊鼓、建旗而出。巡軍驚亂奔走,追擊,大破之。
諸將が隴水をくだると、劉秀は耿弇を、漆県(扶風)におく。馮異を栒邑におく。祭遵を汧県(扶風)におく。後漢らを、長安にもどす。
馮異がつく前に、隗囂は王元をやり、栒邑をねらう。諸将は「王元は、勝ちに乗じて、つよい。戦うな」と言った。馮異は「私たちは、攻めるには兵数が足りないが、守ることはできる(『孫子』)」と言った。諸将の反対をおしきり、馮異は、こっそり栒邑に入った。旗鼓をかくした。馮異は城内から、王元を不意うちして、やぶった。
祭遵もまた、王元を汧県でやぶった。
ここにおいて、北地の諸豪長・耿定らは、すべて隗囂にくだった。劉秀は、馮異を義渠(北地)にすすめ、盧芳の部将・賈覽、匈奴の奧鞬日逐王をやぶった
。北地、上郡、安定は、すべて馮異にくだった。
030年冬、竇融が隗囂に、劉秀への臣従をとく
ふたたび竇融は、弟の竇友をやり、劉秀に上書した。
「幸いにして私は、前漢・文帝の竇皇后の親属だ。私は前年、劉鈞をおくった。だが劉秀は私に、公孫述と劉秀と竇融が鼎立すると言った。残念だ。いま弟の竇友をおくるので、私の劉秀にたいする誠意をわかってくれ」と。
竇友が高平(安定)にきたとき、隗囂が劉秀にそむいた。竇友は、劉秀にゆけない。司馬の席封が、間道をつたって、劉秀に文書をとどけた。
劉秀は、竇融と竇友に文書をあたえて、あつく、なぐさめた。
竇融は、隗囂に文書した。「隗囂は、王莽のとき守節した。だが、いま劉秀にそむいた。西州(雍州)は局地で、民兵は離散した。独立できる地勢でない。聞けば、隗囂は外交にまよって、南の公孫述とむすばず、北の盧芳とむすんだ。カラッポの盟友(盧芳)にたより、強敵(公孫述)をかろんじた。遠くの味方をたより、近くの敵をかろんじた。この外交で、成功した事例がない。隗囂は、劉秀にそむくな」と。
隗囂は、竇融をいれず。
帝以融信效著明,益嘉之,修理融父墳墓,祠以太牢,數馳輕 使,致遺四方珍羞。梁統猶恐眾心疑惑,乃使人刺殺張玄,遂與隗囂絕,皆解所假將軍 印綬。
竇融と、5郡の太守は、兵馬をはげました。上疏して、劉秀のために戦いたい。劉秀は、よろこんだ。馬融と、5郡の太守は、金城にはいった。隗囂についた、先零羌の封何らを、やぶった。
竇融らは、黄河にそって、威武をアピった。劉秀がこないので、竇融は軍をひいた。
劉秀は、竇融をほめて、竇融の父の墳墓をなおし、太牢をそなえた。四方からきた宝物をそなえて、四方が服したことを、しめした。梁統は、兵の心がゆれるのをおそれた。梁統は、隗囂の使者・張玄をころした。隗囂と絶縁した。隗囂からもらった、将軍の印綬をかえした。
030年冬、馬援が楊広をつうじ、隗囂に臣従を説得
これより先、馬援は、隗囂が劉秀にそむくと聞き、しばしば文書して、せめた。ますます隗囂はいかった。馬援は上書した。馬援はいう。
「私と隗囂は、交友である。私を劉秀に使者させた理由は、なにか。隗囂は真意で、劉秀につくからだった。のちに隗囂がそむいた。私は、隗囂を説得したい。もし隗囂が劉秀にしたがわなければ、隗囂を滅ぼす作戦を、私がたてる」と。劉秀は、馬援を隗囂にゆかせた。
馬援は、突騎5千をつれて、隗囂の部将、羌族を説得した。
ぼくは思う。純粋な意味での「説客」ではない。おどしである。
馬援は、解剖の部将・楊広に文書した。楊広から、隗囂を説得させた。馬援はいう。「隗囂は、王元にそそのかされて、函谷関の西に割拠した。だが天下の情勢を見れば、王元の言うように、割拠できない」
馬援はいう。「私は河内で、隗恂(隗囂の子、劉秀がとった人質)と会った。隗恂は、父の隗囂が劉秀にそむいたので、泣きまくった。隗囂は、わが子を、見殺しにする人ではないよな」と。
馬援はいう。「隗囂は、ふだんから言っていた。兵をつかう目的は、父母の国をまもるためだと。士大夫を厚遇するためだと。だが隗囂は劉秀にそむき、目的をダメにしそうだ。かつて隗囂は、公孫述から爵位を受けるのを、はじた。いま隗囂は、公孫述から爵位を受けた。隗囂は、面目がつぶれた。もし公孫述が人質をもとめたら、また隗囂は、人質をだしだすのか。隗囂は、老境にさしかかる。バカをするな」と
廣竟不答。諸將每有疑議,更請呼援,鹹敬重焉。
馬援はいう。「隗囂の部将・楊広と牛邯は、隗囂を説得しろ。天下の郡国は106ある。隴西と天水の2郡だけで、隗囂は自立できない」と。
楊広は、馬援にこたえず。諸将は、馬援が隗囂につうじると疑った。だが馬援と会うと、諸将は疑いをといた。
有司以囂言慢,請 誅其子。帝不忍,復使來歙至汧,賜囂書曰:「昔柴將軍雲:陛下寬仁,諸侯雖有亡叛 而後歸,輒復位號,不誅也。』今若束手,復遣恂弟歸闕庭者,則爵祿獲全,有浩大之 福矣!吾年垂四十,在兵中十歲,厭浮語虛辭。即不欲,勿報。」
囂知帝審其詐,遂遣 使稱臣於公孫述。
隗囂は上疏して、劉秀にあやまった。「いろいろあって、劉秀に臣従できません。マジ、すみません」と。
有司は、隗囂の言葉が傲慢なので「子の隗恂を殺せ」と言った。劉秀はしのびず。
劉秀は、来歙を汧県にゆかせ、隗囂に文書させた。「高帝のとき、将軍の柴武は言った。『高帝は寛仁なので、そむいて帰した諸侯を、もとの官位にもどした。誅さなかった』と。劉秀も、高帝とおなじだ。私は年齢が40をこえ、軍事を10年やる。ウソはいわない」と。
隗囂は、劉秀にウソがあることを知っている。ついに隗囂は、公孫述に使者して、公孫述の臣下だと、となえた。
匈奴と盧芳は、たえず寇する。歸德侯の颯が、匈奴に修好をもとめた。
単于はおごった。使者にはこたえたが、寇暴をつづけた。
つぎ、031年です。つづきます。以後、1年の記事の分量がへります。