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222年春夏、陸遜が劉備を焼く

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

222春、劉備が夷陵に進み、曹丕が王を封ず

春,正月,丙寅朔,日有食之。
庚午,帝行如許昌。
詔曰:「今之計、孝,古之貢士也;若限年然後取士,是呂尚、周晉不顯於前世也。 其令郡國所選,勿拘老幼;儒通經術,吏達文法,到皆試用。有司糾故不以實者。」

222年春正月丙寅ついたち、日食した。
正月庚午、曹丕は許昌にきた。曹丕は詔して、年齢に制限を設けず、有能な人材をつのった。

二月,鄯善、龜茲、於闐王各遣使奉獻。是後西域復通,置戊己校尉。
漢主自秭歸將進擊吳,治中從事黃權諫曰:「吳人悍戰,而水軍沿流,進易退難。 臣請為先驅以當寇,陛下宜為後鎮。」漢主不從,以權為鎮北將軍,使督江北諸軍;自 率諸將,自江南緣山截嶺,軍於夷道猇亭。
吳將皆欲迎擊之。陸遜曰:「備舉軍東下, 銳氣始盛;且乘高守險,難可卒攻。攻之縱下,猶難盡克,若有不利,損我太勢,非小 故也。今但且獎厲將士,廣施方略,以觀其變。若此間是平原曠野,當恐有顛沛交逐之 憂;今緣山行軍,勢不得展,自當罷於木石之間,徐制其敝耳。」諸將不解,以為遜畏 之,各懷憤恨。
漢人自佷山通武陵,使侍中襄陽馬良以金錦賜五谿諸蠻夷,授以官爵。

222年2月、鄯善、龜茲、於闐王が、曹魏に奉献した。西域が、ふたたび開通した。戊己校尉をおいた。
劉備は秭歸から、孫呉を撃とうとした。治中從事の黃權が、反対した。劉備は、黄権を鎮北將軍として、江北の諸軍を督させた。みずから劉備は、夷道の猇亭にすすんだ。
孫呉の諸将は、劉備を迎撃したい。陸遜は、持久を命じた。諸将は、陸遜が劉備を畏れていると考えた。陸遜を、憤り恨んだ。
劉備は武陵に、侍中をつとめる襄陽の馬良をおくり、五谿の蠻夷らに、金品と官爵をさずけた。

武陵は、関羽の死後に、陸遜が平定した地域。山がちだ。荊州と益州のあいだにあって、緩衝地帯だとイメージしています。


三月,乙丑,立皇子齊公睿為平原王、皇弟鄢陵公彰等皆進爵為王。甲戌,立皇子 霖為河東王。甲午,帝行如襄邑。

222年3月乙丑、曹丕の皇子・齊公の曹叡を、平原王とした。曹丕の弟・鄢陵公の曹彰らを、王に進めた。3月甲午、曹丕は襄邑にきた。

222年4月、曹丕の皇族政策

夏,四月,戊申,立鄄城侯植為鄄城王。是時,諸侯王皆寄地空名而無其實;王國 各有老兵百餘人以為守衛;隔絕千里之外,不聽朝聘,為設防輔監國之官以伺察之。雖 有王侯之號而儕於匹夫,皆思為布衣而不能得。法既峻切,諸侯王過惡日聞;獨北海王 兗謹慎好學,未嘗有失。文學、防輔相與言曰:「受詔察王舉措,有過當奏,及有善亦 宜以聞。」遂共表稱陳兗美。兗聞之,大驚懼,責讓文學曰:「修身自守,常人之行耳, 而諸君乃以上聞,是適所以增其負累也。且如有善,何患不聞,而遽共如是,是非所以 為益也。」 癸亥,帝還許昌。

222年夏4月戊申、鄄城侯の曹植を、鄄城王とした。

曹丕が、皇族の待遇をいじっているとき、荊州の夷陵では、劉備と陸遜が対峙してる。222年3月乙丑、曹叡が平原王。曹彰ら皇弟も王。翌4月戊申、曹植が鄄城王。なぜこのタイミングか? 孫権の呉王との、バランスを探ったのではないか。前年に孫権は呉王となったが、孫登を送らず、外交でも生意気だ。

このとき諸侯王は、国を支配する実態がなかった。諸侯王は、自棄になった。ただ北海王 の曹兗だけが、正しく暮らした。

魏の皇族は、そのうち見ておきたいテーマ。ざーっと。

4月癸亥、曹丕は許昌に還った。

222年夏、夷陵の戦いで、陸遜が劉備を焼く

五月,以江南八郡為荊州,江北諸郡為郢州。
漢人自巫峽建平連營至夷陵界,立數十屯,以馮習為大督,張南為前部督,自正月 與吳相拒,至六月不決。漢主遣吳班將數千人於平地立營,吳將帥皆欲擊之,陸遜曰: 「此必有譎,且觀之。」漢主知其計不行,乃引伏兵八千從谷中出。遜曰:「所以不聽 諸君擊班者,揣之必有巧故也。」遜上疏於吳王曰:「夷陵要害,國之關限,雖為易得, 亦復易失。失之,非徒損一郡之地,荊州可憂,今日爭之,當令必諧。備干天常,不守 窟穴而敢自送,臣雖不材,憑奉威靈,以順討逆,破壞在近,無可憂者。臣初嫌之水陸 俱進,今反捨船就步,處處結營,察其佈置,必無他變。伏願至尊高枕,不以為念也。」

222年5月、曹魏は江南の8郡を荊州とした。江北を郢州とした。

郢州の設置。荊州は、孫権にくれてやった。そういう認識だ。
曹魏は、しつこく揚州刺史をおく。揚州は曹魏の圏内とする。曹魏は、益州刺史をおかない。いちど黄権を封じただけ。益州は、劉備にとられた、という認識か。荊州にたいする曹魏の理解は、このあと、どう変遷するのだろう。

劉備は、馮習を大督とし、張南を前部督とした。正月から6月まで、孫呉とふせぎあった。
劉備は、呉班に数千人をつけて、軍営をつくらせた。孫呉の諸将は、呉班を攻めたい。陸遜は「呉班はワナだ。攻めてはいけない」と止めた。陸遜は孫権に上疏した。「孫権さんは、安心して見守っていてください」と。

閏月,遜將進攻漢軍,諸將並曰:「攻備當在初,今乃令入五六百裡,相守經七八月, 其諸要害皆已固守,擊之必無利矣。」遜曰:「備是猾虜,更嘗事多,其軍始集,思慮 精專,未可干也。今住已久,不得我便,兵疲意沮,計不復生。掎角此寇,正在今日。」 乃先攻一營,不利,諸將皆曰:「空殺兵耳!」遜曰:「吾已曉破之之術。」乃敕各持 一把茅,以火攻,拔之;一爾勢成,通率諸軍,同時俱攻,斬張南、馮習及胡王沙摩柯 等首,破其四十餘營。漢將杜路、劉寧等窮逼請降。
漢主升馬鞍山,陳兵自繞,遜督促 諸軍,四面蹙之,土崩瓦解,死者萬數。漢主夜遁,驛人自擔燒鐃鎧斷後,僅得入白帝 城,其舟船、器械,水、步軍資,一時略盡,屍骸塞江而下。漢主大慚恚曰:「吾乃為 陸遜所折辱,豈非天耶!」
將軍義陽傅肜為後殿,兵眾盡死,肜氣益烈。吳人諭之使降, 肜罵曰:「吳狗,安有漢將軍而降者!」遂死之。從事祭酒程畿溯江而退,眾曰:「後 追將至,宜解舫輕行。」畿曰:「吾在軍,未習為敵之走也。」亦死之。

閏月、陸遜は劉備を焼いた。張南や馮習と、胡王の沙摩柯を斬った。劉備の40余営が破られた。蜀漢の杜路や劉寧らは、降伏した。
劉備は、馬鞍山にのぼった。白帝に入った。劉備は、慚恚して言った。
「私は陸遜にやられた。なぜ天命でないことがあろうか」
義陽の傅肜は、蜀軍のしんがりをした。傅肜は、降伏をこばんで死んだ。從事祭酒の程畿は、長江をさかのぼった。呉軍をふせいで、死んだ。

初,吳安東中郎將孫桓別擊漢前鋒於夷道,為漢所圍,求救於陸遜,遜曰:「未 可。」諸將曰:「孫安東,公族,見圍已困,奈何不救!」遜曰:「安東得士眾心,城 牢糧足,無可憂也。待吾計展,欲不救安東,安東自解。」及方略大施,漢果奔潰。桓 後見遜曰:「前實怨不見救;定至今日,乃知調度自有方耳!」

孫呉の安東中郎將の孫桓は、劉備に包囲された。陸遜は助けない。諸将は陸遜に反論した。「孫権さまの一族だから、救うべきです」と。陸遜は「私の作戦を実行すれば、孫桓さまは自然と助かるよ」と答えた。

初,遜為大都督,諸將 或討逆時舊將,或公室貴戚,各自矜恃,不相聽從。遜按劍曰:「劉備天下知名,曹操 所憚,今在境界,此強對也。諸君並荷國恩,當相輯睦,共翦此虜,上報所受,而不相 順,何也?僕雖書生,受命主上,國家所以屈諸君使相承望者,以僕尺寸可稱,能忍辱 負重故也。各在其事,豈復得辭!軍令有常,不可犯也!」及至破備,計多出遜,諸將 乃服。吳王聞之曰:「公何以初不啟諸將違節度者邪?」對曰:「受恩深重,此諸將或 任腹心,或堪爪牙,或是功臣,皆國家所當與共克定大事者,臣竊慕相如、寇恂相下之 義以濟國事。」王大笑稱善,加遜輔國將軍,領荊州牧,改封江陵侯。

陸遜が大都督になったとき、諸将は、陸遜に従わない。陸遜は剣をもち「軍令どおり、私に従え」と言った。陸遜は孫権に手紙を書いた。孫権は笑って陸遜をほめ、陸遜に輔國將軍を加え、荊州牧とした。江陵侯に改めた。

夷陵の戦は『資治通鑑』で、劉備の無念より、陸遜が指揮権を集約するプロセスに重点がある。持久戦を唱えて恨まれた。呉班の挑発を無視した。劉備の軍営を焼いた。安東中郎將の孫桓を、助けなかった。剣を振るって諸将を威圧し、孫権に後ろ盾を求めた。劉備の捕獲より、曹丕からの防御を優先した。など。


初,諸葛亮與尚書令法正好尚不同,而以公義相取,亮每奇正智術。及漢主伐吳而 敗,時正已卒,亮歎曰:「孝直若在,必能制主上東行。就使東行,必不傾危矣。」
漢 主在白帝,徐盛、潘璋、宋謙等各競表言「備必可禽,乞復攻之。」吳王以問陸遜。遜 與硃然、駱統上言曰:「曹丕大合士眾,外托助國討備,內實有奸心,謹決計輒還。」 初,帝聞漢兵樹柵連營七百餘里,謂群臣曰:「備不曉兵,豈有七百裡營可以拒敵者乎! 『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」後七日,吳破漢書 到。

はじめ諸葛亮と、尚書令の法正は、仲が良くなかったが、公務では認めあった。劉備が孫呉を攻めるとき、諸葛亮は歎じた。「法正が生きていたらなあ」
劉備が白帝にいる。徐盛、潘璋、宋謙らは、劉備を捕えようと言った。孫権は、陸遜に聞いた。陸遜、朱然、駱統は、答えた。
「曹丕が、孫呉をねらっています。劉備の追撃より、わが国の防御が先です」
かつて曹丕は、劉備の布陣を聞いて、劉備の敗北を見ぬいた。

次回、222年後半。曹丕が、孫権にだまされます。