222年秋冬、曹丕が孫権にキレる
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
222年秋7月、黄権が曹丕に降伏する
秋,七月,冀州大蝗,饑。
漢主既敗走,黃權在江北,道絕,不得還,
八月,率其眾來降。漢有司請收權妻子,
漢主曰:「孤負黃權,權不負孤也。」待之如初。帝謂權曰:「君捨逆效順,欲追蹤陳、
韓邪?」對曰:「臣過受劉主殊遇,降吳不可,還蜀無路,是以歸命。且敗軍之將,免
死為幸,何古人之可慕也!」帝善之,拜為鎮南將軍,封育陽侯,加侍中,使陪乘。蜀
降人或雲漢誅權妻子,帝詔權發喪。權曰:「臣與劉、葛推誠相信,明臣本志。竊疑未
實,請須。」後得審問,果如所言。馬良亦死於五谿。
222年秋7月、冀州でイナゴ。飢饉。
劉備が逃げたが、黄権は長江の北に残った。
8月、黄権は曹丕に降った。劉備は「黄権が私を裏切ったのではない。私が黄権を裏切ったのだ」と言い、黄権の妻子をもとのままの待遇とした。
黄権は曹丕に言った。「劉備さまは、私を特別に遇してくれました。孫呉に降れません。しかし、蜀に帰る道がない。だから曹魏に降りました」と。曹丕は黄権を鎮南將軍とし、侍中を加え、陪乘させた。
黄権は「劉備さまは、私の妻子を殺さないでしょう」と見ぬいた。
馬良は、五谿で死んだ。
222年9月、曹丕が、郭皇后をたてる
九月,甲午,詔曰:「夫婦人與政,亂之本也。自今以後,群臣不得奏事太后,後 族之家不得當輔政之任,又不得橫受茅士之爵。以此詔傳之後世,若有背違,天下共誅 之。」卞太后每見外親,不假以顏色,常言:「居處當節儉,不當望賞,念自佚也。外 捨當怪吾遇之太薄,吾自有常度故也。吾事武帝四五十年,行儉日久,不能自變為奢。 有犯科禁者,吾且能加罪一等耳,莫望錢米恩貸也。」
222年9月甲午、曹丕は詔した。「夫人が政治をあずかるのは、乱のもとだ。皇后の一族は、政治に参加してはいけない」と。
曹丕の母・卞太后は、つつしんで生きるよう、外戚を戒めた。
帝將立郭貴嬪為後,中郎棧潛上疏曰:「夫後妃之德,盛衰治亂所由生也。是以聖 哲慎立元妃,必取先代世族之家,擇其令淑,以統六宮,虔奉宗廟。《易》曰:『家道 正而天下定。』由內及外,先王之令典也。《春秋》書宗人釁夏雲:『無以妾為夫人之 禮。』齊桓誓命於葵丘,亦曰:『無以妾為妻。』令後宮嬖寵,常亞乘輿,若因愛登後, 使賤人暴貴,臣恐後世下陵上替,開張非度,亂自上起。」帝不從。庚子,立皇後郭氏。
曹丕は、郭氏を皇后にしたい。中郎の棧潛が、これに反対した。だが曹丕は従わず。9月庚子、郭氏を皇后とした。
222年9月、曹丕が孫権を、最強軍で攻める
初,吳王遣於禁護軍浩周、軍司馬東裡袞詣帝,自陳誠款,辭甚恭愨。帝問周等:
「權可信乎?」周以為權必臣服,而袞謂其不可必服。帝悅周言,以為有以知之,故立
為吳王,復使周至吳。周謂吳王曰:「陛下未信王遣子入侍,周以闔門百口明之。」吳
王為之流涕沾襟,指天為誓。周還而侍子不至,但多設虛辭。
帝欲遣侍中辛毘、尚書桓
階往與盟誓,並責任子,吳王辭讓不受。帝怒,欲伐之,劉曄曰:「彼新得志,上下齊
心,而阻帶江湖,不可倉卒制也。」帝不從。
これより前に孫権は、于禁の護軍をつとめた浩周と、軍司馬の東裡袞を、曹丕に送った。
曹丕は、浩周と東裡袞に聞いた。「孫権を、信じてよいだろうか」と。
浩周は、孫権が曹丕に臣従すると言った。東裡袞は、臣従しないと言った。曹丕は、(耳に心地よい)浩周を悦んだ。だから曹丕は、孫権を呉王とした。浩周は、孫呉にきた。浩周は、孫権から人質をとることに、失敗した。浩周は、耳に心地よいことばかり、曹丕に言った。
曹丕は、侍中の辛毘と、尚書の桓階をおくり、孫権から人質をとろうとした。失敗した。曹丕は怒った。劉曄は、曹丕の怒りをいさめた。曹丕は、従わない。
九月,命征東大將軍曹休、前將軍張遼、
鎮東將軍臧霸出洞口,大將軍曹仁出濡須,上軍大將軍曹真、征南大將軍夏侯尚、左將
軍張郃、右將軍徐晃圍南郡。
吳建威將軍呂范督五軍,以舟軍拒休等,左將軍諸葛瑾、
平北將軍潘璋、將軍楊粲救南郡,裨將軍硃桓以濡須督拒曹仁。
222年9月、征東大將軍の曹休、前將軍の張遼、
鎮東將軍の臧霸は、洞口にでた。大將軍の曹仁は、濡須にでた。上軍大將軍の曹真、征南大將軍の夏侯尚、左將
軍の張郃、右將軍の徐晃は、南郡をかこんだ。
孫呉では、建威將軍の呂范が、五軍を督した。舟軍で、曹休らをこばんだ。左將軍の諸葛瑾、
平北將軍の潘璋、將軍の楊粲は、南郡をすくった。裨將軍の硃桓は、濡須を督して、曹仁をふせいだ。
222年冬、孫権は曹丕に降り、劉備と和す
冬,十月,甲子,表首陽山東為壽陵,作終制,務從儉薄,不藏金玉,一用瓦器。
令以此詔藏之宗廟,副在尚書、秘書、三府。
吳王以揚越蠻夷多未平集,乃卑辭上書,求自改厲;「若罪在難除,必不見置,當
奉還土地民人,寄命交州以終餘年。」又與浩周書雲:「欲為子登求昏宗室。」又雲:
「以登年弱,欲遣孫長緒、張子布隨登俱來。」帝報曰:「朕之與君,大義已定,豈樂
勞師遠臨江、漢!若登身朝到,夕召兵還耳。」於是吳王改元黃武,臨江拒守。帝自許
昌南征,復郢州為荊州。
222年冬10月甲子、首陽山の東を、壽陵とした。この詔を宗廟にしまい、副本を尚書、秘書、三府にしまった。
孫権は、いまだ揚越の蠻夷が従わないので、曹丕に改めて従った。浩周が、曹氏との婚姻(人質)を求めると、孫権は「孫登は幼いから、孫長緒と張子布を、一緒に行かせよう」と言った。
曹丕は孫権が屈したことを悦び、軍を引いた。
孫権は黄武と改元した。長江で、曹丕を拒んだ。曹丕は許昌から、南を攻めた。郢州を、荊州にもどした。
十一月,辛丑,帝如宛。曹休在洞口,自陳:「願將銳卒虎步 江南,因敵取資,事必克捷,若其無臣,不須為念。」帝恐休便渡江,驛馬止之。侍中 董昭侍側,曰:「竊見陛下有憂色,獨以休濟江故乎?今者渡江,人情所難,就休有此 志,勢不獨行,當須諸將。臧霸等既富且貴,無復他望,但欲終其天年,保守祿祚而已, 何肯乘危自投死地以求徼倖!苟霸等不進,休意自沮。臣恐陛下雖有敕渡之詔,猶必沉 吟,未便從命也。」頃之,會暴風吹吳呂范等船,綆纜悉斷,直詣休等營下,斬首獲生 以千數,吳兵迸散。帝聞之,敕諸軍促渡。軍未時進,吳救船遂至,收軍還江南。曹休 使臧霸追之,不利,將軍尹盧戰死。
222年11月辛丑、曹丕は宛城にきた。曹休は洞口にいる。曹休は「孫権を攻めたい」と言った。曹丕は、曹休が長江を渡るのを恐れ、駅馬を止めた。侍中の董昭は言った。
「いま長江を渡ることは、困難です。たとえば臧覇らは、もう外征を面倒がり、保身ばかり考えている。曹休のやる気こそ、大切にすべきです」
このころ暴風で、呂範の船が、曹休の軍営に流れついた。千人を斬獲した。曹丕は、やる気になった。だが孫権がすぐに救援したから、曹丕はあきらめた。曹休は、臧覇に呉軍を追わせた。魏将の尹盧は、戦死した。
庚申晦,日有食之。
吳王使太中大夫鄭泉聘於漢,漢太中大夫宗瑋報之,吳、漢復通。
漢主聞魏師大出,遺陸遜書曰:「賊今已在江、漢,吾將復東,將軍謂其能然否?」
遜答曰:「但恐軍新破,創夷未復,始求通親;且當自補,未暇窮兵耳。若不推算,欲
復以傾覆之餘遠送以來者,無所逃命。」
漢漢嘉太守黃元叛。
吳將孫盛督萬人據江陵中州,以為南郡外援。
222年11月庚申みそか、日食した。
孫権は、太中大夫の鄭泉を、蜀漢に送った。劉備は、太中大夫の宗瑋を孫呉に送った。呉蜀は、ふたたび通交した。
劉備は、曹丕が大軍をだしたと聞き、陸遜に手紙した。「曹丕がきた。もし私(劉備)があなた(陸遜)を攻めたら、どうするのか」と。
陸遜は答えた。「あなたの軍は、破れたばかりでボロボロでしょう。もし孫呉を攻めたら、劉備さんは、生きて帰れませんよ」と。
蜀漢で、漢嘉太守の黃元がそむいた。
吳將の孫盛は1万を督し、江陵の中州にいた。南郡を外援した。101116