170-171年、橋玄が司空、霊帝が元服
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
170年、梁国の橋玄が、司空となる
夏,四月,太尉郭禧罷;以太中大夫聞人襲為太尉。
秋,七月,司空劉囂罷;八月,以大鴻臚梁國橋玄為司空。 九月,執金吾董寵坐矯永樂太后屬請,下獄死。
170年春3月丙寅みそか、日食した。段熲は京師にもどり、侍中となる。段熲は、辺境に10余年いた。いちども、しとねで寝ず。將士と、甘苦をおなじくした。将士は、段熲と死戰した。
170年夏4月、太尉の郭禧をやめ、太中大夫の聞人襲を、太尉とした。
170年秋7月、司空の劉囂をやめた。8月、大鴻臚する梁國の橋玄司空とした。
9月、執金吾の董寵は、永樂太后の屬請を矯めることに連座し、獄死した。
170年冬、孟佗が張讓に会い、涼州刺史に
170年冬、鬱林太守の谷永は、恩信をもって、烏滸人10余萬を降した。烏滸は後漢に属し、後漢の冠帶を受けた、烏滸の人口は、7県に置いた。
涼州刺史する扶風の孟佗は、從事の任涉に、敦煌の兵5百人をつけた。戊己司馬の曹寬と、西域長史の張宴とともに、異民族3万をひきい、疏勒を討った。ひきいた異民族は、焉耆、龜茲、車師前、後部である。楨中城を攻めたが、40余日たっても陥とせず。のちに疏勒王が殺し合い、後漢は治められない。
はじめ中常侍には、監奴がいた。監奴が、家事をしきる。孟佗は、監奴にプレゼントして、頼んだ。「張讓に、いちど会いたい」と。監奴は、とくべつに孟佗を優先して、張讓に会わせた。孟佗は、張讓に珍品を贈った。
張讓のおかげで、孟佗は、涼州刺史になった。
171年春夏、霊帝が元服し、党人を赦さず
春,正月,甲子,帝加元服,赦天下,唯黨人不赦。 二月,癸卯,地震。 三月,辛酉朔,日有食之。 太尉聞人襲免;以太僕汝南李鹹為太尉。 大疫。 司徒許訓免;以司空橋玄為司徒;
夏,四月,以太常南陽來艷為司空。
171年春正月甲子、霊帝は元服して、天下を赦した。黨人だけ赦さず。
2月癸卯、地震した。3月辛酉ついたち、日食した。太尉の聞人襲をやめ、太僕する汝南の李鹹を太尉とした。 大疫があり、司徒の許訓をやめた。司空の橋玄を、司徒とした。
171年夏4月、太常する南陽の來艷を、司空とした。
171年秋冬、曹節と王甫が、董萌を殺す
171年秋7月、司空の來艷をやめた。7月癸丑、貴人の宋氏を、皇后とした。皇后は、執金吾する宋酆の娘だ。司徒の橋玄をやめた。太常する南陽の宗俱を、司空とした。さきの司空の許栩を司徒とした。
竇太后は、霊帝を立てた功績がある。171年冬10月戊子ついたち、霊帝は群臣をひきいて、南宮で太后と会う。
黃門令の董萌は、しばしば霊帝に言った。「竇太后を大切にせよ」と。霊帝は、董萌にしたがう。曹節と王甫は、董萌がウザい。曹節と王甫は、董萌の罪をつくった。董萌が、永樂宮(霊帝の母・董氏)をそしったとして、董萌を獄死させた。
霊帝には、母が2人いる。桓帝の竇皇后と、実母の董氏だ。ややこしい。
鮮卑が并州を寇した。 101211