146年、梁冀と曹騰が、桓帝を立てる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
146年春夏、梁太后が太学をはじめる
夏,四月,庚辰,令郡、國舉明經詣太學,自大將軍以下皆遣子受業;歲滿課試, 拜官有差。又千石、六百石、四府掾屬、三署郎、四姓小侯先能通經者,各令隨家法, 其高第者上名牒,當以次賞進。自是游學增盛,至三萬餘生。
孝質皇帝の本初元年である。丙戌、西暦146年。
ぼくは思う。年号の本初は、袁紹のあざな。袁紹の生年を、ここに置くのは、妄想がすぎると思いますが。本格的に三国前史が始まった感がある!
146年夏4月庚辰、郡國に命じて、明經な人をあげ、太學にゆかせた。大將軍より以下、みな子を太学にゆかせた。卒業試験を受けて、それぞれ官位についた。千石、六百石、四府の掾屬、三署郎と、四姓小侯のうち『経』に通じた人は、優先して、名簿の上位に載った。
遊学する人は増えて、3万余人になった。
六月,丁巳,赦天下。
146年5月庚寅、樂安王の劉鴻を、渤海王に徙した。
海水が溢れ、民家がしずんだ。
5月丁巳、天下を赦した。
146年5月、梁冀が質帝を殺す
質帝は幼いが、聰慧だ。朝会で、質帝は梁冀を見下して言った。「こいつは、跋扈將軍だ」と。梁冀は、ふかく質帝を悪んだ。
ぼくは補う。『資治通鑑』の版本や注釈の体系を、よく分かっていませんが。跋扈の解釈について、割れているのか。跋扈の文字は『後漢書』にあるから、疑わなくてよい。会社でストレスを受けた中間管理職は、言うべきだ。「跋扈係長!」とか。
閏月甲
申、梁冀は毒入の煮餅を、質帝に進めた。質帝は、ひどく苦しんだ。質帝は、太尉の李固を召した。李固は質帝に、苦しみの原因を問う。質帝は答えた。「煮餅を食べた。水がほしい」と。ときに梁冀がそばにいる。「吐くことを恐れます。水を飲んではいけない」と。
梁冀が言う「恐吐」の意味が分からない。毒入を食べたんだから、質帝は吐きたい。梁冀は、毒入を自白したのか。さすがに違うよな。どういう意味か。吐くことそのものが、忌まわしい?
梁冀の言葉が終わらぬうち、質帝は死んだ。
146年閏月、曹騰と梁冀が、劉志を立てる
つぎの皇帝を話し合う。太尉の李固と、司徒の胡広、司徒の趙戒は、梁冀に手紙した。「つづけて3人も、皇帝が死んだ。前漢は昌邑王を立てて失敗し、霍光が苦労して廃位した。皇帝選びは、後漢の興衰を決める、重要なことだ」と。
ぼくは補う。満1年でなくても、1年とする。例えば、年末に生まれて、年始に死ねば、2歳で死んだとする。『資治通鑑』は、145年を沖帝、146年を質帝の記事とする。どちらも、満1年、皇帝をやってないが。
胡三省はいう。昌邑は『資治通鑑』24巻、前漢の昭帝の元平元年にある。
梁冀は、三公、中二千石、列
侯を集めて議論した。
すべて三公と、大鴻臚の杜喬は、清河王の劉蒜がいい。劉蒜は、明德だ。質帝にもっとも血筋が近い。朝廷は、すべて劉蒜に心をよせた。
だが中常侍の曹騰は、劉蒜に反対だ。かつて劉蒜は、曹騰に礼をなさず。宦官は、劉蒜を悪んだ。
また、劉蒜が曹騰を侮辱したタイミングは、不明である。べつに、皇帝を選ぶこのタイミングで、曹騰を冷遇したのでない。「嘗」の一文字で、時系列は霧の中。
はじめ平原王の劉翼は、河間にくだった。劉翼の父(劉開)は、蠡吾の県侯になりたい。順帝は、県侯をみとめた。
劉翼が死に、子の劉志がついだ。梁太后は、妹を劉志の妻にしたい。梁太后は、劉志を夏門亭においた。質帝が死んだ。梁冀は、劉志を皇帝に立てたい。衆論は、劉蒜にある。梁冀の意見が通らない。
曹騰らは、夜に梁冀を説得した。「梁冀の家は、代々外戚だ。しかし清河王の劉蒜が皇帝になったら、梁冀はすぐに禍いを受ける。梁冀が富貴を保つためには、劉志がよい」と。
いま曹騰は、梁冀をくすぐった。「後漢の外戚として、梁氏を長く保つには、劉志に如かず」と。鄧太后まで遡り、さぐる必要がある。『資治通鑑』をどこまで翻訳すれば、三国を理解できるんだろう。笑
梁冀は、曹騰に賛成した。
「後漢が滅びたのは桓霊と宦官のせい。曹操の祖父が、桓帝の即位に加担したらと、因果が明解になるね」というザツな単純化だ。
そもそも劉蒜が人格者というのも、怪しい。劉蒜が人格者なら、「なるほど、いかにも、おもろい」という逸話が、残っていてもよさそう。ない。史家が、後漢の滅亡を怨んで、「もし劉蒜が皇帝になっていれば」と、イフ物語を膨らましかけた。劉蒜について史料がなさすぎて、充分に膨らまなかった。
3年くらい前、宮城谷『三国志』を読んだとき、劉蒜について興味を持ったので、列伝を読んだ。エピソードなし。さらにつまらないことに、宮城谷氏が描いたような、人格の劣化もなし。劉蒜は、史料がなさすぎる。ただ候補に名前があっただけ、くらいか。
たびたび言いますが。ぼくら史料読みは、前後関係は史料から受けとるしかない。しかし、因果関係まで史料を鵜呑にする必要はない。
翌日に梁冀は、ふたたび公卿を集めた。梁冀の意気は、悪暴だ。梁冀の言葉は、激切だ。胡広も趙戒も、梁冀に逆らえない。「大将軍が決めろ」と。
ぼくは思う。梁冀が凶暴だから、それだけで三公の反対を押し切ったとは、不自然だ。劉蒜も劉志も、皇帝の候補として、同じくらいの資格があったから、衆議が劉志を認めたのだろう。梁冀の凶暴さだけに、桓帝が即位した原因を求めるのは、あまりにもザツである。
ぼくは思う。『後漢書』にある梁冀の暴虐は、誰が書き残したか。梁冀の執政は20年間。梁冀を批判すれば、それが公式記録なら、抹殺される。私的に書くなら、情報収集に限界あり。また私的に書くなら、梁冀政権の終わる時期が不明だから、きっと途中で心が折れる。だから、ぼくは仮説します。暴虐はウソだ。桓霊の皇統を即位させた梁冀に、史家が後漢滅亡の理由を背負わせた。ひどい単純化だ。
李固と杜喬だけは、意見を変えず、劉蒜がいいと言う。梁冀は声をはげました。「解散!」と。李固は、衆望の後押をうけ、梁冀に手紙した。「劉蒜がいい」と。梁冀は、いよいよ激怒した。閏月丁亥、梁冀は李固を免官した。閏月戊子、司徒の胡廣を太尉とした。司空の趙戒を、司徒とした。胡広と趙戒は、梁冀とともに參錄尚書事した。
史書で梁冀が、必要以上に悪者になった。史書にリアリティを保つため、胡広と趙戒については「しぶしぶ」と脚色されたのではないか。
ぼくは思う。梁冀が史書で悪者になった理由は、桓帝と霊帝の系統を、皇位につけたから。本人の責任をどこまで追及するかは別として、桓帝と霊帝の治世を最後に、後漢が滅ぶのは事実。「こんな暴虐な梁冀が、横車を押したせいで、後漢が滅びたんだ」と、史家は説明した。
太僕の袁湯を、司空とした。袁湯は、袁安の孫だ。
列伝35「袁安伝」を読む
袁術の青年時代は、どんなだったか(袁湯、袁逢、袁隗)
袁湯の祖父・袁安は、鄧太后が臨朝したとき、三公だ。鄧太后は、ぼくがさっきから、やたら気にしている人。梁太后が鄧太后をマネて、袁湯を抜擢したとしたら、何が言えるか。調べたいことが、増える一方で困る。
閏月庚寅、大将軍の梁冀は持節して、王の青蓋車をつかう。梁冀は劉志を、南宮に迎えた。即日、劉志は即位した。15歳。梁太后は、臨朝をつづける。
146年秋冬、桓帝の祖先を尊び、滕撫はクビ
大將軍掾硃穆奏記勸戒梁冀曰:「明年丁亥之歲,刑德合於乾位,《易經》龍戰之 會,陽道將勝,陰道將負。願將軍專心公朝,割除私欲,廣求賢能,斥遠佞惡,為皇帝 置師傅,得小心忠篤敦禮之士,將軍與之俱入,參勸講援,師賢法古,此猶倚南山、坐 平原也,誰能傾之!議郎大夫之位,本以式序儒術高行之士,今多非其人,九卿之中亦 有乖其任者,惟將軍察焉!」又薦種暠、欒巴等,冀不能用。穆,暉之孫也。
146年秋7月乙卯、質帝を靜陵に葬る。
大将軍掾の硃穆は、梁冀を諌めた。「梁冀は私欲をやめて、人材をあつめよ」と。朱穆は、種暠と欒巴らを薦めた。梁冀は、もちいず。朱穆は、朱暉の孫だ。
ぼくは思う。朱穆の文章を、司馬光は想定する読者(皇帝)に読ませたかったようだ。朱穆が諌めのトリガーにしているのは、「明年丁亥之歲,刑德合於乾位」だ。どういう時期なのか、胡三省が注釈しているが、よく分からない。はぶきました。
146年9月戊戌、河間孝王を孝穆皇とした。夫人の趙氏を孝穆後とした。廟は清廟とし、陵は樂成陵とした。
蠡吾先侯を孝崇皇とした。廟を烈廟とし、陵を博陵とした。それぞれ令と丞を置く。司徒は持節し、策書と璽綬をもち、太牢を供えた。
146年冬10月甲午、桓帝の母・匽氏を、博園貴人とした。
滕撫は、性質が方直で、權勢に交わらない。宦官は、滕撫を悪んだ。滕撫が、徐州や徐州であげた功績を論じた。太尉の胡廣は、滕撫を免官した。滕撫は、在野で死んだ。101129