表紙 > 漢文和訳 > 袁術の青年時代は、どんなだったか(袁湯、袁逢、袁隗)

01) 袁術は、祖父に失望して育った

袁術の育った環境を、知りたい!

『三国志』袁術伝では、何も分からん。
舉孝廉,除郎中,歷職内外,後為折衝校尉、虎賁中郎將。董卓之將廢帝,以術為後將軍。
としか書いてない。非常にもどかしい。「歴職」について、もっと具体的に書いてもらわないと、いけないんだが。
『後漢書』の記述を穴埋めし、袁術の祖父、父、おじの情報を集めます。袁術の幼いころの家の雰囲気を、推測します。

袁術が生まれたのは、146年だろう

袁紹のあざなは、本初だ。後漢には「本初」という年号がある。本初元年とは、西暦146年だ。

皇帝が代わり、本初の年号は、元年だけで終わった。

だから、というのは短絡すぎるが、袁紹は146年に生まれたと考えたい。曹操よりも9つ上で、いい数字だ。

どこで読んだか、忘れてしまった。石井仁氏じゃないかも。

袁紹と袁術は、兄弟の序列で、やたら張り合う。
母親が違うとか、袁紹が家を出たとか、異説は多い。理由を決められない。ぼくは、袁紹と袁術が同年齢だったから、モメたんだと思う。

孫策と周瑜が、1ヶ月ちがいだ。同じ関係だったのでは?

そういうわけで、袁術が生まれたかも知れない、146年ごろの袁氏を見てみたい。この146年は、質帝が外戚の梁冀に殺された歳だ。この弑殺に、袁術の祖父が加担していた。かも知れない。

祖父の袁湯は、梁冀を支援した

袁湯が本紀に初めて登場するのは、質帝の最期です。
閏月甲申,大將軍梁冀潛行鴆弑,帝崩於玉堂前殿,年九歲。丁亥,太尉李固免。戊子,司徒胡廣為太尉,司空趙戒為司徒,與梁冀參錄尚書事。太僕袁湯為司空。
146年閏月、梁冀は質帝を毒殺した。梁冀が新政権のメンバーを固めるとき、太僕の袁湯が、司空になった。

この歳の閏月は、6月のつぎらしい。
袁湯というのは、袁術の祖父です。


このあたりを、他の列伝で読む。首謀者、梁冀伝。
及帝崩,沖帝始在繈褓,太后臨朝,詔冀與太傅趙峻、太尉李固參錄尚書事。冀雖辭不肯當,而侈暴滋甚。 沖帝又崩,冀立質帝。帝少而聰慧,知冀驕橫,嘗朝群臣,目冀曰:「此跋扈將軍也。」冀聞,深惡之,遂令左右進鴆加煮餅,帝即日崩。
複立桓帝,而枉害李固及前太尉杜喬,海內嗟懼,語在《李固傳》。
順帝が死んだ。つぎの沖帝は赤子だ。梁太后が臨朝した。
沖帝が死ぬと、梁冀は質帝を立てた。質帝は聡明で、梁冀を「跋扈将軍だ」と言った。梁冀は、質帝を殺した。
梁冀は、桓帝を立てた。梁冀は、李固と杜喬を殺した。

梁冀は、皇帝の取り替えを、自分の都合でやっている。

梁冀が選んだ質帝は、幼い。お人形さんを期待された。桓帝も、幼い。しかも桓帝は、梁氏の親戚である。梁冀が操りやすい皇帝だ。

この梁冀の朝廷で、袁湯は三公を2回つとめた。
いま就任した司空は、1年強つとめた。146年閏月から、147年10月まで。つぎの司空は、胡広。まる2年して、149年10月から153年10月まで、袁湯は太尉。また後任は、胡広である。

袁湯が太尉を終わったとき、袁術は8歳だ。分別あり。


梁冀は、袁湯になにを期待したのか。
梁冀は袁湯に、梁冀の与党として、頭の固い(清廉な)学者官僚を牽制することを、求めたのではないか。
梁冀の期待を知るため、2回とも袁湯のつぎに三公になる、胡広伝(列伝34)を見る。胡広は、袁湯と同じ役回りをした人物だと、ぼくは睨んでいます。

袁湯伝の記述は、簡略すぎる。胡広伝をスライドさせて、脳内で補う。


梁皇后を選び、梁冀に連座した、胡広伝

胡広は、あざなを伯始。南陽郡、華容の人。
順帝欲立皇后,而貴人有寵者四人,莫知所建,議欲探籌,以神定選。廣上疏諫曰:「宜參良家,簡求有德,德同以年,年鈞以貌。」帝從之,以梁貴人良家子,定立為皇后。
順帝が皇后を選ぶとき、4人の候補があった。胡広は述べた。
「まずは家柄で選びなさい。つぎは人徳。人徳が同じなら、年齢。年齢が同じなら、ルックスを基準に選びなさい」

梁冀の家は、後漢初、梁統のときから外戚。良家だ。
胡広の誘導にしたがうと、梁氏が選ばれるようになっていました。

順帝は胡広を認め、梁冀の妹を皇后にした。胡広は、梁冀が外戚になることを、わざわざ手伝った人である。

胡広の政策が、『後漢書』に載る。また今度、くわしく見ます。


漢安元年,遷司徒。質帝崩,代李固為太尉,錄尚書事。以定策立桓帝,封育陽安樂鄉侯。以病遜位。又拜司空,告老致仕。尋以特進征拜太常,遷太尉,以日食免。複為太常,拜太尉。
胡広は、梁冀を支持して桓帝を選んだ。多く、高位をつとめた。

延熹二年,大將軍梁冀誅,廣與司徒韓縯、司空孫朗坐不衛宮,皆減死一等,奪爵土,免為庶人。
159年8月、梁冀が殺されると、胡広は連座して庶人に落とされた。胡広はよほど、梁冀と密着していたことが分かる。

袁湯は152年に退職した。袁湯は159年、梁冀に連座していない。袁湯が死んだのは、この期間のどこかだと、推測できる。


袁湯は、こういう胡広とセットで、梁冀を支えた。
いくら梁冀でも、与党だけで、三公を占めることができなかった。だから政敵と、三公のイスを取り合った。梁冀は、イスを確保すると、袁湯を座らせて、陣地を確保した。袁湯がずっと座っていると不自然だから、胡広とローテーションさせた。

梁冀は大将軍だ。大将軍は、三公と同等か、それより上である。
梁冀の与党が、三公のイスを1つ取れば、2:2となる。政敵とイーブンだ。イスを2つ取れば、朝廷を独占できます。

外戚の梁氏と袁湯の結びつきは、ほかに2つの記述でも分かる。
梁商とセットで、王堂に逆らわれた(列伝21)。梁冀とセットで、崔寔に招きを断れた(列伝42)。

さて次は、ダメ押しとして、
袁湯のキャラを明確にするため、梁冀の政敵をチェックしておきます。趙戒、李固、杜喬のような人たちです。

梁冀と袁湯の政敵は、清廉な学者

質帝末、袁湯と三公に並んだ趙戒は、梁冀に物申す硬骨漢だ。

趙戒は、范曄『後漢書』に、専伝がない。

注釈にある、謝承『後漢書』曰く。
趙戒は蜀郡成都の人。梁冀の叔父・梁譲は、南陽太守となり、法を破った。趙戒は、梁譲を弾劾した。豪傑を牽制し、役人を大切にした。

李固と杜喬も、梁冀の敵である。李固伝より。
梁商請為從事中郎。商以後父輔政,而柔和自守,不能有所整裁,災異數見,下權日重。固欲令商先正風化,退辭高滿。
李固は、司徒だった李郃の子。梁商(梁冀の父)の性質がヤワなので、王朝の上下関係の秩序が保てない。李固は順帝に申し出て、梁商の輔政を辞めさせようとした。
李固は、王朝のために、正しいことを言う人だ。のちに李固は、梁冀にワイロする人を、弾劾しました。

及沖帝即位,以固為太尉,與梁冀參錄尚書事。冀忌帝聰慧,恐為後患,遂令左右進鳩。帝苦煩甚,促使召固。固入,前問:「陛下得患所由?」帝尚能言,曰:「食煮餅,今腹中悶,得水尚可活。」時冀亦在側,曰:「恐吐,不可飲水。」語未絕而崩。固伏屍號哭,推舉侍醫。冀慮其事泄,大惡之。固以清河王蒜年長有德,欲立之。
李固は梁冀とともに、沖帝の政権を担当した。沖帝が梁冀に、毒を飲まされた。李固は、沖帝の命を助けようとした。李固は、沖帝の死体にすがった。梁冀は、李固をにくんだ。

沖帝の死ぬ前の場面が、こちらに詳しく書かれている。
李固みたいな人を、ふつうに「忠臣」と呼ぶのだが、今回は「政敵」だ。

李固は、年長の劉蒜を次の皇帝に推した。梁冀に、好き勝手させまいとする、良識の持ち主だ。『後漢書』には、そう描かれている。
梁冀や袁湯の政敵とは、こういう人たちでした。

ティーンの袁術が、梁冀の家に招待された

梁冀伝に、梁冀のぜいたくが書いてある。袁湯も梁冀の一味だから、同じように、豪勢に遊んだんだと思う。以下、小文字で引用。
冀乃大起第舍,而壽亦對街為宅,殫極土木,互相誇競。堂寢皆有陰陽奧室,連房洞戶。柱壁雕鏤,加以銅漆,窗牖皆有綺疏青瑣,圖以雲氣仙靈。台閣周通,更相臨望;飛梁石蹬,陵跨水道。金玉珠璣,異方珍怪,充積臧室。遠致汗血名馬。又廣開園囿,采土築山,十裏九陂,以像二崤,深林絕澗,有若自然,奇禽馴獸,飛走其間。
梁冀が滅びたのは、袁術が14歳のときだ。祖父や父に従って、少年の袁術は、梁冀の家に遊びにいったかも知れない。袁術は、ここに記したバブルを見た。
袁術は、どんな気持ちで、祖父の政治態度を見ていたのでしょう。正しいことを言った人が滅び、横車を押した人が栄える。袁術が、正面から祖父を批判することはなかったと思う。だが、後漢に失望したかも知れない。将来のための伏線です。つづく。