表紙 > 漢文和訳 > 袁術の青年時代は、どんなだったか(袁湯、袁逢、袁隗)

05) 慎重な清廉、父・袁逢の死

清流の兄、袁逢。それに対するは、濁流の弟、袁隗。
兄弟で争うのは、袁氏のお家芸のようです。笑

袁紹と袁術、袁譚と袁尚を踏まえてます。


30代の袁術は、父・袁逢をもどかしく思った

袁逢は、袁隗よりは地味だが、清流を崩さない。第二次党錮の禁をくぐっても、態度は同じである。

濁った親分・胡広に助けてもらったが、いちど切りだ。

崔寔伝より。
建寧中病卒。家徒四壁立,無以殯斂,光祿勳楊賜、太僕袁逢、少府段熲為備棺カク葬具,大鴻臚袁隗樹碑頌德。
168年-173年の間に、崔寔は死んだ。
楊賜と袁逢は、崔寔の金離れのよさを褒めた。連名である。

袁逢は、清流のシンボル、楊氏との蜜月を続けている。一緒に、清廉な崔寔をほめていることから、伺えます。

あとから袁隗は、崔寔をほめる文章を書いて、ちゃっかり参加した。この抜けのなさが、憎らしい。察するに、袁逢と袁隗は、事前の打ち合わせをしなかったようだ。兄弟のミゾを感じる。笑

さて。袁逢が、濁流を攻撃した記録は、史書にない。袁逢は、慎重な人だったようだ。父と兄を反面教師にしたんだろう。後漢末、宦官に勝てる人はいない。袁逢の選択は正しい。
しかし、若い袁術から見て、どうだったか。袁逢の不甲斐なさに、袁術は怒ったんじゃないか。
史料がない。袁術がどんな30代を過ごしたのか、分からない。仕方ないから、他の史料から推測してみましょう。参考とするのは、袁逢が婚姻関係を結んだ、楊氏です。弘農の楊氏は、170年代、活発に霊帝を諌めている。


宦官・袁赦を殺したのは、袁術かも知れない

思い出しのため、系図を再掲載。
 袁湯-袁逢-女(袁術の姉妹、楊彪の妻)
 楊秉-楊賜-楊彪

楊賜は、178年に、袁隗に代わって司徒に。
179年に楊賜は、学者の蔡ヨウと、宦官の王甫と曹節を責めた。

光和中,黃門令王甫使門生于郡界辜榷官財物七千余萬,彪發其奸,言之司隸。司隸校尉陽球因此奏誅甫,天下莫不愜心。
同じ179年、子の楊彪が、王甫を摘発した。王甫は、門生に税金を横領させていた。これをきっかけに、司隷校尉の陽球が、王甫を誅殺した。天下が快哉した。
楊彪が始めた摘発に連なり、前ページで見たように、袁赦が死んだ。

以上が『後漢書』にあることです。
ぼくは思います。袁術と楊彪は、ほぼ100%面識があった。きっと仲のいい義兄弟だ。同世代で、袁術が4つ年下です。
袁術は、父の袁逢が動いてくれない分、楊氏に心を寄せた。あわよくば袁術は、楊氏と一緒になって、宦官を断罪したい気分である。
妄想です。
王甫と曹節をやっつけるとき、袁術も弟分として、楊彪の調査を手伝った。小説にするなら、そういうシーンを作りたい。
宦官をにくむ袁術を、描けます。袁逢伝をいくら読んでも、袁術伝をいくら読んでも、出てこない場面ではありますが。このとき袁術は、34歳。働き盛りだ。
袁術は次男だしね、好き勝手に暴れたんだと思うよ。

袁術が袁赦を殺せば、叔父の袁隗が不利益をこうむる。
でも、いいのです。袁術は袁隗を、身内だとは思っていない。


袁術の父・袁逢は没年が分からない

袁逢伝を、もういちど載せます。
後為司空,卒于執金吾。
霊帝を立てた後、司空になった。執金吾のとき、死んだ。

ぼくはずっと、この数文字の間を読み取ろうと、本ページを書いています。我ながら、よく膨らましていると思います。笑

「行間」ですらない。「字間」である。

本紀から分かることです。袁逢が司空をやったのは、178年9月から、179年3月だ。このあと、執金吾になったとして、いつ死んだのか。史料にない。

ここで引きましたるは、荀爽伝!
後遭黨錮,隱於海上,又南遁漢濱,積十餘年,以著述為事,遂稱為碩儒。黨禁解,五府並辟,司空袁逢舉有道,不應。及逢卒,爽制服三年,當世往往化以為俗。
後公車征為大將軍何進從事中郎。進恐其不至,迎薦為侍中,及進敗而詔命中絕。

荀爽は、党錮にあって、10余年逃げた。党錮が解かれ、袁逢が荀爽を招いた。荀爽は、断った。袁逢が死に、荀爽は3年の喪に服した。

「袁逢さん、お誘いを断ってゴメン!」という意味だろう。

のちに荀爽は、大将軍の何進に従った。

党錮が解けるのは、184年に黄巾の乱が起きたとき。184年時点では、袁逢は生きていた。
何進が大将軍であるのは、184年から189年8月の死まで。荀爽は、3年の喪(25ヶ月)を終えて出仕した。荀爽が何進が死ぬ月に出仕すると、袁逢の死は、187年7月より前だ。
袁逢は、黄巾のち3年間のうちの、どこかで死んだ。

苦肉の算数をやったあとに、後から史料でポロッと、袁逢の没年が見つかったりするのです。今回も、同じような目に遭うのかなあ。


蛇足ですが。袁逢は『後漢書』に、もう1つ出てきます。
文苑伝より、趙壱伝。
光和元年,舉郡上計,到京師。是時,司徒袁逢受計,計吏數百人,皆拜伏庭中,莫敢仰視。壹獨長揖而已。逢望而異之,令左右往讓之,曰:「下郡計吏而揖三公,何也?」對曰:「昔酈食其長揖漢王,今揖三公,何遽怪哉?」逢則斂衽下堂,執其手,延置上坐,因問西方事,大悅,顧謂坐中曰:「此人漢陽趙元叔也。朝臣莫有過之者,吾請為諸君分坐。」坐者皆屬觀。既出,往造河南尹羊陟,不得見。壹以公卿中非陟無足以託名者,乃日往到門,陟自強許通,尚臥未起。壹徑入上堂,遂前臨之,曰:「竊伏西州,承高風舊矣。乃今方遇而忽然,奈何命也!」因舉聲哭,門下驚,皆奔入滿側。陟知其非常人,乃起,延與語,大奇之。謂曰:「子出矣。」陟明旦大從車騎,奉謁造壹。時,諸計吏多盛飭車馬帷幕,而壹獨柴車草屏,露宿其傍,延陟前坐于車下,左右莫不歎愕。陟遂與言談,至熏夕,極歡而去,執其手曰:「良璞不剖,必有泣血以相明者矣!」陟乃與袁逢共稱薦之。名動京師,士大夫想望其風采。 初袁逢使善相者相壹,云「仕不過郡吏」,竟如其言。
178年のできごと。
趙壱は、司徒の袁逢にびびらず、礼が簡素だった。立派な態度で会計報告した。袁逢は、引き立て役である。まあ、袁逢の人柄も伺えるか。気を衒った変わり者を、受け入れてあげる度量があった。

父が死に、いよいよ袁術の時代へ。
今回は、袁氏の史料が少なすぎて、切り貼りが多かったです。分かりにくかったと思います。ごめんなさい。そのうち、再構築をしたい。
10年GWは、7日のうち2日目の夜です。100430