表紙 > 漢文和訳 > 袁術の青年時代は、どんなだったか(袁湯、袁逢、袁隗)

04) 宦官となずむ、叔父の袁隗

清流の看板をかかげ、外戚・竇武と結んだ袁氏。
だが党錮の禁により、滅亡の危機。胡広に救ってもらった。
胡広は、袁術の叔父・袁隗に、宦官と渡り合う技術を授けた。
袁隗について、やります。

胡広をまねて、中常侍の袁赦と結んだ、叔父の袁隗

『後漢書』袁隗伝は、すごく簡潔だ。
逢弟隗,少曆顯官,先逢為三公。
これだけだ。
ふざけるにも、ほどがある。訳しておきます。
袁逢の弟は、袁隗である。袁隗は、若いときから高官を歴任した。兄の袁逢に先んじて、三公になった、と。

うーん。。どうやって、三公になったんだよ?と突っこみたくなる。
この読者のフラストレーションを、『後漢書』を記した范曄は察知したのでしょう。こう理由を説明する。


時中党侍袁赦,隗之宗也,用事於中。以逢、隗世宰相家,惟崇以為外援。
中常侍の袁赦は、袁隗の一族である。袁赦は宮中で、取り仕切った。袁隗は、三公の家柄である。袁赦を、外側からバックアップした。

…これで納得できますか? 足りないよなあ。
しかも下で見るように、7年後の179年に袁赦は殺された。ずっと袁隗が三公をくり返す理由として、袁赦だけでは弱い。


そこでお立会いです。ぼくが前ページで言った胡広。
胡広は、172年3月に死んだ。同じ172年10月に、袁隗が司徒に就任した。前職の官名すら分からない袁隗が、いきなり三公だ。胡広の権力基盤を、袁隗が受け継いだと見ては、どうだろうか。

孫呉で、周瑜の兵を魯粛が、魯粛の兵を呂蒙が、継いだ。いまは兵ではないが、事務担当の集団みたいな連中が、ごっそり移動したんじゃないか。

胡広は、宦官と連携した。宦官だけでなく、外戚や学者官僚とも、付き合った。袁隗は、同じことをした。

袁赦ひとりに頼ったのではなく、もっと手広く!巧妙に!狡猾に!

袁隗のやり方がイレギュラーだから、歴史書が三公就任の理由を捕捉できなかったんだと思う。

袁逢と袁隗、兄弟の関係は?

袁隗は、兄の袁逢より早く三公になった。
ウィキペディアでは、
「袁隗のほうが政治がうまいから、先に三公になった。でも袁氏の家長は、袁逢だと弁えていた」
と書いてある。ぼくが見た範囲で『後漢書』や『三国志』に、ない話である。何が根拠なんだろう。。
ぼくが思うに、袁逢と袁隗は、まったく別の処世術を目指した。
袁逢は、不器用だろうが、慎重な清流として。袁隗は、手段を問わない食わせモノとして。
たまたま三公になる順序が前後したからと言って、2人の優劣を論じてはいけない。また、袁隗が袁逢の顔を立てたというのも、言えない。

袁隗はめでたく、
故袁氏貴寵于世,富奢甚,不與它公族同。獻帝初,隗為太傅。
となった。ほかの三公の家よりも、袁隗は贅沢をした。ここでいう「族」とは、袁隗だけの家である。袁逢とは、別の家だ。袁逢に属す袁術、袁成をついだ袁紹とも、別の家である。

兄弟は、他人の始まり。董卓が乱入したとき、袁紹も袁術も、袁隗と行動を共にしなかった。すでに、違う家だと自覚した証拠ではないか。

袁術は、袁隗という叔父を、企みごとが好きな、危うい変態だと思っていたと思う。あまり親しく付き合ったとは、思えない。一緒にゴージャスな暮らしをしたとも、思えない。梁冀のときに、反省したから。

叔父の袁隗は、まる4年間、司徒をやった。
袁術が、27歳から31歳の期間だ。

袁氏の宦官、袁赦は『後漢書』に2箇所

食わせモノの袁隗と結んだ、宦官の袁赦。袁赦は、どんな人物か。『後漢書』ではほかに、2箇所で登場する。
まず、梁冀伝。遡り、159年ごろの記事。
初,掖庭人鄧香妻宣生女猛,香卒,宣更適梁紀。梁紀者,冀妻壽之舅也。壽引進猛入掖庭,見幸,為貴人,冀因欲認猛為其女以自固,乃易猛姓為梁。時猛姊婿邴尊為議郎,冀恐尊沮敗宣意,乃結刺客于偃城,刺殺尊,而又欲殺宣。宣家在延熹裏,與中常侍袁赦相比,冀使刺客登赦屋,欲入宣家。赦覺之,鳴鼓會眾以告宣。宣馳入以白帝,帝大怒,遂與中常侍單超、具瑗、唐衡、左悺、徐璜等五人成謀誅冀。語在《宦者傳》。
梁冀は、宣を殺そうとした。宣とは、桓帝2人めの鄧皇后の母だ。
宣の家は、中常侍の袁赦のとなりだ。刺客は、となりの袁赦の屋根にのぼり、暗殺のタイミングを探った。袁赦は刺客に気づき、太鼓を鳴らして知らせた。梁冀による暗殺は、失敗した。
桓帝は梁冀を怒った。5人の宦官が、梁冀を倒した、と。

袁赦は、桓帝のそばの宦官。梁冀は袁湯の盟友だったけれど、袁赦は梁冀に敵対した。袁湯のデメリットになるのにね。
袁氏は大きな家だから、一枚岩ではない。袁安伝を見ても、わかること。

父・袁湯の死後、袁隗は、もとは父と敵対した袁赦を、味方につけた。きっと宮廷の外から、利益供与をしたんだ。袁隗の駆け引きは、ひと筋縄でないことが、よく分かる。

つぎは酷吏伝から、陽球伝。袁赦の最期。
時,中常侍王甫、曹節等奸虐弄權,扇動外內,球嘗拊髀發憤曰:「若陽球作司隸,此曹子安得容乎?」光和二年,遷為司隸校尉。王甫休沐裏舍,球詣闕謝恩,奏收甫及中常侍淳于登、袁赦、封{曰羽}、中黃門劉毅、小黃門龐訓、朱禹、齊盛等,及子弟為守令者,奸猾縱恣,罪合滅族。
陽球は、母を辱めた郡吏を殺した。司徒の劉寵に招かれた。

劉寵が司徒だったのは、168年9月から、169年5月だ。

中常侍の王甫と曹節は、権力を弄んだ。陽球は「オレが司隷校尉になったら、曹節たちを許さないぞ」と腿を叩いて憤っていた。
179年、陽球は司隷校尉になり、曹節、王甫、袁赦たちを殺した。

179年に袁術は、34歳だった。この事件に、袁術が噛んでいた可能性がある。ぼくの憶測ですが。次のページで、書きます。