表紙 > 漢文和訳 > 袁術の青年時代は、どんなだったか(袁湯、袁逢、袁隗)

02) 梁冀に連座し、濁から清へ

10代前半の袁術は、濁流のド真ん中の暮らし。
もっとも多感な時期に、やめて頂きたいものである。笑

桓帝を即位させた宦官、曹騰

袁術の祖父・袁湯は、梁冀と仲良しだ。
梁冀の盟友には、宦官の曹騰がいる。盟友の盟友は、盟友である。袁湯は、曹騰ともお仲間だったはずだ。

言うまでもない。曹騰とは、曹操の祖父である。


『後漢書』宦者伝にある、曹騰の伝より。
桓帝得立,騰與長樂太僕州輔等七人,以定策功,皆封亭侯,騰為費亭侯,遷大長秋,加位特進。騰用事省闥三十餘年,奉事四帝,未嘗有過。
桓帝が即位した。曹騰は、桓帝を即位させた功績で、費亭侯に封じられた。曹騰は30年間、4人の皇帝に仕えた。曹騰は、いちどの過失もなかった。

袁術が祖父に連れられて、曹騰と会う場面が、あったかも知れない。歴史書のどこにも書いてないが「絶対になかった」という証明もまた、できない。
袁術から見た曹騰は、どんなだったか。ひどく不気味だったと思う。この時点で曹騰は老人だ。引退や死去の間近である。

155年に生まれた曹操が、祖父の曹騰と語り合えたのか、誰にも分からない。興味深いテーマだけに、考察され尽くしている。

30年もミスがゼロの老人など、妖怪でしかない。袁術は、薄気味悪いものを見たから、曹騰の家を憎んだだろう。

宮城谷『三国志』で、曹騰は善玉だ。梁冀と手を組み、桓帝を即位させるのは、いちどだけの例外だ。これ以外、漢室のために、せっせと仕える純粋な人物だ。
ぼくが『後漢書』を読むに、曹騰のキャラが判断できない。記述が少なすぎて、何とも言えないのです。つまり、ゴッテゴテの濁流という可能性もある。ぼくは、そちらだと思う。純粋な人物が、4人の皇帝に仕え、梁冀の災いを回避できるものか。
10歳すぎの袁術は、曹騰に肩を触られ、本能的にゾクッとしたのだ。少年の感性は、正直だからね。素で怖がったかもしれない。

のちに袁術は、袁紹とともに、宦官を皆殺しにする。このとき袁術が、曹騰に好感を持っていたら、そんなことできない。

曹騰との面会シーンを描くなら、袁紹も同席させたいね。ふだんは仲の悪い兄弟だが、曹騰に対する嫌悪感だけは、共有した。

もはや史料の考察ではなくて、小説の構想だ。笑


腐敗した三公、祖父・袁湯の死

梁冀が滅ぶのは、159年だ。袁術が14歳。
袁湯は梁冀に連座していないから、159年より前に死んだと見たい。つまり袁術が10歳ちょっとのとき、祖父が死んだ。

胡広のように生きていたら、袁湯も庶人に落とされたはず。


袁湯を継いだのは、長男の袁成。袁術の伯父だ。
袁術は、傍流である。
袁湯の三男・袁逢の、さらに次男である。気楽な身分で、ちょっと傍観者の視点も混じって、祖父の死を看取ったんじゃないかな。お葬式で、袁湯の12人の子(袁術のおじたち)と参列した。

ろくでなしの伯父・袁成は、梁冀の道連れ?

袁成が、家を継いだ。左中郎将になった。
英雄記曰:成字文開,壯健有部分,貴戚權豪自大將軍梁冀以下皆與結好,言無不從。故京師為作諺曰:「事不諧,問文開。」
伯父の袁成は、暴れものだった。外戚や権門は、大将軍の梁冀をはじめとして、袁成と友達になった。洛陽では「袁成さんに頼めば、どんなムリも通るぞ」と噂された。

これを読むと、梁冀と袁成が、対等に付き合っているような印象を受ける。梁冀と袁成は、年齢が近かったのだろう。
袁成の父の袁湯は、86歳で死んだ。『風俗通』にある。梁冀の最盛期に、袁湯は80歳くらいだ。長男の袁成が、梁冀と同年代でも、不自然ではない。
袁成は、早くに死んだ。
どうせ、ヤクザ者で悪ふざけして、ケンカの加減を間違えて、死んだのだ。もしくは、暴飲暴食しすぎて、若死にしたのだ。以上、憶測。

袁成の死は、梁冀の誅殺と同時期だろうか。159年。
あれだけ梁冀と密着した家が、無傷でいられるわけがない。梁冀の一族は、皆殺しされた。袁成は、袁氏の将来を嘆いて、自暴自棄になったかも。お坊ちゃん育ちは、逆境に弱い。

史料にはないが、こっそり復讐されたのかも。

袁術は15歳くらいで、ならず者の伯父の末路を、見届けたのだろう。お葬式にも出た。私は節制しなくちゃな、と思ったはずだ。笑

史書の袁術は悪者だから、荒淫しまくる。だが、袁成という反面教師があるから、容易には、生活を乱さないはずだ。袁術ファンのぼくは、そう思う。


名門・袁氏が、6年間も沈黙する

桓帝が、梁冀をほろぼす手柄のあった宦官を、県侯にした。単超は車騎将軍になった。宦官をにくんだ袁術は、面白くなかったに違いない。

袁成が死んだから、弟の袁逢が継いだ。袁逢は、袁術の父である。おそらく、静かに暮らさないと、政敵の集中砲火を食らってしまう状況だったと思う。
いま『後漢書』をじっくり読んだら、6年間も袁氏が沈黙している。袁術が、14歳から23歳の期間だ。陳寿が「以侠氣聞」と記した時期。袁術がいちばん遊びたいときに、家が不遇だった。

この時期、家長の袁逢は、何をしたか。
思うに、
袁湯の濁流ぶりを、浄化した。梁冀や曹騰の手垢を、洗い落とした。
もともと袁湯の祖父の袁安(袁氏はじめての三公)は、専横する外戚・竇武と対決して、名をあげた人である。袁湯の脱線を、軌道修正するだけでよかった。

清流の三公の、楊氏と婚姻を結ぶ

弘農郡の楊氏は、三公の家柄。和帝のとき楊震が、三公になった。清い学者官僚の、総本山みたいな家だ。

ネタバレすると、楊氏も、袁氏と同じ4世三公となる。

いま家長は、2代目の三公・楊秉(-165年)だ。世代は、
 袁湯-袁逢-女(袁術の姉妹)
 楊秉-楊賜-楊彪
が同じぐらいである。袁逢は、娘を楊彪に嫁がせた。

嫁いだ時期が、分からない。ただ上限と下限を、推測することは可能。
まず上限は159年。梁冀が滅びて、袁氏が反省するまでは、両家が近づくはずがない。下限は、165年。次に書くが、袁逢と楊秉が、連係プレイして宦官をやっつけている。
この期間に楊彪は、16歳から22歳だ。適齢期である。


清流への脱皮を果たした袁湯は、宦官を攻撃した。宦者伝のうち、侯覧伝に見える。
覽等得此愈放縱。覽兄參為益州刺史,民有豐富者,輒誣以大逆,皆誅滅之,沒入財物,前後累億計。太尉楊秉奏參,檻車征,於道自殺。京兆尹袁逢於旅舍,閱參車三百餘兩,皆金銀錦帛珍玩,不可勝數。覽坐免,旋複複官。
165年のできごと。

『後漢書』楊秉伝で時期を特定。
侯覧伝の次の話が、169年の記事だから、つじつまが合う。

宦官の侯覧は、ほしいままに振る舞った。侯覧の兄は、侯参である。罪のない金持ちを、罪人に仕立てて、財産を横取りした。太尉の楊秉は、侯参を捕まえた。京兆尹の袁逢は、侯参の財産を没収した。財産は全部で、車で300余両以上あった。

清流への転進を果たした袁逢は、完全復活について、決定的な手を打つ。桓帝の清流な外戚・竇武とくっつくことだ。次回、やります。