表紙 > 漢文和訳 > 袁術の青年時代は、どんなだったか(袁湯、袁逢、袁隗)

03) 桓帝の皇后は、袁氏の命運を決める

14歳で一族滅亡の危機にあい、袁術が20歳まで、袁氏は冬。
いま袁逢は、楊秉と親戚になり、袁氏が復活しました。

桓帝の皇后が交代し、袁逢がのし上がる

面白い話をします。(自分でハードルをあげた)
『後漢書』皇后紀を読めば、袁氏の運命が分かります。皇后が代わるたびに、袁氏は浮き沈みするのだ。

ぼくが、さっき思いついたことです。他で読んだことがない。


皇后紀には、桓帝の3人の皇后が載っています。
 1.懿献梁皇后(梁冀の女弟)
 2.鄧皇后(はじめ梁氏を名乗るが、改称)
 3.桓思竇皇后(竇武の娘)
はじめの皇后は、梁冀が権力を握るために送り込んだ人。梁冀の息が掛かっている。梁皇后が元気ならば、袁氏は安泰でした。袁術の祖父・袁湯は、梁冀とともに栄えました。
だが桓帝は159年、梁冀を倒し、梁皇后を廃した。

2人目の鄧皇后は、梁冀を倒したモニュメントとして、立てられた皇后だ。つまり、桓帝が鄧皇后をかわいがっているうちは、梁冀に連なる人は、出世できない。袁逢も、同じである。不遇だ。

鄧皇后は、はじめ梁氏を名乗った。母が、梁紀に嫁いだからだ。だが桓帝は、梁氏という姓が気に食わなくて、姓を改めさせた。桓帝が梁冀をきらう気持ちは、明々白々である。


史料にはないけれど、袁逢は竇武に接近した

展開が動く。
帝多内幸,博采宮女至五六千人,及驅役從使,複兼倍於此。而後恃尊驕忌,與帝所幸郭貴人更相譖訴。八年,詔廢後,送暴室,以憂死。立七年。
桓帝には、6千人の女がいた。鄧皇后は、郭貴人とケンカした。桓帝は鄧皇后を怒った。165年、鄧皇后は暴室で殺された。
いま鄧皇后が消えたから、袁逢が復活するチャンスである。 鄧皇后の7年が、袁逢にとって、いちばん暗い時期でした。霧が晴れた。

つぎは3人目の、竇皇后だ。竇武の娘だ。同じ165年、貴人となり、同じ歳の冬に皇后になった。袁術20歳。
竇皇后の本紀、竇武の列伝には、竇氏と袁逢の接近が書かれていない。でも、ぼくは、袁逢が必ず動いたと思っている。 理由は2つ。

●1つめ、袁逢伝より。
靈帝立,逢乙太僕豫議,增封三百戸。
袁逢は、霊帝の即位を168年に助けたから、邑戸をもらったと、史料にある。霊帝を選んだのは、竇武である。袁逢は、まだ目立たないが、竇武と連携していたはず。

●2つめ、袁氏の政治パタン。
袁湯のときから袁氏は、外戚となじみ、宦官をはじくことで、権力を持つ。前ページで見たように、袁湯は梁冀にくっついた。
今回、外戚の竇武は、清廉の人である。楊秉と結びつき、清流になった袁逢は、竇武とも意気投合したはずだ。
ネタバレすると、のちに袁紹と袁術は、何進にくっついた。

何進のような、下賎の出身者に、袁紹がアゴで使われた理由が、不明だった。「外戚についていくのが、袁氏の方針」だと、受け継がれているなら、話は分かりやすくなる。


あとは竇氏が力を持てば、袁氏は復活できます。
166年、第一次党錮の禁。
これは、李膺が自爆した事件だ。だから、いくら袁逢が清廉に方針転換していても、痛くない。人によっては「党錮に名前が連ねられないのは恥だ」と言い始めたくらい、生易しい弾圧である。

霊帝の即位と、袁術のデビュー

167年、桓帝が死んだ。
十二月丁丑,帝崩于德陽前殿。年三十六。戊寅,尊皇后曰皇太后,太后臨朝。桓帝崩,無子,皇太后與父城門校尉竇武定策禁中,使守光祿大夫劉シュク持節,將左右羽林至河間奉迎。
嗣子なく、皇帝が不在。執政したのは、桓帝3人目の竇皇后。
袁逢がぶら下がってから2年で、竇氏が政治を主催してくれることになった。
袁術は、22歳である。袁術が孝廉にあげられ、郎中になったのは、この時期かも知れない。早くはないデビューだが、袁氏が沈滞していたんだから、仕方ない。
袁術は、父が選んだ、10歳下の新皇帝にお目見えしたのかな。職務で謁見する権限がなくても、こっそり会ったことにしたい。笑

第二次党錮の禁のショック

デビューした袁術を、第二次党錮の禁が襲う。169年、24歳。
竇武伝より。
武既輔朝政,常有誅剪宦官之意,太傅陳蕃亦素有謀。時共會朝堂,蕃私謂武曰:「中常侍曹節、王甫等,自先帝時操弄國權,濁亂海內,百姓匈匈,歸咎於此。今不誅節等,後必難圖。」武深然之。蕃大喜,以手推席而起。
竇武は、太傅の陳蕃と協力して、宦官を除こうとした。竇武が対決したのは、中常侍の曹節と、王甫である。国政を乱している!と。

自旦至食時,兵降略盡。武、紹走,諸軍追圍之,皆自殺,梟首洛陽都亭。收捕宗親、賓客、姻屬,悉誅之,及劉瑜、馮述,皆夷其族。徒徙家屬日南,遷太后于雲台。
竇武は決起。だが返り討ちにあって、竇武の仲間たちは滅ぼされた。
袁逢と袁術(と袁紹)が、何をしていたか、どこにも書いてない。清流の袁氏だから、竇武に協力して、然るべきである。
ぼくが思うに、竇武と宦官のクーデターは、きわめて局地的&突発的だ。袁氏が知らないうちに終わっていた。これが、本当かも知れない。宮廷闘争は、寝技で一瞬だから。

袁術が竇武に恩を受けたように描くと、盛り上がるね。竇武の訃報を、いきなり聞いて、袁術は立ち上がる。宦官への復習を誓う。


胡広に助けてもらい、叔父の袁隗が処世術をつぐ

第二次党錮の禁は、容赦ない。だが袁氏は、宦官から殺されずに住んだ。免官されてすら、されない。袁氏は、中級の党人。宦官に因縁をつけられても、文句は言えない状況です。なぜ、助かったのか。

「袁安、袁敞、袁湯という3人の三公の威光のおかげ」だ。だが、充分ではない。三公レベルの本人が、宦官に陥れられているんだから。

ぼくは、胡広だと思う。
胡広が袁逢を助けたのではないか。

胡広は、袁術の祖父・袁湯ともに、梁冀に仕えた人。梁冀に連座して庶人に落とされたが、公職に復帰している。中常侍の丁粛と婚姻し、そしられたが、朝廷を牛耳っている。
いま戦死した陳蕃に代わり、太傅に居すわった。戦後を収拾したのは、胡広の采配だった。だから、旧友の袁氏を助けた。
胡広は、霊帝即位から5年後、172年に82歳で死ぬまで、太傅だった。公職に30年あり、6人の皇帝に仕えた。

曹操の祖父・曹騰よりも、化け物である。
じっくり列伝を翻訳し、他の列伝での登場箇所を追いかけたいですね。

『後漢書』に、漢興以來,人臣之盛,未嘗有也。 と記された。

172年、胡広が太傅のまま死ぬ。
清濁あわせのむ、胡広の手腕は、秘伝だ。これを受け継いだ人がいた。袁逢の弟(袁術の叔父)袁隗だ。

胡広と袁隗のつながりは、史料にありません。

なぜぼくが、これを言うか。
袁隗が、司徒に就任した時期である。年表を作ると、いかにも指摘してください、と言わんばかりに、史実が光りだす。詳細次回。
のちに袁隗は、董卓に殺されてしまった。董卓は、名士を敵に回すリスク払ってまで、袁隗を殺した。董卓から見て、それほど袁隗は、油断ならない人物だった。
袁隗について、次で見ていきます。