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列伝35「袁安伝」を読む 1)袁氏の三公の誕生
袁紹が「四世三公」であることは有名です。ではその祖先たちはどんな人だったのか。それを『後漢書』で見てみようという試みです。
『後漢書』第六冊2003岩波書店に、書き下し文と解説が付いています。もうぼくが介在する余地はないのですが、口語訳がなくて僅かに読むのが大変なので、このサイトで口語訳をやっていきます。
袁安は、あざなを邵公という。汝南郡汝陽県の人。
祖父の袁良は、『孟氏易』を学んだ。平帝(紀元後1~5年)のとき明経という科目に合格して官吏となり、太子舎人(秩は比200石で定員なし)となった。建武年間の初め(紀元後25年頃)、成武県の令となった。

(注とコメント)
袁安は父の名前が分からない!名族もはじめから名族ではないようで。早くに亡くなってしまったのかなあ。
祖父が学んだ『孟氏易』は、前漢の孟喜がはじめた『易経』のテキストらしい。平帝は、王莽のバックアップで即位した皇帝です。建武は、光武帝が即位してからの年号です。前後の漢の交代期の人ですね。



袁安は、祖父・袁良に学問を教わった。人となりは、厳重で威があり、州里で敬われた。
はじめ汝陽県の功曹(人事担当)になり、豫州刺史の従事(補佐)に文書を提出しに行った。従事は帰りがけに、袁安に手紙を持たせようとした。袁安は言った。
「公事では、官営の駅伝を使います。私信は、功曹が運ぶものではありません(役人であるオレをパシリに使うとは、公私混同です)」と。
従事は懼れ入って、頼むのをやめた。
のちに孝廉の科目に挙げられ、陰平県の長、任城県の令になった。赴任先の県の役人は、袁安を畏れて愛した。

『汝南先賢伝』には、袁安が孝廉に合格したエピソードがある。
大雪で丈余(2メートル以上)積もっていた。汝陽県令(袁安の上役)が袁安を自ら訪問しようとした。このとき人民は雪かきをしていて、食べ物がなくて困っていた。
袁安の家の門は、雪かきがされていないので、県令は袁安がすでに死んでいる思った。命じて雪を除かせると、袁安が家の中で倒れていた。どうして雪かきもせずに家にいるのかと聞いた。袁安は答えた。
「大雪のせいで、人民は飢えています。人を干上がらせてはいけません」と。 県令は袁安の賢さに感心して、袁安を孝廉に挙げた。

(注とコメント)
手紙と大雪のエピソードは、後漢くさい。手紙くらい届けてやればいいじゃん。大雪で生活に支障が出ることを憂うなら、率先して雪かきをして、炊き出しでもやればいい。しかし家の中でバタンと倒れているのが、美徳になる時代です。もし県令が発見してくれなかったら、嘆き損になったところだ(笑)



紀元後70年、楚王・劉英は叛逆を謀った。劉英は郡で再審理された。翌年、三府(中央)は、袁安が治めにくい土地をうまく治められるから、楚郡(郡治は彭城)の太守に任じた。
楚郡では、劉英の口から名前が出た人が、数千人も連座して逮捕されていた。2代明帝は、その裁き方を大いに怒った。楚郡の官吏は、逮捕した人に痛めつけて自白を強要し、無実の人がたくさん死んだ。
袁安は楚郡に到ると、まず役所ではなく牢獄に行き、明白な証拠のない人を調べ直し、箇条書きにして真相を郡府に提出した。
郡府の丞・掾史は、叩頭して(頭を地に付けて)、争って袁安を注意した。「反逆者に馴れ合えば、法律上は同罪となります。余計なことは止めなさい」と。
袁安は言った。
「もし不都合があるならば、太守である私が罪に服しましょう。諸君に罪は及ばないよ」と。
ついに袁安は綿密な調査をし、詳細を洛陽に奏上した。明帝は感心して、すぐに袁安が無罪だと判断した人を許した。出獄できた人は、400余家に及んだ。

(注とコメント)
楚王・劉英の列伝を、後から口語訳してみたいと思います。楚郡の裁きの不自然さが、キナ臭くて気になります。楚郡というのは、徐州です。
袁安は、皇帝の意にかなった名裁きをやった。家が栄える兆しです。



1年余りして、袁安は河南尹になった。袁安の政治は厳明と言われたが、贈収賄の罪では、人を捕まえなかった。袁安は、いつも言った。
「儒学を身に付けて仕える人は、高きは宰相になることを望み、低きは牧守(地方長官)を望む。今の聖なる治世で、贈収賄などによって任官権を剥奪するなど、忍びなくて私はやらないよ」と。
これを聞いた人は感激して、おのずから励んだ。
袁安は河南尹を10年務めた。洛陽は粛然として、袁安の名は朝廷で重くなった。
83年、袁安は太僕に遷った。

(注とコメント)
河南尹は、洛陽を含む地域の長官です。よく現代日本の「都知事」に例えられます。東京を治めてるが、国政を見てるわけじゃないのです。
わざわざ袁安が賄賂を話題にするくらいだから、後漢は成立直後から、賄賂だらけだったという証左になるでしょう。皮肉なことに。
「まさかやる人がいるわけないよね」と先手を打って宣言し、更生を促すというのは、優雅なやり方です。よく10年も効果が続いたなあ。



85年、武威太守の孟雲が上書した。
「北匈奴は漢と和親しました。しかし南匈奴は掠奪をくり返して、『北匈奴の単于は漢を欺いてるのだ』とウソを広め、辺境を侵そうとしています。南匈奴に捕虜を返してやり、彼らの心を慰めましょう」と。
3代章帝は、百官を集めて議論させた。公卿はみな言った。
「異民族はズル賢く、欲望は限りない。もし捕虜が帰れば、調子に乗るでしょう。捕虜を返してはいけません」と。
袁安だけは違う意見だった。
「北匈奴は、漢に使者を遣って貢物を献上し、辺境で捕虜を獲得すれば、漢に戻してくれます。北匈奴は漢の威を畏れて、漢との約束を破りません。上書した孟雲は、辺境を司る役人です。彼は、異民族との信義に背きません。もし孟雲の言うとおり、捕虜を南匈奴に返せば、中国の寛大さを示し、異民族の心を安らげるでしょう。孟雲に賛成します」
司徒の桓虞は、改めて議論して、袁安に従った。
だが、大尉の鄭弘と、司空の第五倫らは、袁安を恨んだ。鄭弘は、袁安に従ってしまった桓虞を激励した。
「捕虜を異民族に返せという人は、不忠だぜ(袁安に反対せよ)」
桓虞は朝廷で「私は、不忠ではないぞ」と、鄭弘を叱った。第五倫や大鴻臚の韋彪は、顔色を変えた。
司隷校尉に訴えられたので、袁安は負けを認めた。「私が誤りでした。捕虜を返してはいけなかった」と詫びて、印綬を返上した。
章帝は詔した。
「捕虜の問題で、なかなか結論が出ないのは、それぞれ志すところがあるからだ。政事は議論に従い、政策は衆議によって定められる。正しい心で堂々と議論してこそ、朝廷の福となる。袁安は、なんの咎があって深く謝ったのか。冠と履物を元どおりにし、罪人の恰好はやめよ」
章帝は、袁安の意見に従って、捕虜を返した。
翌86年、袁安は第五倫に代わって司空になった。87年、袁安は桓虞に代わって司徒となった。

(注とコメント)
袁安の政敵となった、鄭弘、第五倫、韋彪は、『後漢書』に列伝が立っています。後日、口語訳してみます。
袁安は南匈奴に捕虜を返させました。すなわち、協調政策を取りました。のちに子孫の袁紹は烏桓と協調しました。まだ100年以上先の話ですが、袁氏の異民族政策は共通です。
そして、ついに袁安が三公になりました!四世三公の開幕です。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
列伝35「袁安伝」を読む
1)袁氏の三公の誕生
2)外戚・竇氏との対決
3)実はダークだった名家
4)意外な雑魚三国志キャラ