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列伝35「袁安伝」を読む
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2)外戚・竇氏との対決
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4代和帝が即位して、竇太后が臨朝した。太后の兄・竇憲は車騎将軍となり、北方の匈奴を討った。
司徒の袁安、大尉の宋由、司空の任隗および九卿は、朝堂にきて上書して諌めた。
「匈奴は国境を侵さないのに、理由なく遠征をして、国費を損してまで、(竇氏の)功績を万里に求めるのは、社稷の計ではありません」と。
しきりに上書したが、無視をされた。 大尉の宋由は、竇太后が気分を悪くするのを懼れて、上書に参加するのを辞めた。諸卿も怖くなって辞めた。 だが、袁安と任隗だけは、正しいと思ったことを変えなかった。冠を脱いで(免官を覚悟で)朝堂に10回も書を奉った。竇太后は袁安の意見を聴かなかった。衆人は、袁安のことを心配したが、袁安は平気な顔で自若としていた。
竇憲はすでに出陣していたが、洛陽に残った弟たちは無茶をした。 竇憲の弟で衛尉の竇篤、執金吾の竇景は、威権をもっぱらにし、食客に命じて洛陽の道を塞がせ、人の財貨を奪わせた。竇景は、官営の駅伝をほしいままに使い、お布令を縁辺の諸郡に出し、突騎・騎射がうまい人を集めた。漁陽、雁門、上谷の3郡は、役人と将兵を遣わして、竇景の宮殿を守った。有司は畏れ憚って、竇景を注意できなかった。
袁安は、竇景を弾劾した。
「竇景は、勝手に辺境の兵を集めて、洛陽の役人を惑わせた。北西にある3郡の太守は、公式の命令がないのに、竇景に迎合して兵を動かした。極刑すべき罪だ。また今の司隷校尉(鄭拠)と河南尹(蔡嵩)は、外戚にへつらって、節義がないから免官すべきだ」
しかし袁安の主張は、却下された。
竇景と竇景は、日ごとに専横した。竇氏の親族・与党・賓客は、名都(大都市
)大郡(12万戸以上の郡)に拠って立った。みな役人から金を徴収し、賄賂を受け取った。他の州郡も、竇氏に気に入られようと金を差し出した。
袁安と任隗は、金に汚い地方官を訴えた。秩禄を下げられたり、官を免ぜられたりした人は、40余人だった。竇氏は、この処置を大いに恨んだ。だが袁安と任隗は、素行にやましさがなかったので、竇氏は手出しが出来なかった。
(注とコメント)
袁安と一緒に外戚を諌めた、司空の任隗も列伝があります。読んでみたくなりました。袁安の数少ない味方のようで。
外戚との対決が描かれています。竇景は駅伝をプライベートに利用しましたが、これは袁安が最も嫌うことでした。手紙1通でも断るのに(笑)諸郡に檄を放ってしまうとは、袁安が許せるわけがない。
また、2代明帝のときは「賄賂なんか、わざわざ取り締まる必要はない」と言っていた袁安ですが、摘発に躍起になっています。4代和帝のとき、すでに風潮は腐り始めたのですね。
ときに竇憲は再び外征して、武威郡に駐屯した。 翌年、北単于は耿夔に敗れて、烏孫に遁走した。北方の塞外は、人がいなくなり、残された部族はどこに属していいか分からなくなった。竇憲は日ごとに己の功績を誇るようになり、恩を北方に施してやろうと思った。
「降伏していた左鹿蠡王を立てて北単于としたい。使匈奴中郎将(比二千石)を設置して、北単于を守らせたらどうだろうか。これは(前漢時代の)南単于の故事に倣ったものだ」と竇憲は提案した。
大尉の宋由、太常の丁鴻、光禄勲の耿秉ら10人は、賛成した。しかし袁安と任隗は反対した。
「光武帝が南匈奴を国内に招いて懐かせたのは、国内に定住させようと思ったからではない。北匈奴を防ぎ止める狙いがあって、南匈奴を内地へ入れたのだ。いま北方の砂漠地帯が安定したならば、南単于を北へ戻し、降った人を南単于に治めさせればよい。わざわざ左鹿蠡王を立ててやり、国費を費やして守る理由がない」
宗正の劉方、大司農の尹睦は、袁安に賛成した。
袁安が奏したが、結論は先送りされた。袁安は、竇憲の計画が行われるのを懼れて、皇帝に封事を奉った。
「成否が分からないことは憶測せず、明白なことは疑わずと言います。光武帝が南単于を立てた目的は、匈奴を南北に分裂させて争わせるためです。南北の匈奴は牽制を始め、辺境に患いがなくなりました。光武帝の狙いは的中したのです。
2代明帝は光武帝の考えを継ぎ、北匈奴を討伐しました。 章和初(87年)に至り、降る者は10万余人。降伏者を辺塞に置いて、東の遼東に移住させようと明帝はお考えになったが、大尉の宋由と光禄勲の耿秉が『そんなことをしては、南単于の心を失います』と反対したので、やめました。
陛下(4代和帝)は大業を継承し、大将軍の竇憲は討伐に成功し、北方に領地を広げました。光武帝以来の北方経営の締めくくりの時期です。落としどころをハッキリさせてから、事業に取り掛かるべきです。 今の南単于は、3代の皇帝に40余年の恩を受け、北単于の討伐で大謀を唱えて、漢に協力してきた人です。もし南単于を差し置いて、昨日今日に降った人(左鹿蠡王)を北単于に立てれば、歴代育んできた信用はブチ壊しです。 宋由と耿秉は、かつては理に適った提案をしましたが、今は3人の皇帝の恩を背棄したいようです。
言行は、それが発せられた瞬間に、人の価値を決定します。賞罰は国を治める綱紀です。『論語』は、誠実な言葉と敬虔な行動があれば、異民族とも信頼は生まれると説いています。
烏桓と鮮卑は、北単于を殺したばかりで、復讐を畏れています。いまその弟(左鹿蠡王)を立てれば、烏桓と鮮卑は漢に怨みを抱くでしょう。
(論語によれば)『兵』と『食』よりも、『信』は大切です。
実績によれば、南単于には年間1億90余万銭、西域には7480銭の費用がかかっています。北方は遠いので、北単于に匈奴中郎将を付けたら、数倍かかるでしょう。竇憲の提案は、天下の浪費でしかなく、全く必要のないものです」
袁安の意見は却下された。
袁安と竇憲は、改めて難詰しあった。竇憲は陰険で、一族の勢いをカサにきて、尊大な言葉を吐き、袁安を韓歆や戴渉(ともに光武帝に反発して死んだ人)に例えた。だが袁安はあくまで意見を変えなかった。
竇憲は匈奴の降伏者の右鹿蠡王を立てて単于としたが、後に叛乱した。結局は、袁安が言うとおりになってしまった。
(注とコメント)
袁安の目線から書かれてるから、他の列伝と読み比べねば分からないのですが、敢えて断定しましょう。
竇憲は、光武帝・明帝・章帝と続けてきた匈奴政策を、白紙に戻してしまった。これは、劉氏の後漢王朝が、早くも屋台骨を折られたに等しい。
竇憲は、太后の一族なんだが、ただ外戚の血筋というだけでは、権力の基盤が弱い。だから、劉氏とは無関係の功績を作って、独立しようとしたようです。一族・与党・食客を各地に任命したのは、軽くノットリです。
袁安は、天子が幼弱で、外戚が権力を専断しているので、朝会に進見したり、公卿と国家のことを話したりするとき、嘆き傷んで涙を流さないことはなかった。天子や大臣は、袁安を頼りにした。
92年春、薨じた。朝廷は痛惜した。
袁安の死後、数ヶ月して竇氏が敗れ、和帝は初めて万機を親政した。追って以前の議論の正邪を考え直し、袁安が正しかったと思った。そこで、袁安の子に賞を与えて、郎とした。 (匈奴問題で竇憲の味方をして、袁安に反対をした)宋由を罷免し、(袁安に賛成した)尹睦を太僕とし、(同じく賛成した)劉方を司空とした。尹睦は河南の人で、在職のまま死んだ。劉方は平原の人で、後に変事があって辞職し、自殺した。
はじめ袁安の父が没したとき、母は袁安に葬地を探させた。道で3人の書生に会い、「袁安くんはどこに行くのか」と聞かれた。袁安が「墓の場所を探しています」と言った。書生は一処を指差して、「ここに葬ったら、一族は世々上公となるだろう」と言い、たちまち消えた。
袁安はこれを奇異だと思い、言われた場所に父を葬った。ゆえに袁安の家は、累世隆盛だった。袁安の子の袁京と袁敞は、最も名を知られた。
(注とコメント)
袁安は死後に正当に評価されました。めでたしめでたし、という結末です。劉方の死因が不気味ですが。
3人の書生というのは、「三公」の暗示なのでしょう。しかし遂に、袁安の父の名前が出てきませんでした。この不思議譚はどうせ、後年に付け加えられたものです。父の名がないことから、それが分かります。もし同時代の話なら、この流れで父の名を出さないのがおかしい。 袁尚が遼東で殺されるまで、袁氏は栄えます。書生を何かの化身という設定にして、神がかった因縁話を描いてみたくなります(笑)
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
列伝35「袁安伝」を読む
1)袁氏の三公の誕生
2)外戚・竇氏との対決
3)実はダークだった名家
4)意外な雑魚三国志キャラ
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