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列伝35「袁安伝」を読む 3)実はダークだった名家
袁京、あざなを仲誉という。袁安の子。『孟子易』を習い、『難記』という30万言の本を書いた。はじめ郎中となり、ようやく侍中に遷り、地方に出て蜀郡太守となった。

袁彭は、あざなを伯楚という。袁京の子。若くして父の文筆業を伝え、広漢(郡治は雒県)と南陽(郡治は宛県)の太守を歴任し、順帝のはじめ(127年)に光禄勲となる。
行いは清く、官吏となってからは粗末な上着で、玄米を食べ、役職は議郎で終わってしまった。尚書の胡広らに追従して、清潔の美徳を表した。貢禹(前漢で清貧だった人)と第五倫に似ていると言われたが、官位に恵まれなかった。当時の人は、残念だと言った。

袁彭の弟の袁湯は、あざなを仲河という。若くして家学を伝えた。儒者たちは、袁湯の節度を称えたから、高位の職を歴任した。
桓帝の初め(150年)、司空となった。桓帝を即位させる謀議に加わったから、安国亭侯に封じられた。食邑は500戸。司徒、大尉を経験したが、災異があったから罷免されて死んだ。康侯とおくり名された。 『風俗通』によれば、袁湯の享年は86歳、子は12人いた。

袁湯の長子の袁成は、左中郎将。早く死んだ。次子の袁逢が継いだ。

袁逢、あざなを周陽という。代々が三公の子で、寛大で情が厚く、誠実であったから、評判が高かった。霊帝が立つとき(168年)、袁逢は太僕として即位を手伝ったので、300戸を増封された。後に司空となり、執金吾として死んだ。
朝廷は、袁逢がかつて三老(三公)だったから、特に優待して、詔によって特注した棺と珠玉(死体の口に含ませる)で葬った。五官中郎将に節を持たせて策を奉らせ、車騎将軍の印綬を贈り、号は特進(三公に継ぐ位)を加え、おくり名して宣文侯とした。
子の袁基に継がせた。袁基は太僕になった。

袁逢の弟は袁隗で、あざなは次陽という。若くして高官を経験した。兄の袁逢は、先に三公となっていた。
ときの中常侍の袁赦は、袁隗の宗(同じ祖先から出た一族)である。袁赦は禁中で羽振りを利かせた。
袁逢と袁隗は、世々宰相の家だから、尊崇して宮中の外から後ろ盾とした。ゆえに袁氏は、貴く寵愛を受けた家で、富み奢ることが甚だしく、他の三公の家とは違った。
献帝の初め(189年)、袁隗は太傅となった。

(注とコメント)
1人目の三公の袁安以降で、キャラ立ちした人が少ない!
子の袁京は小難しい学者先生で、蜀の辺境で枯れておしまい。孫の袁彭は変人で、清貧を気取ったまま、芽が出なかった。
袁湯と袁逢の父子は、桓帝・霊帝という亡国の皇帝を即位させてしまったダークな人です。袁隗の段になって、中常侍の袁赦とのつながりが書かれてる。当たり前だけど、袁隗ひとりが宦官・袁赦と血縁というわけはなく(笑)ここに登場した全ての袁氏と血縁なのです。
皇帝に寄り添った宦官、という権力のカタチをいち早く実践していったのが、袁氏のようです。
初代の袁安が、「外戚に屈さず、賄賂を撥ねつけ、外交に千里眼がある」という人だった。だから、名士や貴族の先駆けみたいなイメージになっているが、違う。「他の公族と同じからず」とは言い得て妙なり。



袁成の子の袁紹、袁逢の子の袁術は、自分の伝がある。
董卓は、袁紹・袁術が背いたのを怒って、袁隗および袁術の兄・袁基らの男女20余人を誅した。

袁敞は、袁安の子で、袁京の弟である。あざなを叔平という。若くして『易経』を伝えて伝授し、父の官位のおかげで太子舎人となった。
和帝のとき、将軍、大夫、侍中を歴任して、東郡(郡治は濮陽)太守となり、中央に召されて太僕、光禄勲を拝した。116年(安帝のとき)劉愷に代わって司空となった。
翌年、子の袁盱が尚書郎の張俊と情報をやりとりした。袁敞は、禁中の言葉を外部に漏らした罪に連座して、罷免された。袁敞は剛直で権貴におもねらなかったので、鄧氏(和帝の外戚)の不興を買って自殺した。

(情報漏洩をやった)張俊とは、蜀郡の人。才能があった。兄と並んで尚書郎をやった。
年少のとき鋒気(気炎)を励まして、2人の同僚の行いの悪さを訴えようとした。2人は驚いて、尚書郎の仲間を仲立ちにして、訴えを取り下げるように説得したが、張俊は聴かなかった。
そこで被告側は、ひそかに張俊の侍史(近侍の書記)にまかないを渡して、張俊の弱みを訊いた。侍史は、張俊が袁盱に私書を送ったことを教えた。
この張俊の弱みを、被告側がチクッたら、張俊は死刑判決を受けた。獄吏に向けて、張俊は上書して訴えたが、死刑は覆らなかった。
廷尉は張俊を引いて、穀門(洛陽城の北面中門)を出た。いざ死刑にしようとしたら、鄧太后が詔して、早馬でストップをかけた。
張俊は礼を言った。
「前には、廷尉の欧刀。後ろは、棺桶と死体をくるむ真綿。もう死ぬんだとゲンナリしていましたが、助けて下さってありがとうございます。喪車は引き返し、白骨は肉つき、棺桶は開いて、白日を見ました。一族をあげて肉体がボロボロになっても、皇太后のご恩に報います」
張俊の劇的な文章に心を打たれ、朝廷は袁敞の罪を薄くした。いちど死を隠し、三公の礼で葬り、官位を戻した。

袁盱はのちに光禄勲になった。ときに大将軍・梁冀が、朝政をほしいままにし、内外は全員が阿附した(へつらった)。だが袁盱と廷尉の邯鄲義のみが、身を正して、梁冀に従わなかった。
桓帝が梁冀を誅したとき、袁盱に節を持たせて、印綬を与えた。この詳細は、梁冀伝に書かれている。

(注とコメント)
袁敞と袁盱の父子を説明するために、列伝に張俊が割り込んできました。 蜀郡には、袁敞の兄の袁京が行っています。張俊とは、その縁でしょうか。省略してますが、訴えられそうになったのは、朱済と丁盛という人です。取り成そうとしたのは、陳重と雷義です。覚えられない(笑)
袁氏を知るため、梁冀伝を読まねばならなくなりました。


袁賀は、袁彭の子。
『風俗通』によれば、袁賀は、あざなを元服という。
祖父の袁京が侍中のときだ。安帝が元服をして、百僚が会してした(祝った)。そのとき、たまたま生まれた子だから、それに因んで名とあざなが決められた。彭城の相となった。

袁閎は、あざなを夏甫という。袁賀の子で、袁彭の孫である。若くして操行を励まし、苦労して節を修めた。袁閎は、父の袁賀が彭城の相となったとき、姓名を改めて素性を隠し、徒歩で誰も伴わずに父を訪ねた。国府の門に到ったが、役人は何日経っても取り次いでもらえなかった。たまたま乳母が袁閎を見つけて驚き、袁賀に「あなたの子が来ていますよ」と密かに伝えた。迎えに行ったが、だが袁閎は、すでに辞去した後だった。 袁賀は息子・袁閎に車を遣わしたが、「私は、眩暈と疾病があります」と言って車に乗らなかった。
袁賀が死ぬと、袁閎の兄弟は霊柩を迎えに行ったが、弔慰の品は受け取らなかった。裸足で棺を抱えて、寒露に身を晒した。袁閎は容貌はやつれ、手足から流血したので、見る人は心を傷めた。
喪が明けると、しきりに推挙されたが、断った。むさくるしい家に住み、耕作と学問に生きた。従父の袁逢と袁隗は富み栄えたから、袁閎に贈り物をしたが、受け取らなかった。
袁閎は、漢朝の体制が険乱なのに、袁氏が栄えているのを見て、兄弟に歎いた。
「先祖(袁安)がせっかく王朝に貢献したのに、子孫が徳を守らず奢っているのは、最悪だ。殺されるぞ」
167年、党錮ノ禁が起きたとき、袁閎はざんばら髪をして、世間と隔絶した。深い林に身を隠してしまいたかったが、老母が遠くに逃げられないから、土塀で庭の四方を覆い、戸を作らないで、窓から食料を入れさせた。朝には室内で母と会い、母以外とは肉親でも会わなかった。母が死んだら、服喪して位牌を作らなかった。
狂人扱いされたが、袁閎は18年身を潜めて、経典を読んだ。黄巾賊ですら、袁閎の村を襲わなかったので、人々は攻略から助かった。57歳のとき、土室の中で死んだ。『汝南先賢伝』には、袁閎が質素な埋葬を命じたとある。
2人の弟、袁忠と袁弘は節操があり、袁閎に準じた。

(注とコメント)
輝かしい袁氏の中の、すねものです。
形式ばった儒教道徳を、これ見よがしに実践しようとしたら、袁閎のような生き方になります。党錮と黄巾の被害を受けなかったのだから、大成功。袁閎自身が嫌っていた、名門の血が彼を救ったのでしょう(笑)
もし袁氏の主流が全く清ければ、袁閎のような変種は出てこない。やはり、袁氏はダークな家だと言えましょう。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
列伝35「袁安伝」を読む
1)袁氏の三公の誕生
2)外戚・竇氏との対決
3)実はダークだった名家