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『晋書』列39、元帝の逃げ場 1)劉隗-上
列傳第三十九
劉隗(孫波)刁協(子彝彝子逵)戴若思(弟邈周顗)

司馬睿は、王導と王敦に支えられて、東晋を建国したものの、王氏が煙たくなった。だから、王氏以外の臣下たちを頼ったのです。この列伝は、そういう人たちが登場します。


劉隗
劉隗,字大連,彭城人,楚元王交之後也。父砥,東光令。隗少有文翰,起家秘書郎,稍遷冠軍將軍、彭城內史。避亂渡江,元帝以為從事中郎。隗雅習文史,善求人主意,帝深器遇之。遷丞相司直,委以刑憲。時建康尉收護軍士,而為府將篡取之,隗奏免護軍將軍戴若思官。

劉隗は、あざなを大連という。徐州の彭城郡の人。楚の元王、劉交の後裔である。
〈訳注〉劉交は劉邦の弟。どれだけ遡るんだ。500年?
父の劉砥は、東光令だった。
劉隗は、幼くして文翰があった。秘書郎で起家し、冠軍將軍に遷り、彭城内史となった。
戦乱を避けて長江を渡り、劉隗は元帝の從事中郎になった。劉隗は文学と史書をよく学び、主人の意に適う人材を求めた。元帝は、劉隗の器量を評価して、厚遇した。
劉隗は丞相司直に遷り、刑法の検討を委ねられた。
ときに建康尉が、護軍の兵士を手元に収めて、府(役所)を乗っ取ろうとした。劉隗は上奏して、 護軍將軍の戴若思の官位を免じた。
〈訳注〉不発だから知られていないが、東晋の芽を摘まれかねない重大事件。戴若思は、配下への握りが弱いから、責任を取らされたのだ。

世子文學王籍之居叔母喪而婚,隗奏之,帝下令曰:「《詩》稱殺禮多婚,以會男女之無夫家,正今日之謂也,可一解禁止。自今以後,宜為其防。」東閣祭酒顏含在叔父喪嫁女,隗又奏之。廬江太守梁龕明日當除婦服,今日請客奏伎,丞相長史周顗等三十餘人同會,隗奏曰:「夫嫡妻長子皆杖居廬,故周景王有三年之喪,既除而宴,《春秋》猶譏,況龕匹夫,暮宴朝祥,慢服之愆,宜肅喪紀之禮。請免龕官,削侯爵。顗等知龕有喪,吉會非禮,宜各奪俸一月,以肅其違。」從之。


世子(司馬紹)の文學である王籍之は、叔母の喪中に結婚した。この行いを、劉隗は奏上してチクッた。元帝は令を下した。
「『詩経』に『殺禮多婚、以會男女之無夫家』と書いてあるが、まさに今回の王籍之のケースのことを言っているのだ。一度目は見逃すが、以後はくり返させるな」
東閣祭酒の顏含は、叔父の喪中に娘を嫁がせた。劉隗はまた奏上して、顏含を批判した。
廬江太守の梁龕は、婦人の喪が終わる前日に、客にと音楽を楽しんだ。丞相長史の周顗ら30余人が、梁龕の宴会に出席した。
劉隗は上奏した。
「そもそも嫡妻や長子は、みな廬を建てて服喪するものです。むかし周の景王は3年の喪が終了してから、宴会をしました。『春秋』は、(喪をやり遂げたにも関わらず)景王が宴会したことを非難しました。
ましてや梁龕の匹夫(ヤロー)は、喪が終わっていないのに宴会をやりました。景王の比ではありません。服喪の何たるかを、叩き込むべきです。梁龕をクビにして、侯爵を削って下さい。
また周顗らは、梁龕が喪中であることを知っていたのに、一緒に騒ぐ非礼をやりました。月俸を1ヶ月分減らし、マナー違反を正しましょう」
「劉隗の言うとおりである」
元帝は、意見を認めた。

丞相行參軍宋挺,本揚州刺史劉陶門人,陶亡後,挺娶陶愛妾以為小妻。建興中,挺又割盜官布六百餘匹,正刑棄市,遇赦免。既而奮武將軍阮抗請為長史。隗劾奏曰:「挺蔑其死主而專其室,悖在三之義,傷人倫之序,當投之四裔以禦魑魅。請除挺名,禁錮終身。而奮武將軍、太山太守阮抗請為長史。抗緯文經武,剖符東籓,當庸勳忠良,昵近仁賢,而褒求贓汙,舉頑用嚚。請免抗官,下獄理罪。」奏可,而挺病死。隗又奏:「符旨:挺已喪亡,不復追貶。愚蠢意暗,未達斯義。昔鄭人JX子家之棺,漢明追討史遷,經傳褒貶,皆追書先世數百年間,非徒區區欲厘當時,亦將作法垂于來世,當朝亡夕沒便無善惡也。請曹如前追除挺名為民,錄妾還本,顯證惡人,班下遠近。」從之。

丞相行參軍の宋挺は、もとは揚州刺史の劉陶に仕えた門人だった。
劉陶が死ぬと、宋挺は(亡き師の)劉陶の愛妾を娶り、小妻とした。
建興中(313-316)、宋挺は官布を六百匹ほど盗んだ。宋挺は、棄市の刑を受けるところだったが、たまたま赦免された。宋挺は、奮武將軍の阮抗に招かれて、長史となっていた。
劉隗は、宋挺を弾劾して上奏した。
「宋挺は、死んだ恩師を蔑み、愛妾を奪ってしまった。これは在三之義に悖り、人倫之序を傷つける行いです。宋挺を辺境に追放して、異民族を防がせましょう。宋挺から官位を除き、禁錮終身にして下さい。
奮武將軍で太山太守の阮抗は、宋挺を招いて長史にした人です。阮抗は、(宋挺をはじめとして)腐った連中を囲っています。阮抗も免官して、獄に下すべきです」
元帝は劉隗の言い分を認めた。だが宋挺は病死した。
劉隗は上奏した。
「宋挺が死んだので、刑罰を執行できませんでした。しかし宋挺を許しては、治世が引き締まりません。死んだ宋挺を公職から追放して、庶民に落としましょう。また宋挺に略奪された劉陶の愛妾は、もとの家に還して下さい」
元帝は劉隗に従った。

南中郎將王含以族強顯貴,驕傲自恣,一請參佐及守長二十許人,多取非其才。隗劾奏文致甚苦,事雖被寢,王氏深忌疾之。而隗之彈奏不畏強禦,皆此類也。

南中郎將の王含は、(王導や王敦ら)同族の勢いが強いから、顯貴となり、驕傲自恣した。
「參佐や守長を20人ばかり従えたい」
と願い出て、才覚のない連中ばかりを採用した。
劉隗は王含を弾劾した。劉隗が書いた奏文は、苦々しさに満ちた。劉隗の弾劾は認められなかったが、王氏は劉隗を深く忌み嫌った。
劉隗が畏れずに強気で正しいことを主張するのは、これらのエピソードに見えるとおりである。
〈訳注〉劉隗のテーマは「王敦との対決」だ。やっと列伝が加熱してきた。服喪のマナーなんて興味がないからねえ。
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このコンテンツの目次
『晋書』列39、元帝の逃げ場
1)劉隗-上
2)劉隗-下
3)劉隗の親戚
4)刁協、刁彝
5)戴若思
6)戴邈
7)周顗-上
8)周顗-下、周閔