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『晋書』列39、元帝の逃げ場
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2)劉隗-下
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弾劾することで存在感を示す劉隗。ついに瑯邪の王氏との直接対決。
建興中,丞相府斬督運令史淳于伯而血逆流,隗又奏曰:「(前略)謹按行督運令史淳于伯刑血著柱,遂逆上終極柱末二丈三尺,旋複下流四尺五寸。百姓喧華,士女縱觀,鹹曰其冤。伯息忠訴辭稱枉,雲伯督運訖去二月,事畢代還,無有稽乏。受賕使役,罪不及死。軍是戍軍,非為征軍,以乏軍興論,於理為枉。四年之中,供給運漕,凡諸徵發租調百役,皆有稽停,而不以軍興論,至於伯也,何獨明之?捶楚之下,無求不得,囚人畏痛,飾辭應之。理曹,國之典刑,而使忠等稱冤明時。謹按從事中郎周筵、法曹參軍劉胤、屬李匡幸荷殊寵,並登列曹,當思敦奉政道,詳法慎殺,使兆庶無枉,人不稱訴。而令伯枉同周青,冤魂哭於幽都,訴靈恨於黃泉,嗟歎甚于杞梁,血妖過於崩城,故有隕霜之人,夜哭之鬼。伯有晝見,彭生為豕,刑殺失中,妖眚並見,以古況今,其揆一也。皆由筵等不勝其任,請皆免官。」
於是右將軍王導等上疏引咎,請解職。
帝曰:「政刑失中,皆吾暗塞所由。尋示愧懼,思聞忠告,以補其闕。而引過求退,豈所望也!」由是導等一無所問。
建興中(313-316)、王導がトップの丞相府は、督運令史の淳于伯を斬った。淳于伯の血は、逆流した。
劉隗は上奏した。
「(前略)淳于伯を斬首したとき、血は激しく柱のように噴き、二丈三尺(5メートル半)に達しました。血が旋回し、下に四尺五寸(1メートル強)噴きました。百姓は大騒ぎし、士女は野次馬となり、冤罪だったのでは?と言いました。
淳于伯の息子の淳于忠は、冤罪を訴えました。『父(淳于伯)は、物資を輸送する任務を2ヶ月前に終えていました。父のいないところに集積された物資を、どうやって横流しできるのでしょうか』とのことです。この言い分は正しい。淳于伯を死刑にしたのは、從事中郎の周筵、法曹參軍の劉胤、屬官の李匡です。彼らは不適任ですから、クビにして下さい」
右將軍の王導らは、言った。
「私の部下がミスしました。部下も私もクビにして下さい」
元帝が言った。
「政治や刑罰が中道を失ったのは、みな私が暗塞だからだ。王導は悪くない。よく愧懼を示し、忠告を聞いて、欠点を補ってくれ。罪を引き合いに出して、王導らが引退させるなど、どうして私が望もうか!」
元帝から王導へのお咎めは、ひとつもなかった。
〈訳注〉服喪がテーマのときは、連戦連勝だった劉隗の糾弾。だが王含を咎めてもスルーされ、王導を攻めたら覆された。元帝は、王氏に気を使わねばならんのです。
晉國既建,拜禦史中丞。周嵩嫁女,門生斷道解廬,斫傷二人,建康左尉赴變,又被斫。隗劾嵩兄顗曰:「顗幸荷殊寵,列位上僚,當崇明憲典,協和上下,刑於左右,以禦於家邦。而乃縱肆小人,群為凶害,公於廣都之中白日刃尉,遠近洶嚇,百姓喧華,虧損風望,漸不可長。既無大臣檢禦之節,不可對揚休命。宜加貶黜,以肅其違。」顗坐免官。
東晋が建国されると、劉隗は禦史中丞を拝した。
周嵩の嫁と門生は、道を遮断して廬(家屋)を壊し、2人にケガさせた。建康左尉の赴變も、傷つけられた。 劉隗は、周嵩の兄である周顗を弾劾した。
「周顗は高位にあって、東晋を守り立てるべき立場にいます。しかしバカな弟は傷害事件を起こしています。弟すら取り締まれない周顗には、大臣の資格がありません。クビにして下さい」
周顗は、弟に連座して免官された。 〈訳注〉相手が瑯邪の王氏でなければ、劉隗は負けない。
太興初,長兼侍中,賜爵都鄉侯,尋代薛兼為丹陽尹,與尚書令刁協並為元帝所寵,欲排抑豪強。諸刻碎之政,皆雲隗、協所建。隗雖在外,萬機秘密皆豫聞之。拜鎮北將軍、都督青徐幽平四州軍事、假節,加散騎常侍,率萬人鎮泗口。
太興初(318年)劉隗は長兼侍中、爵都鄉侯を賜った。劉隗は薛兼に代わって、丹陽尹となった。
〈訳注〉東晋では、丹陽郡は都のそばだから「尹」なんだ。
劉隗と尚書令の刁協は、どちらも元帝に寵用され、豪強(王敦ら一族)を排抑することを期待された。もろもろの刻砕之政は、みな元帝が劉隗に言い、刁協が建てたものである。
〈訳注〉「刻砕之政」は、瑯邪の王氏という巨岩の上に、元帝なりの政治を彫ってデザインしたことを言うのか。
劉隗は外任で建康にいなかったが、萬機の秘密は、みな元帝から予め聞かされた。
劉隗は鎮北將軍となり、都督青徐幽平四州軍事、假節。散騎常侍を加えられ、1万人を率いて泗口に出鎮した。
〈訳注〉東晋の実領土である南方の州の都督は王氏がもらい、手元にない北方の州を劉隗がもらってる。州の数だけでもそろえて、王氏に対抗させたのだろう。
初,隗以王敦威權太盛,終不可制,勸帝出腹心以鎮方隅,故以譙王承為湘州,續用隗及戴若思為都督。敦甚惡之,與隗書曰:「頃承聖上顧眄足下,今大賊未滅,中原鼎沸,欲與足下周生之徒戮力王室,共靜海內。若其泰也,則帝祚於是乎隆;若其否也,則天下永無望矣。」隗答曰:「魚相忘於江湖,人相忘於道術。竭股肱之力,效之以忠貞,吾之志也。」敦得書甚怒。
はじめ劉隗は、王敦の威權が太盛だから、ついに制することが出来なかった。劉隗は、元帝に入れ知恵した。
「王敦を牽制するため、陛下が思い通りになる腹臣を、地方に出鎮させるべきです。譙王の司馬承さまを湘州に出しましょう。私(劉隗)と戴若思は、これまでどおり都督として下さい」
王敦は、劉隗の提案をひどく憎んだ。王敦は劉隗に、書を送った。
「陛下(元帝)が、キミを可愛がっていると聞いたよ。だが大賊は滅しておらず、中原は(異民族が)鼎のごとく沸いている。もしキミが東晋のために力を尽くす気があるなら、協力して大陸を統一しよう。統一すれば、東晋は隆盛するだろう。もしその気がないなら、天下は永遠に望みを失ってしまう」
〈訳注〉「キミが元帝とコソコソ吊るんで、この王敦さまを排除しようというなら、東晋に未来はないぜ」という脅しだ。
劉隗は答えた。
「魚は江湖にて相い忘る、人は道術にて相い忘る。股肱之力を竭げ、忠貞を以て之を效す。吾の志なり」
〈訳注〉「魚が広い場所でめいめい好きに泳ぐように、私も私なりに生きる。私は、元帝のために力を尽くし、アナタ(王敦)の伸張を抑えてみせる」と劉隗は言ったのだろう。
王敦が劉隗からの返事を受け取ると、激怒した。
及敦作亂,以討隗為名,詔征隗還京師,百官迎之於道,隗岸幘大言,意氣自若。及入見,與刁協奏請誅王氏。不從,有懼色,率眾屯金城。及敦克石頭,隗攻之不拔,入宮告辭,帝雪涕與之別。隗至淮陰,為劉遐所襲,攜妻子及親信二百余人奔于石勒,勒以為從事中郎、太子太傅。卒年六十一。子綏,初舉秀才,除駙馬都尉、奉朝請。隨隗奔勒,卒。孫波嗣。
王敦が叛乱すると、王敦は劉隗を討って名をなした。
劉隗は建康に召還された。百官は劉隗を、道に出て迎えた。劉隗は岸幘大言として、意氣は自若としていた。
劉隗は元帝に面会し、刁協とともに、 「王氏を誅したい」 と願い出た。元帝は許可をせず、懼れの顔色を浮かべた。
劉隗は兵を率いて、金城に駐屯した。王敦が石頭城を陥落させると、劉隗は王敦を攻めた。しかし、石頭城は奪回できなかった。
劉隗は、元帝の宮殿に入って、
「お別れせねばなりません」
と告げた。元帝は涙を雪いで、劉隗に別離の言葉を与えた。
劉隗は淮陰に至り、劉遐に襲撃された。 妻子および親戚や仲間200余人は、石勒を頼って逃げた。石勒は、劉隗を從事中郎、太子太傅とした。
劉隗は61歳で死んだ。 子の劉綏は、はじめ秀才に挙げられて駙馬都尉となり、朝廷に仕えた。劉隗に随って石勒を頼り、死んだ。孫の劉波が嗣いだ。
次回、おまけみたいな劉隗の親戚たち。
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このコンテンツの目次
『晋書』列39、元帝の逃げ場
1)劉隗-上
2)劉隗-下 3)劉隗の親戚
4)刁協、刁彝 5)戴若思 6)戴邈
7)周顗-上 8)周顗-下、周閔
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