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『晋書』列39、元帝の逃げ場
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3)劉隗の親戚
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弾劾することで存在感を示す劉隗。ついに瑯邪の王氏との直接対決。
劉波
劉波は、あざなを道則という。はじめ石季龍の冠軍將軍を務める王洽の參軍となった。
(時代が『三国志』から離れすぎるので、省略します)
劉訥
隗伯父訥,字令言,有人倫鑒識。初入洛,見諸名士而歎曰:「王夷甫太鮮明,樂彥輔我所敬,張茂先我所不解,周弘武巧於用短,杜方叔拙于用長。」終於司隸校尉。
劉隗の伯父は、劉訥といい、あざなは令言という。人倫の鑒識があった。はじめ洛陽に入り、諸名士に会って感嘆した。 「王夷甫はとても鮮明で、,樂彥輔は敬うべき人で、張茂先は私などにはでは理解できない。周弘武は器用なのが短所で、杜方叔は不器用なのが長所だ」 劉訥は、司隷校尉にまでなった。
〈訳注〉あざなで呼ぶから、誰だか分からん。言いっぱなし禁止だ。
劉疇
子疇,字王喬,少有美譽,善談名理。曾避亂塢壁,賈胡百數欲害之,疇無懼色,援笳而吹之,為《出塞》、《入塞》之聲,以動其遊客之思。於是群胡皆垂泣而去之。永嘉中,位至司徒左長史,尋為閻鼎所殺。司空蔡謨每歎曰:「若使劉王喬得南渡,司徒公之美選也。」又王導初拜司徒,謂人曰:「劉王喬若過江,我不獨拜公也。」其為名流之所推服如此。
劉訥の子である劉疇は、あざなを王喬という。若くして美譽があり、名理を善く談じた。
〈訳注〉劉隗の従兄にあたる。
塢壁に避難したとき、賈胡の百数人は劉疇を殺そうとした。劉疇はビビるさまもなく、笳(フエ)を吹き、『出塞』『入塞』の音色を演奏した。旋律は故郷を離れた人の心情を揺さぶった。包囲していた群胡は、みな涙を流して退却した。
〈訳注〉空城の計の進化版だ。
永嘉中(307-313)、司徒左長史になったが、閻鼎に殺された。司空の蔡謨は、いつも嘆いた。
「もし劉王喬(劉疇)が長江を渡っていたら、司徒公(王導)に認められて、抜擢されただろうに」
はじめ王導が司徒になったとき、人に言った。
「もし劉王喬(劉疇)が長江を渡っていたら、私だけが三公を拝すことはなかった」と。
〈訳注〉王導は「劉疇も共に三公になったはずだ」と言った。
劉疇の名流が、推服されていたのは、このエピソードのとおりである。
〈訳注〉気配りの王導と、自意識過剰な王敦。風流な劉疇と、弾劾魔の劉隗。東晋は、対照的な2ペアの従兄弟によって、決定的に分裂したんじゃないか(笑)
劉劭
疇兄子劭,有才幹,辟琅邪王丞相掾。咸康世,曆禦史中丞、侍中、尚書、豫章太守,秩中二千石。
劉疇の兄の子は、劉劭である。才幹があり、琅邪王の丞相掾に召された。
咸康世(335-342)、禦史中丞、侍中、尚書、豫章太守を歴任し、秩は中二千石。
劉黄老
邵族子黃老,太元中,為尚書郎,有義學,注《慎子》、《老子》,並傳於世。
劉邵の族子は、劉黄老である。太元中(376-396)、尚書郎となった。義學があり、《慎子》《老子》に注を付けて、どちらも世に伝えられた。
〈訳注〉ペンネーム!
次は、劉隗の盟友である刁協です。時代は、東晋初に戻ります。
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このコンテンツの目次
『晋書』列39、元帝の逃げ場
1)劉隗-上
2)劉隗-下 3)劉隗の親戚
4)刁協、刁彝 5)戴若思 6)戴邈
7)周顗-上 8)周顗-下、周閔
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