いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』と『後漢書』口語訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
『晋書』列32、劉琨伝の翻訳 1)賈謐の友、趙王倫の姻
劉琨伝です。劉群(劉琨の子)、劉輿(劉琨の兄)、劉演(劉琨の兄の子)も列伝がくっついています。

劉琨
劉琨,字越石,中山魏昌人,漢中山靖王勝之後也。祖邁,有經國之才,為相國參軍、散騎常侍。父蕃,清高沖儉,位至光祿大夫。琨少得俊朗之目,與范陽祖納俱以雄豪著名。年二十六,為司隸從事。時征虜將軍石崇河南金穀澗中有別廬,冠絕時輩,引致賓客,日以賦詩。琨預其間,文詠頗為當時所許。秘書監賈謐參管朝政,京師人士無不傾心。石崇、歐陽建、陸機、陸雲之徒,並以文才降節事謐,琨兄弟亦在其間,號曰「二十四友'。太尉高密王泰辟為掾,頻遷著作郎、太學博士、尚書郎。

劉琨は、あざなを越石という。中山郡は魏昌県の人だ。漢の中山靖王だった劉勝の後裔である。
〈訳注〉劉備(の自称)と同じだ。
祖父の劉邁は、經國之才があり、相國參軍、散騎常侍となった。父の劉蕃は、清高沖儉で、官位は光祿大夫まで登った。
〈訳注〉祖父の没年が不明だが、相国があるのは董卓か魏末か。
劉琨は、幼くして俊朗之目を得て、范陽出身の祖納とともに、雄豪著名であった。
〈訳注〉祖納は祖逖の兄で、同じ巻に列伝が収められてる。そのうち本サイトでも訳しましょうか。
劉琨は、26歳で司隸從事となった。
征虜將軍の石崇は、河南郡の金穀県の澗中に別廬を持っていた。同時代で飛びぬけて優れた人を賓客に引致し、毎日賦詩を作らせていた。劉琨は仲間に加わった。劉琨が作った文詠は、当時大いに評価された。
〈訳注〉石崇は、贅沢競争で有名な人だ。金持ちの豪遊なんだ。
秘書監の賈謐が朝政を仕切るようになると、京師の人士はみな迎合した。石崇、歐陽建、陸機、陸雲のような人たちは、文才を売りにして、節度を曲げて賈謐に仕えた。劉琨の兄弟も、同じように賈謐に仕えて「二十四友」に数えられた。
太尉で高密王の司馬泰は、劉琨を召して掾とした。劉琨は、著作郎、太學博士、尚書郎に次々と遷った。

趙王倫執政,以琨為記室督,轉從事中郎。倫子荂,即琨姊婿也,故琨父子兄弟並為倫所委任。及篡,荂為皇太子,琨為荂詹事。三王之討倫也,以琨為冠軍、假節,與孫秀子會率宿衛兵三萬距成都王穎,戰于黃橋,琨大敗而還,焚河橋以自固。及齊王冏輔政,以其父兄皆有當世之望,故特宥之,拜兄輿為中書郎,琨為尚書左丞,轉司徒左長史。冏敗,范陽王虓鎮許昌,引為司馬。

趙王の司馬倫が執政すると、劉琨を記室督にして、從事中郎に転じさせた。司馬倫の子である司馬荂は、劉琨の姊婿であった。だから劉琨の父子兄弟は、司馬倫に信任された。
〈訳注〉賈謐から司馬倫へ円滑に移れたのは、姻戚関係からか。
司馬倫が恵帝から簒奪すると、司馬荂は皇太子になり、劉琨はこれを助けた。三王が司馬倫を討伐しようとすると、劉琨は司馬倫側の冠軍となり、假節を与えられて、孫秀の子である孫會とともに、宿衛兵を三万人率いて、成都王の司馬穎を防いで黃橋で戦った。劉琨は、大いに敗れて帰還し、河橋を焼き落として防御を固めた。
齊王の司馬冏が輔政すると、劉琨の父兄がみな當世之望があることから、特別に宥された。劉琨の兄の劉輿は中書郎となり、劉琨は尚書左丞となり、司徒左長史に転じた。司馬冏が敗れると、范陽王の司馬虓が許昌に出鎮していたから、招かれて司馬となった。

及惠帝幸長安,東海王越謀迎大駕,以琨父蕃為淮北護軍、豫州刺史。劉喬攻范陽王虓於許昌也,琨輿汝南太守杜育等率兵救之,未至而虓敗,琨輿虓俱奔河北,琨之父母遂為劉喬所執。琨乃說冀州刺史溫羨,使讓位於虓。及虓領冀州,遺琨詣幽州,乞師于王浚,得突騎八百人,與虓濟河,共破東平王懋於廩丘,南走劉喬,始得其父母。又斬石超,降呂朗,因統諸軍奉迎大駕于長安。以動封廣武侯,邑二千戶。

惠帝が長安に行幸すると、東海王の司馬越は、恵帝を迎える謀略を練った。劉琨の父である劉蕃は、淮北護軍、豫州刺史となった。
劉喬が、(劉琨の主君の)范陽王虓を許昌に攻めた。劉琨は、汝南太守の杜育らとともに兵を率いて許昌の救援に向かった。劉琨が到着する前に、司馬虓は敗退した。劉琨は司馬虓を連れて、河北に逃げた。劉琨の父母は、ついに劉喬に捕らえらた。
劉琨は、冀州刺史の温羨を説得して、司馬虓は冀州刺史の位を譲ってもらった。司馬虓が冀州を領有すると、劉琨を幽州に派遣して、王浚に兵を分けてくれと依頼した。王浚から、突騎八百人をもらった。
司馬虓と劉琨は黄河を渡り、共に東平王の司馬懋を廩丘で破り、劉喬を南方へ敗走させた。劉琨は父母を取り戻した。また石超を斬り、呂朗を降した。劉琨は諸軍を統御して、恵帝を長安に迎えた。この勲功により、劉琨は廣武侯に封じられ、邑二千戸を与えられた。

永嘉元年,為並州刺史,加振威將軍,領匈奴中郎將。琨在路上表曰:「臣以頑蔽,志望有限,因緣際會,遂忝過任。九月末得發,道險山峻,胡寇塞路,輒以少擊眾,冒險而進,頓伏艱危,辛苦備嘗,即日達壺口關。臣自涉州疆,目睹困乏,流移四散,十不存二,攜老扶弱,不絕于路。及其在者,鬻賣妻子,生相捐棄,死亡委危,白骨橫野,哀呼之聲,感傷和氣。群胡數萬,周匝四山,動足遇掠,開目睹寇。唯有壺關,可得告糴。而此二道,九州之陰,數人當路,則百夫不敢進,公私往反,沒喪者多。嬰守窮城,不得薪采,耕牛既盡,又乏田器。以臣愚短,當此至難,憂如迴圈,不遑寢食。臣伏思此州雖去邊朔,實邇皇畿,南通河內,東連司冀,北捍殊俗,西禦強虜,是勁弓良馬勇士精銳之所出也。當須委輸,乃全其命。今上尚書,請此州谷五百萬斛,絹五百萬匹,綿五百萬斤。願陛下時出臣表,速見聽處。」朝廷許之。

永嘉元(307)年、劉琨は并州刺史となり、振威將軍を加えられ、匈奴中郎將を領ねた。劉琨は進軍中に、上表した。
「私は頑固で視野の狭い人間で、志はそれほど大きくないのに、成り行きで身に過ぎた大任をもらってしまいました。九月末に兵を発して、険しい山道や異民族が塞ぐ道を通って、少数で大軍を迎え撃ちました。危険を冒して進軍したので、ピンチに苦しみましたが、その日の内に壺口關に達しました。
私は自ら国境を渉りましたが、困窮はひどくなり、軍勢はちりぢりになり、はじめの人数は20%未満になってしまいました。老兵や弱兵をフォロウしつつも、道は遠いのです。軍勢にいる人は、妻子を売り飛ばし、生きても地獄で死んでも地獄、白骨を野に晒し、悲しみの声をあげ、心を痛めています。并州には、異民族が数万人いて、四方の山を取り囲んで侵略をします。ただ壺關から中原への道は閉ざされ、通行して死ぬ人が多くいます。困窮した城を守っても、薪や食料を得られず、耕牛はおらず、農具も乏しい状況です。私は愚短な人物ですから、この絶望的な并州を憂いて、寝食もままなりません。
并州は北方の遠隔地ですが、晋朝の領土であり、南は河内郡に通じ、東は司州や冀州に連なり、北は異文化と接し、西は強い異民族を防いでいます。并州は、強い弓、良い馬、勇士の精鋭を産出します。私はこの土地を任されていますから、任務を全うします。今回のように文書を奉ったのは、五百万石の穀物と、絹五百萬匹と綿五百萬斤を支給してほしいからです。陛下に於かれましては、私のお願いを速く聞き届けられますように」
朝廷は劉琨の言い分を認めた。
〈訳注〉并州がジリ貧だから、物資をくれ!という文だ。難しいことを並べているが、それだけだ。500万石って、すごい量をねだったものです。
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
『晋書』列32、劉琨伝の翻訳
1)賈謐の友、趙王倫の姻
2)劉聡と石勒との戦い
3)鮮卑族と義兄弟
4)晋に殉じても無視
5)脂汚れの兄、劉輿
6)五胡十六国で一家離散