表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

230年、曹休と長雨、満寵の合肥

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

230年春、浮華の徒を、魏室から追放

春,吳主使將軍衛溫、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲、亶洲,欲俘其民以益眾。 陸遜、全琮皆諫,以為:「桓王創基,兵不一旅。今江東見眾,自足圖事,不當遠涉不 毛,萬裡襲人,風波難測。又民易水土,必致疾疫,欲益更損,欲利反害。且其民猶禽 獸,得之不足濟事,無之不足虧眾。」吳主不聽。

230年春、孫権は、將軍の衛温と諸葛直に、夷洲と亶洲をさぐらせた。
陸遜と全琮は、孫権をいさめた。「孫策さまですら、海には行きませんでした。海外から人口をうばっても、利益は少ない」と。孫権は、きかず。

尚書琅邪諸葛誕、中書郎南陽鄧颺等相與結為黨友,更相題表,以散騎常侍夏侯玄 等四人為四聰,誕輩八人為八達。玄,尚之子也。中書監劉放子熙,中書令孫資子密, 吏部尚書衛臻子烈,三人鹹不及比,以其父居勢位,容之為三豫。行司徒事董昭上疏曰:

尚書をする琅邪の諸葛誕と、中書郎をする南陽の鄧颺らは、つるんで党友した。散騎常侍の夏侯玄ら4人は、相互にほめ、四聡といった。諸葛誕らは、八達というユニットをつくった。夏侯玄は、夏侯尚の子である。

後漢末に、公権力に反対する人たちが、おなじことをした。ほめあい、ランキングをつくった。どういう心理が、こういう行動をさせるか。考えたい。

中書監をする劉放の子・劉熙と、中書令をする孫資の子・孫密と、吏部尚書をする衛臻の子・衛烈は、父の七光りで、三豫をつくった。
この風潮を見て、行司徒事の董昭は、上疏した。

「凡有天下者,莫不貴尚敦樸忠信之士,深疾虛偽不真之人者,以其毀教亂治,敗俗傷 化也。近魏諷伏誅建安之末,曹偉斬戮黃初之始。伏惟前後聖詔,深疾浮偽,欲以破散 邪黨,常用切齒;而執法之吏,皆畏其權勢,莫能糾擿,毀壞風俗,侵欲滋甚。竊見當 今年少不復以學問為本,專更以交遊為業;國士不以孝悌清修為首,乃以趨勢游利為先。 合黨連群,互相褒歎,以毀訾為罰戮,用黨譽為爵賞,附己者則歎之盈言,不附者則為 作瑕釁。至乃相謂:『今世何憂不度邪,但求人道不勤,羅之下博耳;人何患其不知己, 但當吞之以藥而柔調耳。』又聞或有使奴客名作在職家人,冒之出入,往來禁奧,交通 書疏,有所探問。凡此諸事,皆法之所不取,刑之所不赦,雖諷、偉之罪,無以加也!」 帝善其言。二月,壬年,詔曰:』世之質文,隨教而變。兵亂以來,經學廢絕,後生講 趣,不由典謨。豈訓導未洽,將進用者不以德顯乎!其郎吏學通一經,才任牧民,博士 課試,擢其高第者,亟用;其浮華不務道本者,罷退之!」於是免誕、颺等官。

董昭は言う。「浮華のヤツらを、のさばらせてはいけない」と。諸葛誕や鄧颺らは、クビになった。

230年夏、鍾繇と卞氏が死ぬ

夏,四月,定陵成侯鐘繇卒。 六月,戊子,太皇太后卞氏殂。

230年夏4月、定陵成侯の鐘繇が死んだ。
6月戊子、曹操の妻・卞氏が死んだ。

230年秋、曹真が漢中で長雨にあう

秋,七月,葬武宣皇後。
大司馬曹真以「漢人數入寇,請由斜谷伐之。諸將數道並進,可以大克。」帝從之, 詔大將軍司馬懿溯漢水由西城入,與真會漢中,諸將或由子午谷、或由武威入。
司空陳 群諫曰:「太祖昔到陽平攻張魯,多收豆麥以益軍糧,魯未下而食猶乏。今既無所因, 且斜谷阻險,難以進退,轉運必見鈔截,多留兵守要,則損戰士,不可不熟慮也。」帝 從群議。真復表從子午道;群又陳其不便,並言軍事用度之計。詔以群議下真,真據之 遂行。

230年秋7月、卞氏を葬った。
大司馬の曹真は、蜀漢を撃つと言った。曹叡は、曹真をみとめた。大将軍の司馬懿は、漢水をさかのぼり、西城に入った。司馬懿は、漢中で曹真と合わさるつもりだ。魏軍は子午谷や武威に入った。
司空の陳羣は、曹叡をいさめた。「曹操さまですら、漢中へは兵糧がつながらず。曹真をとめなさい」と。曹叡は、陳羣に従い、曹真をとめた。

いちどは、辞めていたんですね。曹真の蜀攻めは。

ふたたび曹真は、蜀攻めを言った。陳羣は曹真に反対しつつ、蜀攻めのプランも提案した。曹真は、陳羣のプランをつかい、蜀を攻めた。

八月,辛已,帝行東巡;乙未,如許昌。 漢丞相亮聞魏兵至,次於成固赤板以待之。召李嚴使將二萬人赴漢中,表嚴子豐為 江州都督,督軍典嚴後事。會天大雨三十餘日,棧道斷絕,太尉華歆上疏曰:
「陛下以 聖德當成、康之隆,願先留心於治道,以征伐為後事。為國者以民為基,民以衣食為本。 使中國無饑寒之患,百姓無離上之心,則二賊之釁可坐而待也!」帝報曰:「賊憑恃山 川,二祖勞於前世,猶不克平,朕豈敢自多,謂必滅之哉!諸將以為不一探取,無由自 敝,是以觀兵以窺其釁。若天時未至,周武還師,乃前事之鑒,朕敬不忘所戒。」少府 楊阜上疏曰:「昔武王白魚入舟,君臣變色,動得吉瑞,猶尚憂懼,況有災異而不戰竦 者哉!今吳、蜀未平,而天屢降變,諸軍始進,便有天雨之患,稽閡山險,已積日矣。 轉運之勞,擔負之苦,所費已多,若有不斷,必違本圖。《傳》曰:『見可而進,知難 而退,軍之善政也。』徒使六軍困於山谷之間,進無所略,退又不得,非王兵之道也。」

230年8月辛已、曹叡は東巡した。8月乙未、許昌にきた。
諸葛亮は、成固の赤板で、曹真を迎撃した。李厳に2万をつけ、漢中にゆかせた。李厳の子・李豊を、江州都督とした。李豊は李厳をついだ。たまたま長雨が30余日つづいた。桟道が断絶した。
太尉の華歆は言う。「長雨だから、曹休をもどしなさい」と。少府 の楊阜も、撤退せよと上疏した。

散騎常侍王肅王上疏曰:「前志有之:『千里饋糧,士有饑色,樵蘇後爨,師不宿 飽,』此謂平塗之行軍者也;又況於深入阻險,鑿路而前,則其為勞必相百也。今又加 之以霖雨,山板峻滑,眾迫而不展,糧遠而難繼,實行軍者之大忌也。聞曹真發已逾月 而行裁半谷,治道功夫,戰士悉作。是賊偏得以逸待勞,乃兵家之所憚也。言之前代, 則武王伐紂,出關而復還;論之近事,則武、文征權,臨江而不濟。豈非所謂順天知時, 通於權變者哉!兆民知上聖以水雨艱劇之故,休而息之,後日有釁,乘而用之,則所謂 悅以犯難,民忘其死者矣。」肅,朗之子也。九月,詔曹真等班師。

散騎常侍の王粛も、撤退せよと上疏した。王粛は、王朗の子である。
230年9月、曹叡は曹真に、撤退を命じた。

230年冬、合肥の満寵が、孫権を追い返す

冬,十月,乙卯,帝還洛陽。時左僕射徐宣總統留事,帝還,主者奏呈文書。帝曰: 「吾省與僕射省何異!」竟不視。

230年冬10月乙卯、曹叡は洛陽にもどった。
ときに左僕射の徐宣が、曹叡がいない洛陽を統べた。曹叡は、留守中に徐宣が処理した文書を見た。曹叡は言った。「私が処理しても、徐宣が処理しても、まったく同じじゃないか」と。曹叡は、文書の処理をやめて、徐宣にまかせた。

上司がいないあいだ、上司の判断基準にピタリと合わせて、書類をさばく部下。徐宣のような仕事を、会社でしてみたいものだ。笑


十二月,辛未,改葬文昭皇後於朝陽陵。
吳主揚聲欲至合肥,征東將軍滿寵表召兗、豫諸軍皆集,吳尋退還,詔罷其兵。寵 以為:「今賊大舉而還,非本意也,此必欲偽退以罷吾兵,而倒還乘虛,掩不備也。」 表不罷兵,後十餘日,吳果更來。到合肥城,不克而還。

12月辛未、曹丕の妻・甄氏を朝陽陵にうつした。
孫権は合肥を攻めた。征東將軍の滿寵は、兗州と豫州の軍をあつめた。孫権がひいた。曹叡は、兗州と豫州の軍を、解散しろと命じた。満寵は言った。「孫権は、こちらが兵を解散するのを狙い、攻めるつもりです」と。10日余して、果たして孫権がきた。合肥に、兗州と豫州の軍がいるのを見て、孫権はひいた。

漢丞相亮以蔣琬為長史。亮數外出,琬常足食兵,以相供給。亮每言:「公琰托志 忠雅,當與吾共贊王業者也。」

諸葛亮は、蒋琬を長史とした。蒋琬は、兵数を食糧を、安定して供給した。諸葛亮はいつも言う。「蒋琬は、ともに王業をやれる人材だ」と。

230年、孫呉でおきた隠蕃の事件

青州人隱蕃逃奔入吳,上書於吳主曰:「臣聞紂為無道,微子先出;高祖寬明,陳 平先入。臣年二十二,委棄封域,歸命有道,賴蒙天靈,得自全致。臣至止有日,而主 者同之降人,未見精別,使臣微言妙旨不得上達,於邑三歎,曷惟其已!謹詣闕拜章, 乞蒙引見。」吳主即召入,蕃進謝,答問及陳時務,甚有辭觀。
侍中右領軍胡綜侍坐, 吳主問:「何如?」綜對曰:「蕃上書大語有似東方朔,巧捷詭辯有似檷衡,而才皆不 及。」吳主又問:「可堪何官?」綜對曰:「未可以治民,且試都輦小職。」吳主以蕃 盛語刑獄,用為廷尉監。

青州人の隱蕃が、呉に逃げこんだ。隠蕃は言った。「曹叡がひどいから、孫呉に降伏してきましたよ」と。孫権は隠蕃の話に聞きほれた。
侍中・右領軍をする胡綜は、隠蕃の話を、孫権のそばで聞いた。孫権は、胡綜に意見を求めた。胡綜は言った。「隠蕃はホラ吹きです。大きな仕事を与えてはいけない」と。隠蕃が刑獄のことをよく語るので、廷尉監とした。

左將軍硃據、廷尉郝普數稱蕃有王佐之才,普尤與之親善,常 怨歎其屈。於是蕃門車馬雲集,賓客盈堂,自衛將軍全琮等皆傾心接待;惟羊道及宣詔 郎豫章楊迪拒絕不與通。潘濬子翥,亦與蕃周旋,饋餉之。濬聞,大怒,疏責翥曰: 「吾受國厚恩,志報以命,爾輩在都,當念恭順,親賢慕善。何故與降虜交,以糧餉之! 在遠聞此,心震面熱,惆悵累旬。疏到,急就往使受杖一百,促責所餉!」當時人鹹怪 之。

左将軍の朱拠と、廷尉の郝普は、しばしば隠蕃をほめた。「隠蕃に王佐の才がある」と。郝普は、隠蕃ともっとも仲がよい。郝普は、隠蕃が小さい仕事しか任されないのを、怨み歎じた。

孫呉は、人材の評価が、よく混乱するなあ。曹魏だって、浮華の徒に対する評価が、ブレまくっていた。諸葛亮がすべてを決める蜀漢は、すごい。

隠蕃の門前に、賓客が押しよせた。衛將軍の全琮を筆頭に、みな隠蕃に心を傾けた。ただ羊道と、宣詔 郎をする豫章の楊迪だけが、隠蕃と通じない。

羊道は、さきに諸葛恪を批判した人だ。人物眼があると、史書の著者に思われた人。トクな役回りである。

潘濬の子・潘翥も、隠蕃と食事した。潘濬はこれを聞いて、潘翥を叱った。「私(潘濬)は、国に恩を受けてきた。お前(潘翥)は、なぜ曹魏から降った人などと、交際するのか。バカ息子め」と。当時の人は、潘濬の怒りをおかしがった。

頃之,蕃謀作亂於吳,事覺,亡走,捕得,伏誅。吳主切責郝普,普惶懼,自殺。 硃據禁止,歷時乃解。

このころ、隠蕃が呉に乱を起こすと、発覚した。隠蕃は逃げが、斬られた。
孫権は、きつく郝普を攻めた。郝普は自殺した。朱拠は、ゆるされた。

真意が分からない事件です。隠蕃は、ほんとうに魏のスパイだったのか。


武陵五溪蠻夷叛吳,吳主以南土清定,召交州剌史呂岱還屯長沙漚口。

武陵の五溪にいる蠻夷が、孫呉に叛いた。孫権は、荊州の蛮夷を平定したい。交州刺史の呂岱を召して、長沙の漚口においた。101118