150年、梁冀の専横を、朱穆が諌める
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
150年春、梁太后の死
150年春甲子、天下を赦した。改元した。
正月乙丑、梁太后は、桓帝に政治をかえした。2月甲寅、梁太后は死んだ。
150年3月、桓帝の車駕は、北宮にゆく。3月甲午、梁太后(順烈皇后)を葬った。大將軍・梁冀を1万戶ふやす。合わせて梁冀は、3万戸。
150年、梁冀と孫寿の横暴
梁冀の妻・孫寿を、襄城君にした。陽翟の税収を与えた。歳入は5千萬。赤紱を賜り、長公主なみとした。
ぼくは思う。潁川や汝南は、洛陽のそば。洛陽とちょっと距離をおき、洛陽の様子を眺めることができる。いわゆる清流たちは、故郷が孫寿に巻き上げられるのを、確かに見た。のちの政治運動の原動力かも。
孫寿は、病気のふりをして、梁冀に愛された。
「壽善為妖態以蠱惑冀」 「妖」の字には「艶麗」の意味がある。美人の意味で「妖人」「妖女」という熟語が曹植や建安七子の詩に出てきたりする。ここは「孫寿は媚態で梁冀を魅惑した」ぐらいの意味だと思う。媚態の具体的な内容が胡注に詳しく書かれているw(引用おわり)
孫寿は、大倉令から収入をえる。孫寿の威権がふるった。刺史や太守は、孫寿に挨拶した。
【追記】goushu氏はいう。(引用はじめ)
「冀愛監奴秦宮,官至太倉令,得出入壽所」 「梁冀は監奴の秦宮を愛し、(秦宮の)官は太倉令に至り、(秦宮は)孫寿の所に出入りすることができた」ということで、「孫寿は、大倉令から収入をえる。」とまで解釈するのはちょっと飛躍しすぎな気がする。
次の「威權大震,刺史、二千石皆謁辭之。」は、『後漢書』梁冀伝には「威權大震」の前に「宮(秦宮)内外 寵を兼ね、」の一文があり、威権がふるい刺史や太守が挨拶したのも孫壽じゃなく秦宮についての描写。
なんかちょっと検索してみた感じだと、この李賀「秦宮詩」の秦宮に対する絢爛豪華な描写から、明代あたりには秦宮は美少年で梁冀と同性愛的な関係が…みたいなイメージが作られてたっぽいんですけどw
ざっと眺めてみた感じだと、寵奴風情が大きな権力を握ってしまう社会矛盾を強調するために、あえて(苦しむ庶民を尻目に)秦宮がすばらしい着物をきて贅沢三昧をし…みたいなことを、美しく歌い上げるみたいな感じがしました 。(引用おわり)
梁冀は、兎を集めた。兎の毛皮を取れば、死刑だ。禁令を知らず、西域の商人が、兎を1羽殺した。梁冀は商人を殺した。兎の殺害に、10余人が連座した。
孫寿と梁冀は、贅沢を競った。孫氏の宗親は、侍中、卿、校、郡守、 長吏となる人が10余人だ。扶風の人士・孫奮は、梁冀に貸ししぶった。梁冀は、孫奮の兄弟を殺して、財産の1億7千餘萬を没収した。
梁冀の食客は、四方で横暴した。怨毒された。
侍御史の硃穆は、梁冀の故吏である。朱穆は、梁冀を諌めた。「梁冀は、三公より偉い。京師の諸官がつかう費用は、10倍する。慎みなさい。順帝の永和年間、政治が4、5年ゆるんだ。財政がカラになり、人心が離れた。馬勉が皇帝を名のった。荊州と揚州が乱れた。梁太后が臨朝して回復したが、いま乱れている。改めなさい」と。梁冀は、きかず。
ところで、梁冀はどこに地域的基盤は、関中である。後漢の建国以来、つよい兵を養っていたかも。
梁冀と対立した、河間王・劉蒜は、河北に地盤があった。後漢の抱える内憂と外患をしずめるには、河北では内地すぎて、役に立たないか。河北は、恵まれた土地だ。劉秀も袁紹も曹操も、目をつけた。条件に恵まれると、人間は弱くなる。っていうか、強くある必要性がない。もし劉蒜や謝暠が執政したら、儒教的には美しい政治だが、辺境がろくに治まらなかったかも。
穆又奏記極諫,冀終不悟,報書雲:「如此,僕亦 無一可邪!」然素重穆,亦不甚罪也。
梁冀は専横したが、なお宦官と交結した。梁冀は、宦官の子弟や賓客を、州郡の要職につけた。
ふたたび朱穆は、極諫した。「梁冀がやり方を変えねば、私は梁冀を裏切るかも知れない」と。ふだん梁冀は、朱穆を重んじる。梁冀は、朱穆を罪にしない。
樂安太守の陳蕃、京兆尹の延篤が抵抗
梁冀は、樂安太守の陳蕃に、手紙した。陳蕃は受けとらず。梁冀の使者は、別人の名前をつかい、陳蕃に目通りした。陳蕃は怒り、梁冀の使者をムチで殺した。梁冀は陳蕃を、修武令に左遷した。
ときに桓帝の皇子は、病気だ。珍藥をもとめた。梁冀の賓客が、京兆で牛黃を買ってきた。
京兆尹する南陽の延篤は、梁冀の賓客をとらえた。「梁冀は外戚だ。皇子が病気なら、医者が薬を与えるはず。梁冀は、賓客に買物をさせ、手柄をつくる気だ」と。延篤は、賓客を殺した。これを聞いた梁冀は、怒りでものも言えない。延篤を免官した。
150年夏~、桓帝の母に、皇后の待遇
秋,七月,梓潼山崩。
150年夏5月庚辰、博園の匽貴人を、孝崇後とした。匽貴人の宮殿に、太僕や少府以下をおいた。みな長樂宮の故事にあわせた。
巨鹿の9縣
を分けて、匽貴人の湯沐邑とした。
150年秋7月、梓潼山が崩れた。101202