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103年-105年、後漢の最盛から、和帝の死

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

103年、和帝が漢水まで、南をめぐる

孝和皇帝下永元十五年(癸卯,公元一零三年)
夏,四月,甲子晦,日有食之。時帝遵肅宗故事,兄弟皆留京師,有司以日食陰盛, 奏遣諸王就國。詔曰:「甲子之異,責由一人。諸王幼稚,早離顧復,弱冠相育,常有 《蓼莪》、《凱風》之哀。選儒之恩,知非國典,且復宿留。」
秋,九月,壬年,車駕南巡,清河、濟北、河間三王並從。 四州雨水。

103年夏4月甲子みそか、日食した。ときに和帝は、章帝の前例にならい、兄弟を京師におく。有司は、日食したから、諸王を国にゆかせたい。和帝は、反論した。「日食は、私1人の責任だ。諸王は、まだ幼い。京師から出すのは、しのびない」と。

ぼくは補う。もうすぐ和帝が死に、すぐに諸王は国にゆく。

103年秋9月壬午、和帝の車駕は、南を巡る。清河王、濟北王、河間王の3人が、和帝にしたがう。4州で雨水あり。

冬,十月,戊申,帝幸章陵;戊午,進幸雲夢。時太尉張禹留守,聞車駕當幸江陵, 以為不宜冒險遠遊,驛馬上諫。詔報曰:「祠謁既訖,當南禮大江;會得君奏,臨漢回 輿而旋。」十一月,甲申,還宮。
嶺南舊獻生龍眼、荔枝,十裡一置,五裡一候,晝夜傳送。臨武長汝南唐羌上書曰: 「臣聞上不以滋味為德,下不以貢膳為功。伏見交趾七郡獻生龍眼等,鳥驚風發;南州 土地炎熱,惡蟲猛獸,不絕於路,至於觸犯死亡之害。死者不可復生,來者猶可救也。 此二物升殿,未必延年益壽。」帝下詔曰:「遠國珍羞,本以薦奉宗廟,苟有傷害,豈 愛民之本,其敕太官勿復受獻!」
是歲,初令郡國以日北至按薄刑。

103年冬10月戊申、和帝は、章陵にゆく。10月戊午、雲夢にゆく。ときに、太尉の張禹が、京師を留守する。和帝が江陵にゆくと聞き、張禹は和帝を諌めた。「遠方にゆき、危険をおかすな」と。和帝は従う。「きみが戻れと言うなら、漢水に臨んでから、もどろう」と。103年11月甲申、和帝は宮殿にもどる。

ぼくは思う。どうやら、章陵への参拝が、メインの目的だったようだ。それにしては、遠回りをしすぎ。なにが目的だったのか。新婚旅行?まさかね!

もともと嶺南は、龍眼や荔枝を献上する。

李賢はいう。『交州記』によれば、どちらも樹木の種類。

臨武長する汝南の唐羌は、上書した。「龍眼や荔枝の採取は、コストがかかる。土地は炎熱だし、惡蟲や猛獸だらけだ。そんなコストを払ってまで、めずらしい樹木を献上させても、ご利益はない」と。和帝は、これに従う。
この103年、はじめて郡國に、北至の日に、刑を薄くさせた。

胡三省によれば、春夏秋冬の区切りで、陰と陽のバランスが変わるから、刑を変えるらしい。范曄が「冬至で」と書いたのは、誤りらしい。興味が出たら、考えます。


104年、和帝が河南で、百岯山に登る

   孝和皇帝下永元十六年(甲辰,公元一零四年)
秋,七月,旱。 辛酉,司徒魯恭免。 庚午,以光祿勳張酺為司徒;八月,己酉,酺薨。
冬,十月,辛卯,以司空徐防為司徒,大鴻臚陳寵為司空。 十一月,己丑,帝行幸緱氏,登百岯山。 北匈奴遣使稱臣貢獻,願和親,修呼韓邪故約。帝以其舊禮不備,未許;而厚加賞 賜,不答其使。

104年秋7月、日照。7月辛酉、司徒の魯恭を免じた。 7月庚午、光祿勳の張酺を、司徒とした。8月己酉、張酺が薨じた。
104年冬10月辛卯、司空の徐防を、司徒とした。大鴻臚の陳寵を、司空とした。 11月己丑、和帝は緱氏(河南)にゆき、百岯山に登る。 北匈奴が貢献して、和親をねがう。前漢の呼韓邪単于の前例にならう。和帝は、北匈奴が前例どおりやらないので、和親をゆるさず。あつく賞賜を加えただけ。

ぼくは思う。えらく出来事がすくない。班超の西域経営で、話題を使い果たしてしまったのだろう。国内にも、国境がない。後漢の最盛期を言うなら、いまだ。和帝が安定して各地をまわり、後宮は鄧綏がまもる。あとから、理想の時代として、思い起こされただろう。


105年、和帝が崩じ、鄧皇后が殤帝をたてる

   孝和皇帝下元興元年(乙巳,公元一零五年)
春,高句驪王宮入遼東塞,寇略六縣。夏,四月,庚午,赦天下,改元。 秋,九月,遼東太守耿夔擊高句驪,破之。冬,十二月,辛未,帝崩於章德前殿。

105年春、高句驪王が、遼東の塞に入り、6縣を寇略した。105年夏4月庚午、天下を赦して、元興と改元した。
105年秋9月、遼東太守の耿夔は、高句驪を破った。105年冬12月辛未、和帝は、章德前殿で崩じた

胡三省はいう。和帝は27歳。早すぎる死。後漢のピークが終了!


初,帝失皇子,前後十數,後生者輒隱秘養於民間,群臣無知者。及帝崩,鄧皇後乃收 皇子於民間。長子勝,有痼疾;少子隆,生始百餘日,迎立以為皇太子,是夜,即皇帝 位。尊皇後曰皇太后,太后臨朝。

和帝は、10数人も皇子が死んだから、民間にかくして養う。郡臣は、皇子を知らない。和帝が死ぬと、鄧皇后は、民間から皇子をひろう。長子の劉勝は、病気だ。少子の劉隆は、生後100余日だが、皇太子となる。おなじ日の夜、皇帝につく。鄧皇后は、皇太后となり、臨朝した。

胡三省はいう。長子をやめて、少子を立てた。郡臣は、長子の病気をうたがった。ぼくは補う。「病気がないから」選ばれた少子が、すぐに死ぬ。世話ないなあ。


是時新遭大憂,法禁未設,宮中亡大珠一篋;太后念 欲考問,必有不辜,乃親閱宮人,觀察顏色,即時首服。又,和帝幸人吉成御者共枉吉 成以巫蠱事,下掖庭考訊,辭證明白。太后以吉成先帝左右,待之有恩,平日常無惡言, 今反若此,不合人情;更自呼見實核,果御者所為,莫不歎服以為聖明。

和帝が死んで、パニクった。宮中で、大珠の竹篋が1つなくなった。鄧太后は、明察して、これを発見した。

ぼくは思う。鄧太后の眼力は、公正で確かだなあ、と諒解すれば、それで充分なエピソードだと思う。興味が出てきたら、これも後日。ともかく鄧太后は、賢人なのだ。宮城谷さんも、ほめまくっていた。史料の、引きずられる人だなあ。笑


北匈奴重遣使詣敦煌貢獻,辭以國貧未能備禮,願請大使,當遣子入侍。太后亦不 答其使,加賜而已。
雒陽令廣漢王渙,居身平正,能以明察發擿奸伏,外行猛政,內懷慈仁。凡所平斷, 人莫不悅服,京師以為有神。是歲卒官,百姓市道,莫不咨嗟流涕。渙喪西歸,道經弘 農,民庶皆設般木案於路,吏問其故,鹹言:「平常持米到雒,為吏卒所鈔,恆亡其半, 自王君在事,不見侵枉,故來報恩。」雒陽民為立祠、作詩,每祭,輒弦歌而薦之。太 後詔曰:「夫忠良之吏,國家之所以為治也,求之甚勤,得之至寡,今以渙子石為郎中, 以勸勞勤。」

北匈奴は、敦煌に貢献した。北単于の子を、後漢に差し出したい。鄧太后は答えず、ふたたび加賜しただけ。
雒陽令する廣漢の王渙は、居身が平正だ。そとに猛政、うちに慈仁だ。人民にしたわれて、京師で神とされた。在官のまま、死んだ。百姓は、みな言った。「米を納めても、吏卒に半分ぬすまれる。だが王渙がいれば、吏卒はピンハネしない」と。雒陽の民は、王渙の祠を立てた。鄧太后は詔して、王渙をほめた。王渙の子・王石を、郎中とした。101227

美談だが。後漢のピークの下で、すでに、こんな不正が起きていたことを示す。けっきょく後漢は、太守が百姓から金をとりすぎたせいで、傾く。きざしは、すでにある。