153年、桓帝が梁冀に逆らい、朱穆を罰す
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
153年春夏、鴻池にゆき、永興と改元す
春,三月,丁亥,帝幸鴻池。
夏,四月,丙申,赦天下,改元。 丁酉,濟南悼王廣薨;無子,國除。
153年春3月丁亥、桓帝は鴻池にゆく。
153年夏4月丙申、天下を赦した。永興と改元した。4月丁酉、濟南悼の王劉廣が薨じた。子なし。國を除く。
153年、朱穆が、趙忠の父の死体を暴く
153年秋7月、32の郡國でイナゴ。黄河が溢れた。百姓は、数十万戸が、飢えて流れた。冀州が、もっとも甚い。
侍御史の硃穆を、冀州刺史とした。冀州にある県の令長は、朱穆が黄河をわたると聞く。40余人が、印綬を解いて退職した。朱穆は、冀州の貪汚な役人をさばく。役人は、自殺や獄死した。
宦官の趙忠は、父が死んだ。安平に葬る。趙忠は僭越にも、父を玉匣に入れた。朱穆は、趙忠の父の、死体をあばいた。桓帝は大怒した。朱穆を廷尉にわたし、左校とした。
胡三省はいう。趙忠は、玉匣をつかった罪がある。朱穆は、墓をあばいた罪がある。バカな桓帝は、趙忠と朱穆、どちらが悪いが、判断できない。
賢はいう。左校とは、部署の名だ。将作に属す。左工の徒をつかさどる。
太学の書生である、潁川の劉陶ら数千人は、朱穆の判決に抗議した。「宦官の父兄や子弟は、州郡で民を苦しめている。朱穆を罰すれば、天下が治まらない。私(劉陶)の顔面に入墨していいから、朱穆をゆるせ。朱穆に、左校なんて仕事をさせるな」と。桓帝は、朱穆をゆるした。
かつては、梁冀と桓帝が合わさり、劉蒜に対抗した。すでに劉蒜は滅びた。派閥争いは、つねに勝者の内輪で、くり返される。
ところで。ふつうに左校を勤めている人、かわいそうに。笑
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
「左校」について、誤解があるんじゃないでしょうか。朱穆が左校送りになって劉陶がいちゃもんつけて自分が代わるとまで言い出すのは、左校送りとは刑徒ということだからです。左校という官職についたのではなく、左校が管轄する刑徒にされたということです。(引用おわり) T_Sさん、いつもありがとうございます。
153年冬、武陵蛮と 車師後部がそむく
武陵蠻詹山等反,武陵太守汝南應奉招降之。
153年冬10月、太尉の袁湯をやめた。太常の胡広を、太尉とした。司徒の呉雄と、司空の趙戒をやめた。太僕の黄瓊を司徒とした。光禄勲の房植を、司空とした。
武陵蠻の詹山らが、反した。武陵太守する汝南の應奉は、武陵蠻を招いて降した。
車師後部王の阿羅多と、戊部候の嚴皓は、仲がわるい。
ぼくは補う。異民族のトップと、その異民族を統治する漢人が、不仲なのだ。
阿羅多は、嚴皓の屯田をかこい、吏士を殺傷した。後部侯の炭遮領らは、阿羅多にそむき、後漢にくだる。阿羅多が迫ったので、炭遮領は北匈奴に逃げた。
敦煌太守の宋亮は、阿羅多を王位から降ろした。阿羅多はこまり、戊校尉の閻詳に降った。後漢は、阿羅多を王にもどした。阿羅多に、300戸を与えた。
ぼくは補う。阿羅多は後漢に叛き、王位をはずされた。後漢は、別の王を立てた。阿羅多は後漢に降り、王位に戻れた。世話ない。後漢の西域支配は、うまくいっている。支配というより、調停役というべきか。