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『晋書』列傳59「忠義」
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4)劉備をかすった嵇含
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嵇含
含字君道。祖喜,徐州刺史。父蕃,太子舍人。含好學能屬文。家在鞏縣亳丘,自號亳丘子,門曰歸厚之門,室曰慎終之室。楚王瑋辟為掾。瑋誅,坐免。舉秀才,除郎中。
嵇含は、あざなを君道という。祖父の嵇喜は、徐州刺史だった。父の嵇蕃は、太子舍人だった。
嵇含は學を好み、文を綴るのが上手かった。家は鞏縣の亳丘にあったから、自分のことを「亳丘子」と号し、門を「歸厚之門」と名づけて、室を「慎終之室」と名づけた。
楚王の司馬瑋に招かれて、その掾となった。司馬瑋が誅されると、連座で罷免された。秀才の科目で推挙され、郎中となった。
時弘農王粹以貴公子尚主,館宇甚盛,圖莊周於室,廣集朝士,使含為之贊。含援筆為吊文,文不加點。 其序曰:「帝婿王弘遠華池豐屋,廣延賢彥,圖莊生垂綸之象,記先達辭聘之事,畫真人于刻桷之室,載退士於進趣之堂,可謂托非其所,可吊不可贊也。」其辭曰:「邁矣莊周,天縱特放,大塊授其生,自然資其量,器虛神清,窮玄極曠。人偽俗季,真風既散,野無訟屈之聲,朝有爭寵之歎,上下相陵,長幼失貫,於是借玄虛以助溺,引道德以自獎,戶詠恬曠之辭,家畫老莊之象。今王生沈淪名利,身尚帝女,連耀三光,有出無處,池非岩石之溜,宅非茅茨之宇,馳屈產於皇衢,畫茲象其焉取!嗟乎先生,高跡何局!生處岩岫之居,死寄雕楹之屋,托非其所,沒有餘辱,悼大道之湮晦,遂含悲而吐曲。」粹有愧色。
弘農王の司馬粹が、身分の高い名士の師弟を囲って楽しんだ。館宇(屋敷)は大賑わいとなり、圖莊は室を取り囲んだ。朝士を広く集め、司馬粹は嵇含に贊を書かせた。嵇含は筆を手にして吊文を作成した。文には点を加えなかった。その序に曰く、
「皇室の婿王は、馬鹿騒ぎをしている。先達・真人・退士(いずれも優れた人物)が創作したのと同じものを、あなたのために書くことは出来ない。吊文なら書いてもいいが、贊を書けるわけない」
〈訳注〉「吊」は「弔」に通じる。めでたい賛辞ではなく、お悔やみぐらいなら書いてやるよ!という皮肉な諫言だろうか。
その
辭曰く「(訳を省略。大意は、あなたは贅沢をするから、私は世の乱れを嘆いています。めでたい文章なんて書けません)」
司馬粹は、恥じ入った。
齊王冏辟為征西參軍,襲爵武昌鄉侯。長沙王乂召為驃騎記室督、尚書郎。乂與成都王穎交戰,穎軍轉盛,尚書郎旦出督戰,夜還理事。含言於乂曰:「昔魏武每有軍事,增置掾屬。青龍二年,尚書令陳矯以有軍務,亦奏增郎。今奸逆四逼,王路擁塞,倒懸之急,不復過此。但居曹理事,尚須增郎,況今都官中騎三曹晝出督戰,夜還理事,一人兩役,內外廢乏。含謂今有十萬人,都督各有主帥,推轂授綏,委付大將,不宜複令台僚雜與其間。」乂從之,乃增郎及令史。
齊王の司馬冏に召されて、嵇含は征西參軍になった。武昌鄉侯の爵位を継いだ。
長沙王の司馬乂に召されて、驃騎記室督、尚書郎となった。司馬乂と成都王の司馬穎が開戦すると、司馬穎の軍は転じて強盛となった。司馬乂側の尚書郎として、嵇含は朝から出勤して督戰し、夜に自宅で決裁を行なうほど忙しくなった。
嵇含は司馬乂に言った。
「むかし魏武(曹操)は、軍事行動があるたび、掾屬を増員しました。青龍二(234)年、尚書令の陳矯は軍務で忙しいから、郎の増員を奏上しました。いま奸逆(司馬頴)が四方から迫っており、王路は擁塞し、倒懸之急です。これ以上にひどい状態はありません。いま書類を裁くために曹理事がいるだけで、人手不足です。どうか郎を増員下さいませ。 いま洛陽の官では、中騎三曹が督戰のために外出して、夜に帰還してから事務作業をしています。1人で2役をやっていて、内外は廢乏しています。いま味方は10万人います。それぞれの隊の長官を都督し、轂を推し綏を授け、大將に権限委譲をして下さい。軍を動かすときに、官僚を雑多な業務で忙殺するのは良くありません」
司馬乂はこの提案を容れて、郎および令史を増員した。
懷帝為撫軍將軍,以含為從事中郎。惠帝北征,轉中書侍郎。及蕩陰之敗,含走歸滎陽。 永興初,除太弟中庶子。西道阻閡,未得應召。范陽王虓為征南將軍,屯許昌,複以含為從事中郎。尋授振威將軍、襄城太守。虓為劉喬所破,含奔鎮南將軍劉弘于襄陽,弘待以上賓之禮。含性通敏,好薦達才賢,常欲崇趙武之諡,加臧文之罪。屬陳敏作亂,江揚震盪,南越險遠,而廣州刺史王毅病卒,弘表含為平越中郎將、廣州刺史、假節。未發,會弘卒,時或欲留含領刑州。含性剛躁,素與弘司馬郭勱有隙,勱疑含將為己害,夜掩殺之,時年四十四。懷帝即位,諡曰憲。
懐帝(司馬熾)が撫軍將軍となると、嵇含を從事中郎とした。
惠帝が北征すると、嵇含は中書侍郎に転じた。蕩陰で敗戦すると、嵇含は逃げて、滎陽に帰った。
〈訳注〉このとき従父の嵇紹が死ぬんだが、嵇含は逃げた。
永興初(304年)、太弟中庶子に任じられた。西道(長安への道)は不通となって、お召しに応じられなかった。 范陽王の司馬虓が征南將軍となり、許昌に駐屯すると、嵇含を從事中郎とした。振威將軍、襄城太守を授かった。
司馬虓が劉喬に破られると、嵇含は逃げて、鎮南將軍の劉弘を襄陽に頼った。劉弘は、賓客の礼以上に嵇含を待遇した。
嵇含の性質は通敏で、才賢に達した人物を推挙することを好んだ。つねに趙武之諡を崇えたいと考え、臧文の罪を加えた。 〈訳注〉「趙武」とは、騎馬民族の戦闘様式を取り入れた戦国時代の王を指すのか?「臧文」って何だろう。
陳敏が叛乱すると、長江流域・揚州は震盪した。南越は險遠な土地で、廣州刺史の王毅は病没している。劉弘は上表して、嵇含を平越中郎將、廣州刺史、假節にするように願った。まだ上表を出す前に、劉弘が死んでしまった。死に際に劉弘は、嵇含を留めて荊州を任せたいと思ったかも知れない。
嵇含の性格は剛躁だから、もとより劉弘の司馬だった郭勱と仲違いした。郭勱は、嵇含が自分を殺しにくると考え、返り討ちに嵇含を掩殺した。享年は44歳。
〈訳注〉劉備が劉表に逃げ込んだとの同じ道順です。もし蔡瑁に殺されていたら、嵇含のような終わりだった。
懷帝が即位すると、「憲」とおくり名された。
次は、嵇氏以外で「忠義」に列伝が立った人たちです。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列傳59「忠義」
1)「忠義」の立伝動機
2)命を救った嵇紹のオーラ
3)嵇紹の血だ、玉衣を洗うな
4)劉備をかすった嵇含
5)司馬冏に周を勧める王豹
6)王豹と司馬冏の死
7)スイートな屍肉の劉沈
8)匈奴の捕虜になったとき
9)子の矢傷を代わりたい
10)きみは義士だなあ!
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