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『晋書』列傳59「忠義」
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3)嵇紹の血だ、玉衣を洗うな
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尋征為禦史中丞,未拜,複為侍中。河間王顒、成都王穎舉兵向京都,以討長沙王乂,大駕次於城東。乂言於眾曰:「今日西討,欲誰為都督乎?」六軍之士皆曰:「願嵇侍中戮力前驅,死猶生也。」遂拜紹使持節、平西將軍。屬乂被執,紹複為侍中。公王以下皆詣鄴謝罪於穎,紹等鹹見廢黜,免為庶人。尋而朝廷複有北征之役,征紹,複其爵位。紹以天子蒙塵,承詔馳詣行在所。值王師敗績于蕩陰,百官及侍衛莫不散潰,唯紹儼然端冕,以身捍衛,兵交禦輦,飛箭雨集,紹遂被害於帝側,血濺禦服,天子深哀歎之。及事定,左右欲浣衣,帝曰:「此嵇侍中血,勿去。」
嵇紹は禦史中丞とされたが、拝命を受けず、再び侍中となった。 河間王の司馬顒と、成都王の司馬穎が挙兵した。彼らは洛陽に兵を向けて、長沙王の司馬乂を討とうとした。恵帝が乗った大駕は、洛陽城の東に行った。司馬乂は、兵たちに言った。 「今日は西方を討つ。誰を都督にしたいか?」
六軍の兵士たちは、みな言った。
「侍中の嵇紹を都督にしてもらえたら、戮力して前驅し、もし死んでも生者と同じように戦いましょう」
ついに嵇紹は使持節を受け取って、平西將軍となった。嵇紹は司馬乂に属したため、司馬乂が負けると捕らえられた。 嵇紹は再び侍中となった。
公王以下が、みなで鄴に赴いて司馬穎に謝罪すると、嵇紹らは廢黜され、罷免されて庶人となった。 朝廷が鄴の司馬頴を北征する戦役を起こすと、嵇紹はもとの爵位に戻った。嵇紹は、恵帝が塵を被っている(充分な護衛がいない)と聞き、詔を承って行在所に駆けつけた。恵帝の軍が司馬頴に蕩陰で戦敗すると、百官および侍衛で散潰しない人はいなかった。しかし嵇紹だけは逃げず、儼然端冕として、身をもって恵帝を兵から守った。 飛箭は雨のように降り注ぎ、嵇紹はついに恵帝のそばで矢に当たった。嵇紹の血濺が皇帝の禦服に付き、恵帝は深く哀んで歎いた。停戦すると、左右の人は衣を洗うことを勧めたが、恵帝は言った。
「これは嵇侍中の血だ。消していけない」
初,紹之行也,侍中秦准謂曰:「今日向難,卿有佳馬否?」紹正色曰:「大駕親征,以正伐逆,理必有征無戰。若使皇輿失守,臣節有在,駿馬何為!」聞者莫不歎息。
はじめ嵇紹が従軍するとき、侍中の秦准が言った。
「今日は困難な戦地に行きます。あなたは性能の良い馬を持っていますか?」
嵇紹は顔つきを正して言った。
「大駕(皇帝)が親征なさり、正義によって悪逆を伐つのだ。道理は必然的に、戦わずして司馬頴を征することにある。万が一にも戦いが起きてしまい、皇帝の輿を守れなければ、臣としての節度を果たす(殉じる)覚悟だ。逃げるための駿馬が、なぜ要るのか!」
嵇紹の言葉を聴いて、嘆息しない人はいなかった。
及張方逼帝遷長安,河間王顒表贈紹司空,進爵為公。會帝還洛陽,事遂未行。東海王越屯許,路經滎陽,過紹墓,哭之悲慟,刊石立碑,又表贈官爵。帝乃遣使冊贈侍中、光祿大夫,加金章紫綬,進爵為侯,賜墓田一頃,客十戶,祠以少牢。元帝為左丞相,承制,以紹死節事重,而贈禮未副勳德,更表贈太尉,祠乙太牢。及帝即位,賜諡曰忠穆,複加太牢之祠。
張方が恵帝を長安に幽閉すると、河間王の司馬顒は上表して、嵇紹に司空を追贈して、爵位を公に進めるように申し出た。しかしすぐに恵帝が洛陽に戻ったから、嵇紹に司空は送られなかった。
東海王の司馬越が許に駐屯するとき、滎陽が通り道だった。嵇紹の墓前を通ったとき、司馬越は嵇紹のために哭いて悲慟した。石に文字を刻んで碑を立て、上表して官爵を贈るように申し出た。恵帝は勅使を遣わして、嵇紹に侍中、光祿大夫を贈り、金章紫綬を加えて、爵位を侯に進めた。墓田を一頃と、客を十戸と与え、祠を少牢とした。
元帝(司馬睿)が左丞相となって、政治を担当すると、嵇紹の死節を重く捉え、禮を贈って勳德を副とせず(嵇紹の忠義に比べると、贈った位がまだ低いと考え)、上表して太尉を追贈して祠乙太牢。元帝が即位すると、嵇紹に諡号を賜って「忠穆」と呼び、太牢之祠を加えた。
紹誕於行己,不飾小節,然曠而有檢,通而不雜。與從子含等五人共居,撫恤如所同生。門人故吏思慕遺愛,行服墓次,畢三年者三十餘人。長子,有父風,早夭。以從孫翰襲封。成帝時追述紹忠,以翰為奉朝請。翰以無兄弟,自表還本宗。太元中,孝武帝詔曰:「褒德顯仁,哲王令典。故太尉、忠穆公執德高邈,在否彌宣,貞潔之風,義著千載。每念其事,愴然傷懷。忠貞之胤,蒸嘗宜遠,所以大明至節,崇獎名教。可訪其宗族,襲爵主祀。」於是複以翰孫曠為弋陽侯。
嵇紹が行己に誕すると、不飾小節だったが、曠じて檢があり、通りは不雜であった。 〈訳注〉
分からない。。棺が帰郷したときの形容?
從子の嵇含ら5人は共にあり、嵇紹の生前と同じように撫恤した。門人や故吏は、嵇紹の遺愛を思慕した。喪服を着て墓に仕え、3年の喪をやったのは30余人だった。 長子の□□は、父に似た風采だったが、早くに夭折した。だから、從孫の嵇翰が封土を継いだ。成帝のとき、紹の忠を見直して、嵇翰を朝廷に招くように提案があった。嵇翰には兄弟がいなかったから、上表して(嵇紹の家ではなく))生家を継いだ。
太元年間、孝武帝は詔した。
「德を褒め、仁を顯し、哲王は令典。故太尉の忠穆公(嵇紹)は、執德高邈、在否彌宣、貞潔之風、義を千載に著した人だった。其事を思うたびに、愴然として傷懷してしまう。忠貞の血種は、遠方まで広めたい。嵇紹の至節を大いに明らかにし、名教を崇獎せよ。嵇紹の一族を探して、嫡流に爵位を継がせよ」
これによって、嵇紹の従孫の嵇翰の孫の嵇曠は弋陽侯となった。
次は、嵇紹の従子の嵇含の列伝です。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列傳59「忠義」
1)「忠義」の立伝動機
2)命を救った嵇紹のオーラ
3)嵇紹の血だ、玉衣を洗うな
4)劉備をかすった嵇含
5)司馬冏に周を勧める王豹
6)王豹と司馬冏の死
7)スイートな屍肉の劉沈
8)匈奴の捕虜になったとき
9)子の矢傷を代わりたい
10)きみは義士だなあ!
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