1)州の変遷のまとめ
三国志のサイトのくせに、とうとう『宋書』に手を出してしまった。。
しかし、『宋書』を読めば、『晋書』ではカバー仕切れていなかった、東晋までの地理状況が一覧できるはず。とくに華南は、孫呉以来の開発の成果が、行政区分に織り込まれている。だから、あながち時代がズレ過ぎではないと思うのです。
そういう理屈づけを抜きにしても、「州郡志」は面白いから、ついやってしまうのです。地図を理解すれば、歴史が分かります。
PS3の『真・三國無双5エンパイアーズ』は、予想外に面白くなくて、数回ほど天下統一したら、飽きてしまった。虎狩でレベル上げする作業が、面倒くさい。制作者の意図どおりに走らされる、奇襲が窮屈だ。半年も発売が延期され、すごく楽しみにさせられたのに。
そのエンパイアーズに対する不満を、『宋書』の読解に差し向けます。
(歪んだ動機だが、真のモチベーションはこっちかも)
「地理志」の前文/州の変遷
唐堯之世,置十有二牧,及禹平水土,更制九州,冀州堯都,土界廣遠,濟、河為兗州,海、岱為青州,海、岱及淮為徐州,淮、海為揚州,荊及衡陽為荊州,荊、河為豫州,華陽、黑水為梁州,黑水、西河為雍州。自虞至殷,無所改變。周氏既有天下,以徐並青,以梁並雍,分冀州之地以為幽、並。漢初又立徐、梁二州。
唐堯の時代に、12の州牧を設置した。禹が治水に成功すると、9州に再編成した。
冀州は堯が都を置いた場所で、土地は広かった。済水と黄河の流域を、兗州とした。海に囲まれた地域を、青州とした。海と淮水
に面した地域を、徐州とした。淮水と海に区切られた地域を、揚州とした。荊と衡陽のあたりを荊州とした。荊と黄河を境界に、豫州とした。華陽と黑水で切って、梁州とした。黑水と黄河の西(上流)で切って、雍州とした。
虞(堯)から殷代まで、9州の地名は改められなかった。
西周が天下を取ると、徐州を青州に併せ、梁州を雍州に併せた。冀州の地域を分けて、幽州と並州を作った。
前漢は、ふたたび徐州と梁州を独立させた。
武帝攘卻胡、越,開地斥境,南置交趾,北置朔方,改雍曰涼,改梁曰益,凡為十三州,而司隸部三輔、三河諸郡。東京無複朔方,改交趾曰交州,凡十二州;司隸所部如故。及三國鼎歭,吳得揚、荊、交三州,蜀得益州,魏氏猶得九焉。吳又分交為廣。魏末平蜀,又分益為梁。
前漢の 武帝が、異民族を討伐して、辺境に中華の領土を広げた。武帝は、南に交趾を置き、北に朔方を置いた。雍州を改称して、涼州とした。梁州を改称して、益州とした。前漢の武帝のとき、全部で13州となった。
しかし首都のある司隸は、三輔、三河諸郡を含み、13州とは別扱いだった。
後漢は朔方をなくし、交趾を交州と改めた。後漢のとき、全部で12州となった。後漢になっても、司隸は前漢と同じく別格だった。
三国が鼎立すると、孫呉は、揚州、荊州、交州の3つを得た。蜀漢は、益州を得た。曹魏は、残りの9州を得た。孫呉は、交州を分けて、広州を作った。魏末に蜀漢を平定したとき、益州を分けて、梁州を作った。
晉武帝太康元年,天下一統,凡十有六州。後又分涼、雍為秦,分荊、揚為江,分益為寧,分幽為平,而為二十矣。
晉の武帝の太康元年、天下を統一したとき、全部で16州あった。
のちに涼州と雍州から出し合って、秦州を作った。荊州と雍州から出し合って、江州を作った。益州を分けて、寧州を作った。幽州を分けて、平州を作った。これで、全部で20州となった。
自夷狄亂華,司、冀、雍、涼、青、並、兗、豫、幽、平諸州一時淪沒,遺民南渡,並僑置牧司,非舊土也。江左又分荊為湘,或離或合,凡有揚、荊、湘、江、梁、益、交、廣,其徐州則有過半,豫州唯得譙城而已。
異民族が中原を乱すと、司、冀、雍、涼、青、並、兗、豫、幽、平の諸州が、奪われてしまった。漢民族は、長江を南へ渡った。
華北にあったのと同じ州名を(東晋領内に)置いたが、今までとは違う土地を指す。
東晋は、荊州を分けて、湘州を作った。東晋の領土は、増えたり減ったりするけれども、だいたい揚、荊、湘、江、梁、益、交、廣州を支配した。他に、徐州は過半を、豫州は譙城だけが、東晋に帰属した。
及至宋世,分揚州為南徐,徐州為南兗,揚州之江西悉屬豫州;分荊為雍,分荊、湘為郢,分荊為司,分廣為越,分青為冀,分梁為南北秦。太宗初,索虜南侵,青、冀、徐、兗及豫州淮西,並皆不守;自淮以北,化成虜庭。於是于鐘離置徐州,淮陰為北兗,而青、冀二州治贛榆之縣。
劉宋の時代になると、揚州を分けて南徐州を作った。徐州を分けて、南兗州を作った。揚州のうち、長江の西側は、全て豫州と呼ぶことにした。荊州を分けて、雍州を作った。荊州と湘州から出し合って、郢州を作った。荊州を分けて、司州を作った。廣州を分けて、越州を作った。青州を分けて、冀州を作った。梁州を分けて、南秦州と北秦州を作った。
太宗の初め、華北の異民族(北魏)が南に攻めてきた。青州、冀州、徐州、兗州と、豫州の淮水より西を、劉宋は守ることができなかった。淮水から北は、北魏の領土となった。
劉宋の領土が小さくなったので、鐘離郡に徐州を置き、淮陰郡に北兗州を置いた。だが青州と冀州の2つは、置き場所がなかった。
「地理志」の凡例
今志大較以大明八年為正,其後分派,隨事記列。內史、侯、相,則以升明末為定焉。
地理參差,其詳難舉,實由名號驟易,境土屢分,或一郡一縣,割成四五;四五之中,亟有離合,千回百改,巧曆不算,尋校推求,未易精悉。今以班固馬彪二志、太康元康定戶、王隱《地道》、晉世《起居》、《永初郡國》、何徐《州郡》及地理雜書,互相考覆。
いま大明八年(464)を基準にして、「地理志」を記す。これ以後の地名変更は、随時で個別に書くことにする。地方に設置された、内史、侯、相は、升明年間の末年を基準とする。
地理の変遷は、それぞれバラバラで複雑で、整理するのが難しい。行政区分は、くっついたり離れたりして、「千回百改」というありさまだ。
グチっても仕方ないから、とりあえず今は、
班固と司馬彪の二志、太康元康定戶、王隱『地道』、晉世『起居』、『永初郡國』、何徐『州郡』およびその他の本などを参考とする。
且三國無志,事出帝紀,雖立郡時見,而置縣不書。今唯以《續漢郡國》校《太康地志》,參伍異同,用相征驗。自漢至宋,郡縣無移改者,則注雲「漢舊」,其有回徙,隨源甄別。若唯雲「某無」者,則此前皆有也。若不注置立,史闕也。
陳寿の『三国志』には、地理志がないから、帝紀からピックアップするしかない。郡が作られると、帝紀に載るけれども、県が作られても『三国志』の帝紀に載らない。だから、三国時代の県について漏れがあるかもね。
ただ『續漢郡國』を元にして、『太康地志』を検討して、異同があれば、どちらが正しいかを検討する。
漢代から宋代まで、郡縣で変更がなければ、「漢舊」と書きますよ。もし変更があれば、その内容を個別に書きますよ。「某無」とだけ書くのは、すでに前段までに、書きたいことが書き終わっているという意味ですよ。郡県の設置について、私がコメントしていないのは、記録がないときですよ。
次回、本文の始まりです。揚州から始まります。さすが南朝だ。