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7)荊州、郢州、湘州

『宋書』の後半です。
三国が取り合った荊州は、東晋な劉宋でも、区画が定まりません。今回は荊州とその子供たちについて。

分割されまくった荊州

荊州刺史,漢治武陵漢壽,魏、晉治江陵,王敦治武昌,陶侃前治沔陽,後治武昌,王暠治江陵,庾亮治武昌,庾翼進襄陽,複還夏口;桓溫治江陵,桓沖治上明,王忱還江陵,此後遂治江陵。

荊州刺史について。
漢代は、州治は武陵郡の漢壽だった。魏晉代には、州治は江陵だった。王敦は、州治を武昌に置いた。陶侃は、はじめ沔陽で荊州を治め、のちに武昌で治めた。
王暠は江陵で治め、庾亮は武昌で荊州を治めた。庾翼は、襄陽に北進したが、夏口に戻った。
桓温は江陵で治め、桓沖は上明で治め、王忱は江陵に戻り、そのあとはずっと江陵に州治が置かれた。

宋初領郡三十一,後分南陽、順陽、襄陽、新野、竟陵為雍州;湘川十郡為湘州,江夏、武陵屬郢州,隨郡、義陽屬司州,北義陽省,凡餘十一郡。文帝世,又立宋安左郡,領拓邊、綏慕、樂寧、慕化、仰澤、革音、歸德七縣,後省改。汶陽郡又度屬。今領郡十二,縣四十八,戶六萬五千六百四。去京都水三千三百八十。

劉宋の初め、荊州は31郡だった。のちに、南陽、順陽、襄陽、新野、竟陵を分けて、雍州を作った。

後漢の荊州のうち、曹魏が治めた北部が、ニセ「雍州」になった。

湘川の流域の10郡を、湘州とした。江夏郡と武陵郡は、郢州に属した。隨郡と義陽郡は、司州に属した。北義陽郡を省き、荊州は全部で11郡となった。
劉宋の文帝のとき、宋安左郡を立てた。宋安左郡は、拓邊、綏慕、樂寧、慕化、仰澤、革音、歸德の7県を治めた。のちに省いて改めた。汶陽郡又度屬。
今領郡十二,縣四十八,戶六萬五千六百四。去京都水三千三百八十。

荊州には、南郡太守、南平内史、天門太守、宜都太守、巴東公相、汶陽太守、南義陽太守、新興太守、南河東太守、建平太守、永甯太守がある。

後漢の荊州より、西に北に広いのか?
地名と実際の土地が一致しないから、わけがわからん。。

荊州の南をごっそり、郢州

郢州刺史,魏文帝黃初三年,以荊州江北諸郡為郢州,其年罷並荊,非今地。吳又立郢州。孝武孝建元年,分荊州之江夏、竟陵、隨、武陵、天門,湘州之巴陵,江州之武昌,豫州之西陽,又以南郡之州陵、監利二縣度屬巴陵,立郢州。天門後還荊。領郡六,縣三十九,戶二萬九千四百六十九,口十五萬八千五百八十七。去京都水二千一百。

郢州刺史は、魏文帝の黄初三年、荊州の江北諸郡を郢州としたのが始まりだ。その年のうちに廃止した。劉宋の郢州とは、違う土地である。
孫呉も、郢州を立てた。

名前だけは、三国時代にあった。

劉宋の孝武の孝建元年、荊州の江夏、竟陵、隨、武陵、天門郡と、湘州の巴陵郡と、江州の武昌郡と、豫州の西陽郡と、南郡の州陵県と監利県を巴陵郡に移して、郢州を立てた。天門郡は、後に荊州に戻された。
領郡六,縣三十九,戶二萬九千四百六十九,口十五萬八千五百八十七。去京都水二千一百。

後漢の荊州の南部をごっそり切り取ったようだ。荊州が北への拡大を指向したので、南を郢州と名づけ換えたのかな。

しょっちゅう省かれる、湘州

湘州刺史,晉懷帝永嘉元年,分荊州之長沙、衡陽、湘東、邵陵、零陵、營陽、建昌,江州之桂陽八郡立,治臨湘。成帝鹹和三年省。安帝義熙八年複立,十二年又省。宋武帝永初三年又立,文帝元嘉八年省;十六年又立,二十九年又省。孝武孝建元年又立。建昌郡,晉惠帝元康九年,分長沙東北下雋諸縣立,成帝咸康元年省。元嘉十六年,立巴陵郡屬湘州,後度郢。領郡十,縣六十二,戶四萬五千八十九,口三十五萬七千五百七十二。去京都水三千三百。

湘州刺史について。晉の懷帝の永嘉元年、荊州の長沙、衡陽、湘東、邵陵、零陵、營陽、建昌郡を分けて、江州の桂陽郡の合計8郡を分けて、湘州を立てた。州治は、臨湘である。
東晋の成帝の鹹和三(328)年、湘州は省かれた。安帝の義熙八(412)年、ふたたび立てられた。十二(416)年、ふたたび湘州が省かれた。
宋武帝永初三(422)年、また湘州を立てた。文帝元嘉八(427)年、省かれた省。十六年又立,二十九年又省。孝武孝建元年又立。
建昌郡は、西晋の惠帝元康九(299)年、長沙郡の東北の下雋に諸縣を立てた。東晋の成帝の咸康元(335)年、省かれた。元嘉十六(435)年、巴陵郡を立てて、湘州に属させて、のちに郢州に属させた。
領郡十,縣六十二,戶四萬五千八十九,口三十五萬七千五百七十二。去京都水三千三百。

後漢の荊州について

翻訳から脱線しますが。
郢州も湘州も、荊州の特定の部分を切り取り、新たに作られたわけではなさそう。開拓に成功したのではない。
荊州北部、例えば襄陽とか江陵とかでは、中原からの移民を受け入れた。もともとの荊州は、中華の北西部を引き受けたために、もとの「荊州」のままではいられなくなった。もっと公共性の高い地域になった。

荊州とは「イバラのくに」である。中原の真南にある広大なフロンティアとして、荊州はあった。その荊州の性格が失われた。元の荊州の代替として、郢州や湘州のように、元の荊州の中南部を別の名前で呼び換えて、「イバラのくに」のニュアンスを保たせた。
徐州や青州は北からスライドしてきた。荊州は、土地そのものは動く必要はなかったが、下ってきた中原地域の住民に席を譲って、やはり南に押し下げられた。・・・のかな?