表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』州郡志を抄訳、勢力地図を楽しむ

9)益・甯州、廣・交・越州

最後は、使い物にならない遠方です。

愛情の微塵もない、益州

益州刺史,漢武帝分梁州立,所治別見梁州,領郡二十九,縣一百二十八,戶五萬三千一百四十一,口二十四萬八千二百九十三。去京都水九千九百七十。

益州刺史は、漢の武帝が梁州を分けて立てた。州治については、梁州のところで書いた。
領郡二十九,縣一百二十八,戶五萬三千一百四十一,口二十四萬八千二百九十三。去京都水九千九百七十。

これだけかよ!!

幻の「安州」独立、寧州

甯州刺史,晉武帝太始七年分益州南中之建甯、興古、雲南、永昌四郡立。太康三年省,立南夷校尉。惠帝太安二年複立,增牂牁、越巂、硃提三郡。成帝咸康四年,分牂牁、夜郎、硃提、越巂四郡為安州,尋罷並寧州。越巂複還益州。今領郡十五,縣八十一,戶一萬二百五十三。去京都一萬三千三百。

甯州刺史は、西晋の武帝の太始七年に、益州の南中にある、建甯、興古、雲南、永昌の4郡を分けて立てた。太康三年、省かれて、南夷校尉が立てられた。西晋の惠帝の太安二年、ふたたび立てられた。牂牁、越巂、硃提の3郡が加えられた。
東晋の成帝の咸康四年、牂牁、夜郎、硃提、越巂の4郡を分けて、安州とした。辞めて、安州は寧州に合わせられた。

後漢の益州を、ダルマ落しみたいに4分割して、上から、梁州、益州、安州、寧州と並べたと思えば、ほぼ地理の理解が正しい。

越巂郡は、益州に戻された。
今領郡十五,縣八十一,戶一萬二百五十三。去京都一萬三千三百。

孫休が立てた、広州

廣州刺史,吳孫休永安七年,分交州立。領郡十七,縣一百三十六,戶四萬九千七百二十六,口二十萬六千六百九十四。去京都水五千二百。

廣州刺史は、孫呉の孫休が永安七年に、交州から分けて立てた。

分けても分けなくても「コウシュウ」だ。意地悪である。

領郡十七,縣一百三十六,戶四萬九千七百二十六,口二十萬六千六百九十四。去京都水五千二百。

・・・広州には、漢族の支配が及んでいたのか?と疑問なので、17の郡を名前と由来だけでも並べておきます。
南海太守は、秦が立てた。蒼梧太守は、前漢の武帝が立てた。
晉康太守、新甯太守、永平太守は、東晋の穆帝が、蒼梧郡から分けて作った。

穆帝のとき、南に進出&充実させた。

郁林太守は、劉裕が荊州の桂林郡から分けた。桂林太守は、孫皓が立てた。高涼太守は、孫権が合浦郡から分けた。
新會太守は、東晋の恭帝が南海郡から分けた。東官太守は、東晋の成帝が立てた。義安太守は、東晋の安帝が立てた。宋康太守と綏建太守と海昌太守と宋熙太守は、劉宋の文帝が立てた。

僑立を促進したのも、劉宋の文帝。この人は、南朝の基礎を作った人だ。天下統一を、積極的に諦めた人だ。画期だ。

甯浦太守は、孫呉か西晋が立てた。

東晋の穆帝と、劉宋の文帝のときにヤマがあるが、だいたい均等に郡が新設されたようで。漢族の支配が進んでいた証拠と言って良いはず。

州を立てたのは曹操、交州刺史

交州刺史,漢武帝元鼎六年開百越,交趾刺史治龍編。漢獻帝建安八年,改曰交州,治蒼梧廣信縣;十六年,徙治南海番禺縣。及分為廣州,治番禺。交州還治龍編。領郡八,縣五十三,戶一萬四百五十三。去京都水一萬。

交州刺史について。前漢の武帝の元鼎六年、百越の地域を開拓して、交趾刺史を置いた。州治は龍編だった。
後漢の獻帝の建安八年、交州と改めた。

曹操のしわざ!

州治は、蒼梧郡の廣信縣に置かれた。建安十六年、州治を南海郡の番禺縣に移した。
広州を分割したとき、交州の州治は番禺だった。交州は、州治をふたたび龍編に戻した。
領郡八,縣五十三,戶一萬四百五十三。去京都水一萬。

やる気ゼロの、越州

越州刺史,明帝泰始七年立。

越州刺史は、明帝泰始七(471)年に立てられた。

配下にある県も、ほぼ新設でした。
南端にある合浦郡が、前漢の武帝からの伝統を引くだけ。

おわりに

当たり前ですが、つくづく南朝の正史なんだな、と思いました。
北方は、劉宋にとって外国だから、アホみたいに手薄。南方については、僑立の過程がメインテーマだった。漫才風に言うなら、
「僑立という言葉だけでも、覚えて帰って下さいね」
という抄訳の仕事でございました。初めての『宋書』はおしまい。090830