表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』州郡志を抄訳、勢力地図を楽しむ

4)南徐州、徐州、南兗州、兗州

揚州だけでも、すごく長かった。先行きが不安ですが・・・

淮水の北側、南徐州

南徐州刺史,晉永嘉大亂,幽、冀、青、並、兗州及徐州之淮北流民,相率過淮,亦有過江在晉陵郡界者。晉成帝鹹和四年,司空郗鑒又徙流民之在淮南者于晉陵諸縣,其徙過江南及留在江北者,並立僑郡縣以司牧之。徐、兗二州或治江北,江北又僑立幽、冀、青、並四州。安帝義熙七年,始分淮北為北徐,淮南猶為徐州。後又以幽、冀合徐,青、併合兗。

南徐州刺史について。西晋の永嘉の大亂で、幽、冀、青、並、兗州と、徐州の淮水より北の住民が、淮水を渡って南方に流れてきた。長江を渡り、晉陵郡との境界まで、南下する人もいた。
東晋の成帝の鹹和四年、司空の郗鑒は、淮南に避難している人を、晉陵郡の諸県に移した。長江を渡った人と、長江の北に留まっている人は、現地の役人に管理させた。
徐州と兗州の2つは、東晋が領土に回復することもあった。だが領土の回復が絶望的な、幽、冀、青、並の4州は、成帝のとき長江の北に、地名を僑立した。

徐州と兗州は、すぐには僑立しなかった。僑立の進捗によって、どれだけ王朝が華北回復を狙っているか分かるね。

東晋の安帝の義熙七年、はじめて淮北郡を分けて、北徐州を置いた。揚州の淮南郡を、徐州とした。のちに、幽州と冀州を合わせ、徐州とした。徐州と青州を併せて、兗州とした。

武帝永初二年,加徐州曰南徐,而淮北但曰徐。文帝元嘉八年,更以江北為南兗州,江南為南徐州,治京口,割揚州之晉陵、兗州之九郡僑在江南者屬焉,故南徐州備有徐、兗、幽、冀、青、並、揚七州郡邑。《永初二年郡國志》又有南沛、南下邳、廣平、廣陵、盱眙、鐘離、海陵、山陽八郡。南沛、廣陵、海陵、山陽、盱眙、鐘離割屬南兗,南下邳並南彭城,廣平並南泰山。今領郡十七,縣六十三,戶七萬二千四百七十二,口四十二萬六百四十。去京都水二百四十,陸二百。

武帝永初二(421)年、徐州を「南徐州」と言い、淮北郡をただ「徐州」と言った。文帝元嘉八年、さらに江北郡を「南兗州」と言い、江南を「南徐州」と言った。治所は京口である。揚州の晉陵郡と、兗州の9郡を切り取って、長江の南にいる人を移住させた。
ゆえに南徐州には、徐、兗、幽、冀、青、並、揚の7つの州の名を持つ郡邑があった。

劉宋は、東晋よりさらにいっそう、華北を決定的に諦めた、拗ねた王朝だという印象です。もう本貫を取り戻せないから、小細工で悲しさを紛らわしている。劉宋に正統はないよ!

《永初二年郡國志》によれば、南徐州には、南沛、南下邳、廣平、廣陵、盱眙、鐘離、海陵、山陽の8郡がある。南沛、廣陵、海陵、山陽、盱眙、鐘離は、南兗州に割譲した。南下邳は、南彭城に併せた。廣平は南泰山に併せた。
今領郡十七,縣六十三,戶七萬二千四百七十二,口四十二萬六百四十。去京都水二百四十,陸二百。

◆南東海郡
南東海太守東海郡別見,晉元帝初,割吳郡海虞縣之北境為東海郡,立郯、朐、利城三縣,而祝其、襄賁等縣寄治曲阿。穆帝永和中,郡移出京口,郯等三縣亦寄治於京。文帝元嘉八年立南徐,以東海為治下郡,以丹徒屬焉。郯、利城並為實土。《永初郡國》有襄賁別見、祝其、厚丘並漢舊名、西隰何江左立四縣,文帝元嘉十二年,省厚丘並襄賁。何、徐無厚丘,餘與《永初郡國》同。其襄賁、祝其、西隰,是徐志後所省也。領縣六,戶五千三百四十二,口三萬三千六百五十八。

南東海太守は、東海郡とはちがう。東晋の元帝の初め、呉郡の海虞県の北境を割いて、東海郡とした。郯、朐、利城の3県を東海郡の下に作った。しかし祝其県や襄賁県は、東海郡ではなく曲阿の管轄だった。
東晋の穆帝の永和中、郡治は京口に移された。郯県など3県の住民は、移住した。
宋の文帝の元嘉八(431)年、南徐州が立てられると、東海郡の治所は郡からランクダウンされ、丹徒郡に属した。(後略)
領縣六,戶五千三百四十二,口三萬三千六百五十八。

疲れてきたので、郡まで突っ込んで訳すのは、もうやめました。もう州だけで。途中で飽きてしまうより、よほどいいと思うので。

北魏に押し下げられた、徐州

徐州刺史,後漢治東海郯縣,魏、晉、宋治彭城。明帝世,淮北沒寇,僑立徐州,治鐘離。泰豫元年,移治東海朐。後廢帝元徽元年,分南兗州之鐘離、豫州之馬頭,又分秦郡之頓丘、梁郡之穀熟、曆陽之酂,立新昌郡,置徐州,還治鐘離。今先列徐州舊郡於前,以新割系。舊領郡十二,縣三十四。戶二萬三千四百八十五,口十七萬五千九百六十七。今領郡三,縣九。彭城去京都水一千三百六十,陸一千。

徐州は、後漢では東海郡の郯県が治所だった。魏晉宋のとき、彭城郡が治所となった。
宋の明帝のとき、淮水より北が北魏に占領された。そこで南に、徐州を僑立した。治所は鐘離である。
泰豫元(472)年、徐州の治所は、東海郡の朐県に移された。
後廢帝の元徽元(473)年、新昌郡を作った。新昌郡を作るために、南兗州の鐘離郡と、豫州の馬頭郡を分け、さらに秦郡の頓丘郡と、梁郡の穀熟郡と、歴陽郡の酂県を分けた。新昌郡は、徐州に置かれた。徐州の治所は、鐘離に戻された。
いま徐州の以前の郡を並べ、再編成後のときの追加分も書いておく。旧領では、郡十二,縣三十四。戶二萬三千四百八十五,口十七萬五千九百六十七。今領では、郡三,縣九。彭城去京都水一千三百六十,陸一千。

孫呉では、張昭や魯粛や諸葛氏など、徐州出身の人が、発言力を持つ。
東晋では、北府が重要なキーを握る。後漢の徐州の南半分は、独立して自我を持ちやすい地域?

広陵が州治、南兗州

南兗州刺史,中原亂,北州流民多南渡,晉成帝立南兗州,寄治京口。時又立南青州及並州,武帝永初元年,省並並南兗。文帝元嘉八年,始割江淮間為境,治廣陵。《永初郡國》領十四郡。南高平、南平昌、南濟陰、南濮陽、南泰山、濟陽、南魯山郡,今並屬徐州。又有東燕郡,江左分濮陽所立也,領燕縣前漢曰南燕,後漢曰燕,並屬東郡。(中略)
徐志領郡九,縣三十九,戶三萬一千一百一十五,口十五萬九千三百六十二。宋末領郡十一,縣四十四。去京都水二百五十,陸一百八十。

南兗州刺史について。中原が乱れると、北にある州の流民が多く南下した。東晉の成帝は、南兗州を立てて、州治は置かずに、まとめて京口が管轄した。
南青州と並州も立てた。
武帝の永初元(420)年、並州と南兗州を省いた。文帝の元嘉八(431)年、はじめて長江と淮水の間に境界線を作り、治所を廣陵郡とした。『永初郡國』によれば、南兗州は14郡を含む。南高平、南平昌、南濟陰、南濮陽、南泰山、濟陽、南魯山郡は、いまは徐州に含ませる。東燕郡は、東晋が濮陽郡を分けて、作ったものだ。南兗州が領する燕縣は、前漢では「南燕」といい、後漢では「燕」と言った場所で、東郡に含ませる。(以下略)

この続きで、後漢と劉宋との関係が解説されています。土地とは無関係に、ちめいの話なんで、むなしいだけ、、

徐志領郡九,縣三十九,戶三萬一千一百一十五,口十五萬九千三百六十二。宋末領郡十一,縣四十四。去京都水二百五十,陸一百八十。

失われた土地、兗州

兗州刺史,後漢治山陽昌邑,魏、晉治廩丘;武帝平河南,治滑台;文帝元嘉十三年,治鄒山,又寄治彭城。二十年,省兗州,分郡屬徐、冀州。三十年六月複立,治瑕丘。二漢山陽有瑕丘縣。《永初郡國》有東郡、陳留、濮陽三郡,而無陽平。東郡領白馬別見、涼城二漢東郡有聊城縣,《晉太康地志》無,疑此是。、東燕別見三縣。陳留郡領酸棗漢舊縣、小黃、雍丘、白馬、襄邑、尉氏六縣。郡縣並別見。濮陽郡領濮陽、廩丘並別見二縣。宋末失淮北,僑立兗州,寄治淮陰淮陰別見。兗州領郡六,縣三十一,戶二萬九千三百四十,口一十四萬五千五百八十一。

兗州刺史は、後漢のとき、州治は山陽郡の昌邑県だった。魏晉のとき、州治は廩丘だった。

意味がある兗州の話は、ここまで。あとは地名だけ。

劉宋の武帝が河南を平定すると、州治を滑台とした。文帝の元嘉十三(436)年、州治は鄒山となり、彭城がまとめて管轄した。二十(443)年、省兗州を省いて、徐州と冀州がそれぞれ引き取った。(中略)
兗州領郡六,縣三十一,戶二萬九千三百四十,口一十四萬五千五百八十一。・・・州郡志一はここまで。