表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』州郡志を抄訳、勢力地図を楽しむ

6)青州、冀州、司州

後漢と比べて、劉宋の州が増えているとき、理由が2つある。
まずは江南の開発が進んだから。つぎに、華北の地名を移したから。劉宋で目立つのは、後者です。

斉の桓公が泣くよ、青州

青州刺史,治臨淄。江左僑立,治廣陵。安帝義熙五年,平廣固,北青州刺史治東陽城,而僑立南青州如故。後省南青州,而北青州直曰青州。孝武孝建二年,移治曆城。大明八年,還治東陽。明帝失淮北,于鬱洲僑立青州,立齊、北海、西海郡。舊州領郡九,縣四十六,戶四萬五百四,口四十萬二千七百二十九。去京都陸二千。

青州刺史は、州治は臨淄である。東晋が僑立した青州では、州治は廣陵である。
東晋の安帝の義熙五年、廣固を平定し、北青州刺史を置いた。北青州は、州治は東陽城である。僑立した南青州は、もとのままとされた。
のちに南青州を省いたから、北青州はただ「青州」と呼ばれた。
東晋の孝武の孝建二年、青州は州治を曆城に移した。大明八年、東陽に戻された。
劉宋の明帝が淮水の北を失うと、鬱洲に青州を僑立した。青州には、齊、北海、西海郡が置かれた。
舊州領郡九,縣四十六,戶四萬五百四,口四十萬二千七百二十九。去京都陸二千。

春秋戦国の斉国の伝統をくむ青州が、記述がこれだけどはね。

中華の中心地のはず、冀州

冀州刺史,江左立南冀州,後省。義熙中更立,治青州,又省。文帝元嘉九年,又分青州立,治曆城,割土置郡縣。領郡九,縣五十,戶三萬八千七十六,口一十八萬一千一。去京都陸二千四百。

冀州刺史について。東晋が南冀州を立てて、のちに省いた。義熙年間にふたたび立てられ、州治は青州。また省かれた。文帝の元嘉九年、ふたたび青州から切り分けられ、州治は曆城だった。土地を割いて、郡縣を置いた。
領郡九,縣五十,戶三萬八千七十六,口一十八萬一千一。去京都陸二千四百。

なんだこれ。見る影もないよ。古代の王の話は、引用なし?

号令をかけるだけの司州

司州刺史,漢之司隸校尉也。晉江左以來,淪沒戎寇,雖永和、太元王化暫及,太和、隆安還複湮陷。牧司之任,示舉大綱而已。縣邑戶口,不可具知。

司州刺史は、漢の司隸校尉である。
東晋では、胡族に占領された。永和(桓温のとき)と、太元(前秦分裂のとき)、東晋の支配が及んだ。だが、太和と隆安のとき、胡族の手に戻った。
東晋が洛陽を回復したときでも、司州の仕事は、大綱を挙げるだけである。邑数、戸数、人口は、よく分からない。

武帝北平關、洛,河南底定,置司州刺史,治虎牢,領河南漢舊郡、滎陽晉武帝泰始元年,分河南立。、弘農漢舊郡實土三郡。(中略) 三郡合二十七縣,一萬六千三百六戶。(後略)

劉宋の武帝(劉裕)が北伐して、洛水の流域や河南を平定すると、司州刺史を置いた。州治は、虎牢である。

劉裕は長安を得たことが印象深いが、洛陽を抑えている。

司州が領したのは、まず河南郡だ。河南郡は、漢代のままのである。つぎに滎陽郡。滎陽郡は、西晋の武帝の泰始元年、河南郡から分けて立てられた。つぎに弘農郡。これは漢代からある郡である。以上の3郡が、司州の配下である 。(中略)三郡合二十七縣,一萬六千三百六戶。(後略)

少帝景平初,司州複沒北虜。文帝元嘉末,僑立于汝南,尋亦省廢。明帝複于南豫州之義陽郡立司州,漸成實土焉。領郡四,縣二十,去京都水二千七百,陸一千七百。

劉宋の少帝の景平初(423年)、司州はふたたび胡族に占領された。
文帝元嘉末(453年)、汝南郡に司州を僑立した。

これは正真正銘の、洛陽を放棄します宣言に等しい。どうして汝南なんかが、光武帝以来、ずっと漢族を求心してきた、州なものか。

これを省いた。明帝は、ふたたび南豫州の義陽郡に、司州を立てた。土地を切り取って、リアルな司州を作った。領郡四,縣二十,去京都水二千七百,陸一千七百。

ちょっと雑談

これで「地理志」は折り返し地点です。
『晋書』の「地理志」には書かれていないが、東晋の成帝や穆帝のとき、僑立が行なわれるようになった。世界史の概説書なんかに書いてある、「土断法」 を交えて理解すべきことです。
功と罪を考えてみる。

功は、流民の戸籍を作り、税金が取れること。
そして流民たちが、気分だけでも、現住所に愛着を持てる。西晋が華北を失ってから、30年経てば、世代が移る。出張先で生まれた子は、赴任地を故郷だと認識する。東晋の子供たちも然り。古典に照らせば、自分が住んでいるのは「ニセ冀州」でも、それはそれで故郷です。
成帝のときの土断が、341年。洛陽が陥ちてから、ちょうど30年です。東晋に移住したとき、まだ物心の付かなかった人たちが、朝廷で発言権を持つ年齢になった時期、と言ってもウソではないはず。
前々年と前年に、庾亮と王導が死んでいる。統一王朝に仕えた人材が、退場したタイミングである。

罪は、華北回復への意欲を失ってしまうこと。
例え話です。 どうしても50型のプラズマテレビがほしいが、お金がない。37型を買った。それなりに大画面だし、もう50型はいらなくなった。
これと同じことが、漢族の中で起きるんじゃないか。
まあ、後世から鳥の目で見下ろしたコメントだから、華北を諦め、現実と折り合ってしまった史実に、残念な印象を持つのですが。
ただし、間違えてはいけない。
べつに断食してまで50型のテレビを買うのが、唯一の成功ではない。しかも上に書いたように、世代交代が進んだ。そもそも50型どころか、テレビが欲しいのかどうかも、よく分からなくなっているわけだし。
しかし、東西南北を冠した、おかしな州名が、設置と廃止をコロコロくり返している劉宋のやり方は、不健康な葛藤のありさまを思わせます。
思いっきり妥協して32型を買った。だが50型に未練が残り、クレーマーになって32型を返品した。代わりに37型を買い直したが、気分は楽しまない。毎日37型で映画を見つつ、でも不満が溜まっていくばかり。割り切って37型を愛することはできない。何も買わないほうが、貯金があったし、まだ幸せだったんじゃないか。後悔を始めた。・・・そんな感じだ。

◆割拠皇帝という矛盾
東晋にせよ、劉宋にせよ、皇帝を名乗るからには、中原に都して、全土統一せねばならない。なぜなら、それが皇帝の定義だからだ。始皇帝以前の、一地方に君臨した人には、ちゃんと「王」という称号がある。
皇帝なら、諸葛亮みたいに、一途に外征をすべきだ。外征をしない時期は、外征の準備期間であるべきだ。
実は「王」の資格しかないくせに、皇帝を名乗る。称号はもっとも尊いから、満足してしまう。もともと皇帝の外征は、未服従勢力を懲らしめるために、やるべきだ。だが外征を、国内の政争を有利にする材料にする。本末転倒して、たいてい議論が本質を見失う。早くは西晋の平呉がそうだったし、東晋の桓温や劉裕の振る舞いも同じである。

僑立は、割拠政権の矛盾を、助長している気がする。対処療法だけやって、ますます病根を奥深くに埋めて、見えなくしている感じだ。
思えば諸葛亮は、新しい州を作らなかった。諸葛亮は、国土の狭さをごまかさなかった。
「蜀は一州を保つのみ」
という恥ずかしい状況を、そのままにした。孫呉は、ろくに支配が及んでいないのに、広州だ交州だと嘯き、見かけを水増しした。地理志を読むと、皇帝という概念に対する、王朝の態度が見えてきますね。