3)揚州(下)
揚州の郡県を見ます。
州の概要 ⇒ 郡の解説 ⇒ 県の詳細、という構成のようです。
揚州にある郡
◆丹陽尹
丹陽尹,秦鄣郡,治今吳興之故鄣縣。漢初屬吳國,吳王濞反敗,屬江都國。武帝元封二年,為丹陽郡,治今宣城之宛陵縣。晉武帝太康二年,分丹陽為宣城郡,治宛陵,而丹陽移治建業。元帝太興元年,改為尹。領縣八,戶四萬一千一十,口二十三萬七千三百四十一。
揚州の丹陽尹は、秦代の鄣郡にあたる。治所は、いまの呉興郡のもと鄣縣である。前漢のはじめ、呉国に属した。呉王の劉濞が叛乱して敗れると、江都國に属した。
前漢の武帝の元封二年、丹陽郡となった。治所は、いまの宣城郡の宛陵縣にあった。
晉武帝太康二年、丹陽郡を分けて、宣城郡を作った。宣城郡の治所は、宛陵にあった。丹陽郡の治所は、建業に移された。
元帝太興元年、郡から「尹」となった。
丹陽尹は、県が8つ、戸は4万1010、人口は23万7341である。
建康令,本秣陵縣。漢獻帝建安十六年置縣,孫權改秣陵為建業。晉武帝平吳,還為秣陵。太康三年,分秣陵之水北為建業。湣帝即位,避帝諱,改為建康。
建康令は、もとは秣陵縣といった。漢獻帝建安十六年、県が置かれた。孫權は、秣陵を建業と改めた。晉の武帝が孫呉を平定すると、秣陵に戻した。太康三年、秣陵のうち、河川より北側を建業とした。西晋の湣帝が即位すると、皇帝の諱を避けて、建康と改められた。
秣陵令,其地本名金陵,秦始皇改。本治去京邑六十裏,今故治村是也。晉安帝義熙九年,移治京邑,在鬥場。恭帝元熙元年,省揚州府禁防參軍,縣移治其處。
秣陵令は、もとの地名を金陵という。秦始皇が改めた。治所は、京邑から60里のところで、いまの故治村である。
東晋の安帝の義熙九年、治所を京邑に移した。恭帝の元熙元年、揚州府の禁防參軍を省いたので、治所をそこに移した。
◆会稽郡
會稽太守,秦立,治吳。漢順帝永建四年,分會稽為吳郡,會稽移治山陰。領縣十,戶五萬二千二百二十八,口三十四萬八千一十四。去京都水一千三百五十五,陸同。
會稽太守は、秦が立てた。治所は、呉であった。後漢の順帝の、永建四年、會稽郡を分けて、呉郡を作った。會稽郡の治所は、山陰に移された。縣は10、戸は5万2228、人口は34万8014。
京都から、水路で1355里で、陸路でも同じである。
◆呉郡
吳郡太守,分會稽立。孝武大明七年,度屬南徐。八年,復舊。領縣十二,戶五萬四百八十八,口四十二萬四千八百一十二。去京都水六百七十,陸五百二十。
呉郡太守は、會稽郡を分けて建てられた。孝武大明七(463)年、南徐州にくり込まれた。八(464)年、もとに戻された。
領縣十二,戶五萬四百八十八,口四十二萬四千八百一十二。去京都水六百七十,陸五百二十。
◆呉興郡
吳興太守,孫皓寶鼎元年,分吳、丹陽立。領縣十,戶四萬九千六百九,口三十一萬六千一百七十三。去京都水九百五十,陸五百七十。
呉興太守は、孫皓の寶鼎元年、呉郡と丹陽郡から分けて作られた。
領縣十,戶四萬九千六百九,口三十一萬六千一百七十三。去京都水九百五十,陸五百七十。
◆淮南郡
淮南太守,秦立為九江郡,兼得廬江豫章。漢高帝四年,更名淮南國,分立豫章郡,文帝又分為廬江郡。武帝元狩元年,複為九江郡,治壽春縣。後漢徙治陰陵縣。魏複曰淮南,徙治壽春。晉武帝太康元年,複立曆陽別見、當塗、逡道諸縣,二年,複立鐘離縣別見,並二漢舊縣也。三國時,江淮為戰爭之地,其間不居者各數百里,此諸縣並在江北淮南,虛其地,無複民戶。
淮南太守は、秦が立てた九江郡で、廬江郡と豫章郡を合わせた領域だった。
前漢の高帝四年、淮南國と名づけ、豫章郡を分けた。前漢の文帝は、廬江郡を分けた。前漢の武帝の元狩元年、ふたたび九江郡という名に戻した。治所は壽春縣だった。
後漢は、治所を陰陵縣に移した。曹魏は、ふたたび淮南と呼び、治所を壽春県にした。
西晋の武帝の太康元年、複立曆陽別見、當塗、逡道諸縣,二年,複立鐘離縣別見,並二漢舊縣也。
三国時代、長江と淮水の間は、戦争の舞台になった。このエリアには、数百里四方も人がいなかった。淮南郡の人家は、長江の北、淮水の南には、なくなった。
吳平,民各還本,故複立焉。其後中原亂,胡寇屢南侵,淮南民多南度。成帝初,蘇峻、祖約為亂于江淮,胡寇又大至,民南度江者轉多,乃於江南僑立淮南郡及諸縣。晉末,遂割丹陽之於湖縣為淮南境。宋孝武大明六年,以淮南郡並宣城,宣城郡徙治於湖。八年,複立淮南郡,屬南豫州。明帝泰始三年,還屬揚州。領縣六,戶五千三百六十二,口二萬五千八百四十。去京都水一百七十,陸一百四十。
孫呉が平定されると、住民は本籍に返された。
西晋末に中原が乱れると、胡族が南に侵攻した。淮南郡の民は、南方に逃げた。東晋の成帝の初め、蘇峻と祖約が、江淮で叛乱した。胡族が大々的に押し寄せた。長江を南へ渡った住民は多かった。だから長江の南に、淮南郡の地名が移された。
東晉末、ついに丹陽郡の湖縣を割いて、淮南郡の境界とした。
宋孝武大明六(462)年、淮南郡は宣城郡に合わされた。宣城郡は、治所を湖県に移した。八(464)年、ふたたび淮南郡が立てられて、南豫州に属した。
明帝泰始三(467)年、淮南郡は揚州に戻された。
領縣六,戶五千三百六十二,口二萬五千八百四十。去京都水一百七十,陸一百四十。
◆東陽郡、臨海郡
東陽太守,本會稽西部都尉,吳孫皓寶鼎元年立。領縣九,戶一萬六千二十二,口一十萬七千九百六十五。去京都水一千七百,陸同。
臨海太守,本會稽東部都尉。前漢都尉治鄞,後漢分會稽為吳郡,疑是都尉徙治章安也。孫亮太平二年立。領縣五,戶三千九百六十一,口二萬四千二百二十六。去京都水二千一十九,陸同。
東陽太守は、もとは會稽郡の西部都尉だった。孫呉の孫皓が寶鼎元年に立てた。領縣九,戶一萬六千二十二,口一十萬七千九百六十五。去京都水一千七百,陸同。
臨海太守は、もとは會稽郡の東部都尉だった。前漢のとき都尉の治所は鄞にあった。後漢のとき、会稽郡から分かれて呉郡となった。このとき、都尉の治所は、章安に移されたのだろうか。孫亮の太平二年に立てられた。
領縣五,戶三千九百六十一,口二萬四千二百二十六。去京都水二千一十九,陸同。
◆永嘉郡、新安郡
永嘉太守,晉明帝太甯元年,分臨海立。領縣五,戶六千二百五十,口三萬六千六百八十。去京都水二千八百,陸二千六百四十。
新安太守,漢獻帝建安十三年,孫權分丹陽立曰新都,晉武帝太康元年更名。領縣五,戶一萬二千五十八,口三萬六千六百五十一。去京都水一千八百六十,陸一千八百。
訳すところがない・・・
次は、南徐州です。何だそれ、的な名前ですが。