表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』州郡志を抄訳、勢力地図を楽しむ

5)南豫州、豫州、江州

南朝の首都の揚州と、首都の周りに「僑立」された州から、地理志が始まっています。『宋書』の次の巻も、同じように「僑立」をやります。

戦況により州治が変わる、南豫州

南豫州刺史,晉江左胡寇強盛,豫部殲覆,元帝永昌元年,刺史祖約始自譙城退還壽春。成帝鹹和四年,僑立豫州,庾亮為刺史,治蕪湖。咸康四年,毛寶為刺史,治邾城。六年,荊州刺史庾翼鎮武昌,領豫州。八年,庾懌為刺史,又鎮蕪湖。穆帝永和元年,刺史趙胤鎮牛渚。二年,刺史謝尚鎮蕪湖;四年,進壽春;九年,尚又鎮曆陽;十一年,進馬頭。升平元年,刺史謝奕戍譙。

南豫州刺史について。西晋末に豫州は、胡族に奪われた。
東晋の元帝の永昌元年、豫州刺史の祖約は、はじめて譙城を引き払って、揚州の壽春に後退した。
東晋の成帝の鹹和四年、豫州を僑立して、庾亮を豫州刺史とした。ニセ豫州の州治は、蕪湖である。咸康四年、毛寶が刺史となり、州治は邾城とした。六年、荊州刺史の庾翼が武昌に出鎮し、豫州を領ねた。八年、庾懌がニセ豫州の刺史となり、蕪湖で鎮った。
穆帝の永和元年、刺史の趙胤牛渚で鎮った。二年、刺史の謝尚が、蕪湖鎮った。
四年、謝尚は、壽春に進んだ。九年、ふたたび歴陽で鎮った。十一年、馬頭に進んだ。升平元年、ニセ豫州刺史の謝奕は、譙を守った。

じわじわ進み、ついに庾亮が諦めた、譙に戻ってきた。

哀帝隆和元年,刺史袁真自譙退守壽春。簡文咸安元年,刺〔史桓熙戍曆陽。孝武甯康元年,刺〕史桓沖戍姑孰。太元十年,刺史硃序戍馬頭。十二年,刺史桓石虔戍曆陽。安帝義熙二年,刺史劉毅戍姑孰。宋武帝欲開拓河南,綏定豫土,九年,割揚州大江以西、大雷以北,悉屬豫州,豫基址因此而立。十三年,刺史劉義慶鎮壽陽。永初三年,分淮東為南豫州,治曆陽;淮西為豫州。文帝元嘉七年〔合二豫州為一,十六年又分,二十二年又合,考武大明三年〕,又分。五年,割揚州之淮南、宣城又屬焉。徙治姑孰。(中略)徐志領郡十三,縣六十一,戶三萬七千六百二,口二十一萬九千五百。今領郡十九,縣九十一。去京都水一百六十。

東晋の哀帝の隆和元年、刺史の袁真は、自ら譙を退いて、壽春に戻った。

せっかく東晋が進んだのに、なんてこと!

簡文の咸安元年、刺史の桓熙歴陽を守った。
孝武の甯康元年、刺史の桓沖は、姑孰を守った。 太元十年、刺史の硃序は、馬頭を戍った。十二年、刺史の桓石虔は、歴陽を守った。
東晋の安帝の義熙二年、刺史の劉毅は、姑孰を戍った。

一進一退に飽きてきた。ちゃんと東晋政治史と絡めないと、まったく面白くない。

宋武帝は、河南を開拓し、ホンモノの豫州を奪回したいと考えた。九年、揚州の長江より西を分割して、大雷(地名)より北を、豫州とした。劉宋の豫州の基礎が、このとき立てられた。
十三年、刺史の劉義慶が壽陽で鎮った。
永初三年、淮水の東を分割して、南豫州を立てた。南豫州の州治は、歴陽とした。淮水の西は、豫州のままである。
文帝の元嘉七年、南豫州と豫州を1つに合わせた。十六年、また分けて、二十二年にまた合わせ、考武大明三年に、また分けた。五年、揚州の淮南郡と、宣城郡を、豫州に入れた。州地を姑孰に移した。(中略)
徐志領郡十三,縣六十一,戶三萬七千六百二,口二十一萬九千五百。今領郡十九,縣九十一。去京都水一百六十。

取り戻せなかった豫州

豫州刺史,後漢治譙,魏治汝南安成,晉平吳後治陳國,晉江左所治,已列於前。《永初郡國》、何、徐寄治睢陽,而郡縣在淮西。徐又有邊城,別見南豫州。(中略)
領郡十,縣四十三,戶二萬二千九百一十九,口一十五萬八百三十九。

豫州刺史は、後漢のとき州治がだった。魏のとき州治は汝南郡の安成だった。西晋が孫呉を平定すると、州治は陳國となった。東晋のときの州治は、さっき書いた。
『永初郡國』と何と徐によると、睢陽が豫州をまとめて治めたとあるが、地理的には淮水の西にあった。(中略)

南豫州のところで頑張って書きすぎて、ネタがなくなったようだ。

領郡十,縣四十三,戶二萬二千九百一十九,口一十五萬八百三十九。

晋代に初登場した、江州

江州刺史,晉惠帝元康元年,分揚州之豫章、鄱陽、廬陵、臨川、南康、建安、晉安,荊州之武昌、桂陽、安成十郡為江州。初治豫章,成帝咸康六年,移治尋陽;庾翼又治豫章,尋還尋陽。領郡九,縣六十五,戶五萬二千三十三,口二十七萬七千一百四十七。去京都水一千四百。

江州刺史は、西晋の惠帝の元康元(291)年に作られた。
揚州からは、豫章、鄱陽、廬陵、臨川、南康、建安、晉安郡を切り取り、荊州からは、武昌、桂陽、安成郡を切り取り、10郡で江州とした。
はじめ州治は豫章郡だった。東晋の成帝の咸康六年、州治は尋陽郡に移された。
庾翼はふたたび豫章で江州を治め、また尋陽に戻した。
領郡九,縣六十五,戶五萬二千三十三,口二十七萬七千一百四十七。去京都水一千四百。

後漢と三国にない州で、興味深いので、郡まで訳します。


◆尋陽太守
尋陽太守,尋陽本縣名,因水名縣,水南注江。二漢屬廬江,吳立蘄春郡,尋陽縣屬焉。晉武帝太康元年,省蘄春郡,以尋陽屬武昌,改蘄春之安豐為高陵及邾縣,皆屬武昌。二年,以武昌之尋陽複屬廬江郡。惠帝永興元年,分廬江、武昌立尋陽郡。尋陽縣後省。領縣三,戶二千七百二十,口一萬六千八。

尋陽太守について。尋陽は、もとは県名だった。川水の名にちなんで県名がつけられた。川水は南で長江に注ぐ。
前漢と後漢では、廬江郡に属した。孫呉は蘄春郡を立てて、尋陽縣はその下に入った。
西晋の武帝太康元年、蘄春郡を省くと、尋陽県は武昌郡に属した。蘄春郡の安豐県を改めて、高陵県と邾縣とし、どちらも武昌郡に属させた。二年、武昌郡の尋陽県を、ふたたび廬江郡に属させた。
西晋の惠帝の永興元年、廬江郡と武昌郡を分けて、尋陽郡を作った。尋陽縣については、後を参照のこと。領縣三,戶二千七百二十,口一萬六千八。

参照先は、大したことがないので訳さず。尋陽郡は、あの柴桑を含む。


◆豫章太守
豫章太守,漢高帝立,本屬揚州。《永初郡國》有海昏漢舊縣,何志無。今領縣十二,戶一萬六千一百三十九,口一十二萬二千五百七十三。去州水六百,陸三百五十;去京都水一千九百,陸二千一百。

豫章太守は、前漢の高祖が立てた。もとは揚州に属した。《永初郡國》有海昏漢舊縣,何志無。
今領縣十二,戶一萬六千一百三十九,口一十二萬二千五百七十三。去州水六百,陸三百五十;去京都水一千九百,陸二千一百。

◆鄱陽太守
鄱陽太守,漢獻帝建安十五年,孫權分豫章立,治鄱陽縣;赤烏八年,徙治吳芮故城。《永初郡國》有曆陵縣漢舊縣,何志無。領縣六,戶三千二百四十二,口一萬九百五十。去州水四百四十;去京都水一千八百四十,陸二千六十。

鄱陽太守は、後漢の獻帝の建安十五年、孫權が豫章郡から分けて作った。郡治は鄱陽縣である。孫呉の赤烏八年、郡治が呉芮の故城に移された。
《永初郡國》有曆陵縣漢舊縣,何志無。領縣六,戶三千二百四十二,口一萬九百五十。去州水四百四十;去京都水一千八百四十,陸二千六十。

つぎの臨川内史、廬陵太守、安成太守、南康公相、南新蔡太守は省略。


◆建安太守
建安太守,本閩越,秦立為閩中郡。漢武帝世,閩越反,滅之,徙其民于江、淮間,虛其地。後有遁逃山谷者頗出,立為冶縣,屬會稽。司馬彪雲,章安是故冶,然則臨海亦冶地也。張勃《吳錄》雲:「閩越王冶鑄地,故曰安閩王冶。此不應偏以受名,蓋句踐冶鑄之所,故謂之冶乎?閩中有山名湛,疑湛山之爐鑄劍為湛爐也。」後分冶地為會稽東、南二部都尉。東部,臨海是也;南部,建安是也。吳孫休永安三年,分南部立為建安郡。領縣七。疑戶三千四十二,口一萬七千六百八十六。去州水二千三百八十;去京都水三千四十,並無陸。

建安太守は、もとは閩越の土地だった。秦が、閩中郡を立てた。
前漢の武帝のとき、閩越が叛乱し、建安郡を滅ぼした。住民は、長江や淮水流域に移り、人がいなくなった。山谷を越えて逃げてきた人がしきりに出てくるので、県を作って、會稽郡に収めた。
司馬彪曰く、章安がもとの郡冶で、臨海もまた郡治だったという。張勃の『呉録』には、こう書いてある。
「閩越王冶鑄地,故曰安閩王冶。此不應偏以受名,蓋句踐冶鑄之所,故謂之冶乎?閩中有山名湛,疑湛山之爐鑄劍為湛爐也。」
のちに冶地を、会稽東部都尉と、会稽南部都尉に分けた。東部都尉のエリアは、臨海郡である。南部都尉のエリアは、建安郡である。
孫呉の孫休の永安三年、南部都尉を分けて、建安郡を置いた。
領縣七。疑戶三千四十二,口一萬七千六百八十六。去州水二千三百八十;去京都水三千四十,並無陸。

陸路がない!閩越に奪われるわけだ。 つぎの晉安太守は省略。