表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』州郡志を抄訳、勢力地図を楽しむ

8)雍州、梁州、秦州

次は、いわゆる関中のあたりの州について。
後漢のときと違い、関中は東晋や劉宋の領土ではないから、荊州への避難が主な内容です。

雍州

雍州刺史,晉江左立。胡亡氐亂,雍、秦流民多南出樊、沔,晉孝武始於襄陽僑立雍州,並立僑郡縣。宋文帝元嘉二十六年,割荊州之襄陽、南陽、新野、順陽、隨五郡為雍州,而僑郡縣猶寄寓在諸郡界。孝武大明中,又分實土郡縣以為僑郡縣境。(中略)
今領郡十七,縣六十,戶三萬八千九百七十五,口十六萬七千四百六十七。去京都水四千四百,陸二千一百。

雍州刺史は、東晋が立てた。胡族や氐族が亡亂すると、雍州や秦州の住民が、樊水や沔水の間に南下した。東晋の孝武は、はじめて襄陽に雍州を僑立し、雍州の郡縣も僑立した。
宋文帝元嘉二十六(449)年、荊州から襄陽、南陽、新野、順陽、隨の5郡を割いて、雍州とした。だが僑立した雍州の(つもりの)郡縣は、あちこちに点在したままだった。孝武大明中、州名と郡県を一致させた。(中略)
今領郡十七,縣六十,戶三萬八千九百七十五,口十六萬七千四百六十七。去京都水四千四百,陸二千一百。

荊州に後退する、梁州

梁州刺史,《禹貢》舊州,周以梁並雍,漢以梁為益,治廣漢雒縣。魏元帝景元四年平蜀,複立梁州,治漢中南鄭,而益州治成都。李氏據梁、益,江左於襄陽僑立梁州。李氏滅,復舊。譙縱時,又治漢中。刺史治魏興。縱滅,刺史還治漢中之苞中縣,所謂南城也。文帝元嘉十年,刺史甄法護於南城失守,刺史蕭思話還治南鄭。(後略)

梁州刺史は、『禹貢』に載っている古い州である。周が梁州を雍州に併せた。漢は梁州を益州とした。州治は、廣漢郡の雒縣だ。
魏元帝(曹奐)の景元四年、蜀を平定すると、ふたたび梁州が立てられた。州治は、漢中郡の南鄭だった。梁州を切り取られた益州は、州治が成都だった。
李氏の成漢が、梁州と益州に拠ると、東晋は襄陽に梁州を僑立した。桓温によって李氏が滅すると、梁州を戻した。
譙縱のとき、州治は漢中で、刺史は魏興郡で治めた。譙縱が滅すると、刺史は漢中郡の苞中縣に戻った。いわゆる南城である。
文帝の元嘉十年、梁州刺史の甄法は、南城で護っていたが、拠点を失った。刺史の蕭思話は、州治を南鄭に戻した。(後略)

実体がない州は、戸数などが書いてないんですね。

天水から襄陽に移った、秦州

秦州刺史,晉武帝太始五年,分隴右五郡及涼州金城、梁州陰平並七郡為秦州,治天水冀縣;太康三年並雍州,惠帝元康七年複立。何志晉孝武複立,寄治襄陽。安帝世在漢中南鄭。領郡十四,縣四十二,戶八千七百三十二,口四萬八百八十八。

秦州刺史は、西晋の武帝の太始五年に作られた。隴右5郡と、涼州の金城郡、梁州の陰平郡などの7州を秦州とした。秦州の州治は天水郡の冀縣だった。太康三年、雍州に併せられたが、惠帝の元康七年にふたたび立てられた。何志によれば、東晋の孝武帝がふたたび秦州を立てたとき、襄陽でまとめて治めた。

もとの秦州は胡族が治めているから、荊州の襄陽が州治だ。
雍州も梁州も秦州も、失われた土地の州の治所は、襄陽に集められる。

東晋の安帝のとき、州治は漢中郡の南鄭だった。
領郡十四,縣四十二,戶八千七百三十二,口四萬八百八十八。

・・・「州郡志」の三はここまで。
「州郡志」の構成は、とてもよく出来ていて、似たような扱いを受けた州を、まとめてくれています。原書の構成を崩さずに、引用&翻訳してきて良かった。理解が助けられる。次回最終回。