表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』州郡志を抄訳、勢力地図を楽しむ

2)揚州(上)

中原の州ではなく、揚州から記述がスタート。 県の解説がクドいときは、どんどん省略します。文体が単純で「訳す」という作業も要らなさそうだし。

南朝の首都、揚州

揚州刺史,前漢刺史未有所治它州同,後漢治曆陽,魏、晉治壽春,晉平吳治建業。成帝咸康四年,僑立魏郡別見,肥鄉別見、元城漢舊縣,晉屬陽平二縣,後省元城。又僑立廣川郡別見,領廣川一縣,宋初省為縣,隸魏郡。江左又立高陽別見、堂邑二郡別見,高陽領北新城別見、博陸博陸縣,霍光所封,而二漢無,晉屬高陽。二縣。堂邑,領堂邑一縣,後省堂邑並高陽,又省高陽並魏郡,並隸揚州,寄治京邑。文帝元嘉十一年省,以其民並建康。

揚州刺史は、前漢のときは、他州と同じく治所が定まっていなかった。後漢のとき、治所は歴陽になった。魏晉のとき、治所は壽春だった。西晋が孫呉を平定すると、治所は建業になった。

孫呉にとっての「揚州」は無視された。曹魏の目線だ。

東晋の成帝の咸康四(338)年、華北に準えて魏郡を設置した。(後略)

華北が異民族に奪われたので、地名だけ移してくることを、郡を「僑立」するという。うまい訳語が浮かばないので、以後そのまま使います。

廣川郡を僑立したが、宋代に魏郡に併せられた。(中略)
東晋は、高陽郡と堂邑郡を作った。博陸県は、前漢の霍光が封じられた地名である。博陸県は、東晋では高陽郡に属した。
堂邑郡を省いて、高陽郡に併せた。高陽郡を省いて、魏郡に併せた。魏郡の治所は京邑である。 宋の文帝元嘉十一(434)年に、魏郡は省かれた。魏郡の住民は、建康に移住した。

揚州の心臓部に、魏郡があった。三国ファンが混乱する。なぜ東晋は、「魏郡」をわざわざ設置したのか。禅譲を受けたから?
東晋が滅べば、いつわりの「魏郡」は不要になったらしく、マトリョーシカのように、3段階で合併されていった。


孝建元年,分揚州之會稽、東陽、新安、永嘉、臨海五郡為東揚州。大明三年罷州,以其地為王畿,以南台侍御史部諸郡,如從事之部傳焉,而東揚州直雲揚州。八年,罷王畿,複立揚州,揚州還為東揚州。前廢帝永光元年,省東揚州並揚州。順帝升明三年,改揚州刺史曰牧。領郡十,領縣八十。戶一十四萬三千二百九十六,口一百四十五萬五千六百八十五。

孝建元(454)年、揚州の會稽郡、東陽郡、新安郡、永嘉郡、臨海郡を分けて、東揚州を作った。大明三(459)年、東揚州をやめて、首都の直轄に戻した。南台侍御史が諸郡を治め、如從事之部傳焉。

どこまでが官名なのか分からんので、保留。。

東揚州と言わずに、ただ「揚州」と呼んだ。
八(464)年、首都の直轄をやめて、また揚州を立てた。揚州は、ふたたび東揚州と呼ばれた。 前廢帝の永光元年、東揚州をなくして、揚州に併せた。順帝の升明三年、揚州刺史を改めて、揚州牧とした。
揚州は、郡が10、県が80あり、戸は14万3296、人口は145万5685であった。

次回、揚州の中の郡を見ておきます。