01) 17-18, 呂母と赤眉の乱
『漢書』王莽伝をやります。
光武帝を知る目的なので、天鳳4年(後17年)から。
適当に区切りをつけたら、たまたま「上中下」の「下」からでした。
ちくま訳を参照します。『漢書補注』でおぎなうのは、後日。
17年:王莽が経済を統制し、呂母が挙兵する
四年五月,莽曰:「保成師友祭酒唐林、故諫議祭酒琅邪紀逡,孝弟忠恕,敬上愛下,博通舊聞,德行醇備,至於黃發,靡有愆失。其封林為建德侯,逡為封德侯,位皆特進,見禮如三公。賜弟一區,錢三百萬,授幾杖焉。」
天鳳四年(17年)5月、王莽は云った。
「唐林と紀逡は、黄髪の老人になっても、儒教を実践している。侯爵に封じて、官位は特進とせよ。朝廷での礼式は、三公なみにせよ」
ぼくは思う。スキンヘッドってことかな。
唐林と紀逡って、誰だろう。専伝はなさそうだが、、
六月,更授諸侯茅土于明堂,曰:「予製作地理,建封五等,考之經藝,合之傳記,通于義理,論之思之,至於再三,自始建國之元以來九年於茲,乃今定矣。予親設文石之平,陳菁茅四色之土,欽告于岱宗泰社後土、先祖先妣,以班授之。各就厥國,養牧民人,用成功業。其在緣邊,若江南,非詔所召,遣侍於帝城者,納言掌貨大夫且調都內故錢,予其祿,公歲八十萬,侯、伯四十萬,子、男二十萬。」然複不能盡得。莽好空言,慕古法,多封爵人,性實遴嗇,托以地理未定,故且先賦茅土,用慰喜封者。
6月、王莽は明堂にて、諸侯に茅土をくばった。
「私は9年にわたり、古典どおりの地理を再現した。諸侯は、治国をがんばってくれ。爵位に応じて、金銭をくばろう」
しかし、全額が支給されなかった。
王莽は、空言をこのみ、古法をしたうから、おおく人に爵位をくばった。だが、じつは王莽の性格はケチだ。地理が古典どおりに定まらないことを理由に、金銭をくばらず、茅土だけをくばり、ごまかした。
ちくま訳は、空言と古法と封爵の理由を、ケチだとする。文章の切れ目を、誤っていると思う。空言と古法をこのむから、爵位をくばる。ケチだから、金銭を支給しない。因果関係は、これだ。
茅土は、原価が安かったらしい。笑
是歲,複明六管之令。每一管下,為設科條防禁,犯者罪至死,吏民抵罪者浸眾。又一切調上公以下諸有奴婢者,率一口出錢三千六百,天下愈愁,盜賊起。納言馮常以六管諫,莽大怒,免常官。置執法左右刺奸。選用能吏侯霸等分督六尉、六隊,如漢刺史,與三公士郡一人從事。
この歳、ふたたび六管之令を、明らかにした。
法律をきめるごとに、違反者をきつく取り締まった。だが死刑にあたる罪ですら、犯す人は減らない。
奴婢に、課税した。天下はうれい、盗賊が起きた。
納言をつとめる馮常は、六管之令をいさめた。王莽はおおいに怒り、馮常をクビにした。能吏の侯霸に、六尉と六隊を監察させた。六尉と六隊は、漢の刺史にあたる。六尉と六隊は、郡ごとに1人をおいた。
おそらく、六尉と六隊のミッションは、確実な税金の回収。
◆呂母の乱
臨淮瓜田儀等為盜賊,依阻會稽長州,琅邪女子呂母亦起。初,呂母子為縣吏,為宰所冤殺。母散家財,以酤酒買兵弩,陰厚貧窮少年,得百餘人,遂攻海曲縣,殺其宰以祭子墓。引兵入海,其眾浸多,後皆萬數。莽遣使者即赦盜賊,還言:「盜賊解,輒複合。問其故,皆曰愁法禁煩苛,不得舉手。力作所得,不足以給貢稅。閉門自守,又坐鄰伍鑄錢挾銅,奸吏因以愁民。民窮,悉起為盜賊。」莽大怒,免之。其或順指,言「民驕黠當誅」。及言「時運適然,且滅不久」,莽說,輒遷之。
臨淮の瓜田儀らは、盗賊となった。会稽の長州に拠った。
琅邪の女子である呂母もまた、起った。
はじめ呂母の子は、県の役人になった。だが、冤罪で殺された。呂母は家財を散らし、武器と若者を100余人あつめた。海曲県を攻めて、子のカタキをとった。呂母は、兵たちと海上の島にうつった。
王莽は使者をやり、盗賊をゆるした。使者は、報告した。
「盗賊は、いちど解けましたが、すぐ集まりました。理由を聞きました。禁令がわずらわしく、税金が高いからです。門をとざして、越度がないように気をつけても、隣家が貨幣をつくれば、連座させられます。だから盗賊は、解散しません」
王莽はおおいに怒り、使者をクビにした。
盗賊の弾圧を唱えた人が、王莽に喜ばれ、出世した。
是歲八月,莽親之南郊,鑄作威鬥。威鬥者,以五石銅為之,若北斗,長二尺五寸,欲以厭勝眾兵。既成,令司命負之,莽出在前,入在禦旁。鑄鬥日,大寒,百官人馬有凍死者。
この歳8月、王莽は南郊で、威斗をつくった。威斗は、銅製で2尺5寸のマジナイ道具だ。戦勝をいのった。王莽が威斗をつくった日、8月なのに寒く、人馬が凍死した。
ヒーロー側の光武帝だって、銅製のマジナイをやったはずだ。
18年:王莽の孫が皇帝を気どり、琅邪で赤眉が起つ
五年正月朔,北軍南門災。
以大司馬司允費興為荊州牧,見,問到部方略,興對曰:「荊、揚之民率依阻山澤,以漁采為業。間者,國張六管,稅山澤,妨奪民之利,連年久旱,百姓饑窮,故為盜賊。興到部,欲令明曉告盜賊歸田裏,假貸犁牛種食,闊其租賦,幾可以解釋安集。」莽怒,免興官。
天鳳五年(18年)正月ついたち、北軍の南門が燃えた。
王莽は、大司馬で司允の費興を、荊州牧にした。費興は云った。
「荊州と揚州の民は、山や沢で、狩猟して生活します。六管の制度で、山や沢に課税したから、民たちは盗賊になりました。私は荊州牧として、経済統制をゆるめます」
王莽は怒り、費興をクビにした。
きっと、こういうロジックだ。武装した窃盗団がのさばる、北斗の拳みたいな世界を、想像してはいけない。北斗の拳、よく知らんが。
王莽は、自分にきびしく、他人にきびしい。「税金を納めないバカモノどもを、甘やかすな」としか、考えないのだろう。
天下吏以不得奉祿,並為奸利,郡尹縣宰家累千金。莽下詔曰:「詳考始建國二年胡虜猾夏以來,諸軍吏及緣邊吏大夫以上為奸利增產致富者,收其家所有財產五分之四,以助邊急。」公府士馳傳天下,考覆貪饕,開吏告其將,奴婢告其主,幾以禁奸,奸愈甚。
天下の役人は、サラリーがもらえないから、自前でかせいだ。
王莽は、詔した。
「私服をこやした役人から、財産の80%を回収する。回収した財産は、辺境の防衛費にあてる」
王莽に失敗があるとしたら、課税の仕方が、下手だったこと。極端だ。辺境の防衛費がかさむのは、漢民族なら、みな納得することだろうに。
(異民族と戦争状態になっている原因は、王莽の侮辱外交ですが。笑)
皇孫功崇公宗坐自畫容貌,被服天子衣冠,刻印三:一曰「維祉冠存己夏處南山臧薄冰」,二曰「肅聖寶繼」,三曰「德封昌圖」。又宗舅呂寬家前徙合浦,私與宗通,發覺按驗,宗自殺。莽曰:「宗屬為皇孫,爵為上公,知寬等叛逆族類,而與交通;刻銅印三,文意甚害,不知厭足,窺欲非望。《春秋》之義,『君親毋將,將而誅焉。』迷惑失道,自取此事,烏呼哀哉!宗本名會宗,以製作去二名,今複名會宗。貶厥爵,改厥號,賜諡為功崇繆伯,以諸伯之禮葬於故同穀城郡。」
宗姊妨為衛將軍王興夫人,祝詛姑,殺婢以絕口。事發覺,莽使中常侍惲{帶足}責問妨,並以責興,皆自殺。
王莽の孫で、功崇公の王宗は、自画像をかかせた。自画像は、天子の衣服をつけていた。王宗は「私が王莽をつぐ」という刻印をつくった。発覚すると、王宗は自殺した。
王莽の新室そのものを、否定した話ではない。新室の内側のあらそいか。王莽は、子を殺すのが趣味だ。可愛い、わが子すら殺すことが、無私の美徳だと思っている。その延長で、孫を殺しただけかな。
王莽は、詔した。
「王宗は、しゅうとの呂寛にそそのかされ、私に謀反した。王宗の名を、もとの王会宗にもどし、爵位をおとして葬れ」
会宗を「宗」と改めた例が、見れました。日本人の三国ファンも、名前が2字ならば、上の1字を去って、名乗ればいいと思います。笑
王宗の姉である王妨は、衛將軍をつとめる王興の夫人だ。王莽は、中常侍のタイ惲にしらべさせた。王妨は、連座して自殺した。
事連及司命孔仁妻,亦自殺。仁見莽免冠謝,莽使尚書劾仁:「乘『乾』車,駕『神』馬,左蒼龍,右白虎,前硃雀,後玄武,右杖威節,左負威鬥,號曰赤星,非以驕仁,乃以尊新室之威命也。仁擅免天文冠,大不敬。」有詔勿劾,更易新冠。其好怪如此。
司命の孔仁の妻も、王宗や王妨に連座した。孔仁は、冠をとって謝った。王莽は、孔仁をせめた。
「孔仁には、マジナイのために冠をかぶらせた。孔仁は、自分勝手にも、マジナイの冠をはずした。この行為は、新室にたいして、おおいに不敬である」
王莽は孔仁をゆるし、新しい冠を与えた。王莽が、鬼神の怪異をこのむのは、こんな調子である。
『補注』が云うなら、誤りはなかろうが。ぼくは「怪を好む」とは、詭弁を振り回すことだと思う。王莽なりに、勝手に納得して、責めたり赦したりする。第三者は、刑罰の基準がわからないから、怪しさに惑わされる。
以真道侯王涉為衛將軍。涉者,曲陽侯根子也。根,成帝世為大司馬,薦莽自代,莽恩之,以為曲陽非令稱,乃追諡根曰直道讓公,涉嗣其爵。
是歲,赤眉力子都、樊崇等以饑饉相聚,起於琅邪,轉抄掠,眾皆萬數。遺使者發郡國兵擊之,不能克。
王莽は、真道侯の王渉を、衛將軍とした。王渉とは、曲陽侯・王根の子だ。王根は、成帝のとき大司馬となった。王根は、王莽を後任に薦めてくれた。王莽は、王根に恩を感じていた。
曲陽という名が良くないので、王根の爵位を、直道讓公と改めた。王渉は、直道讓公の爵位をついだ。
かなり現実的な人事だ。しかし班固は、王莽の打ち手が適切だと、気に入らないらしい。爵位の名前を変えたことを省かず、王莽のアナクロニズムを強調したいらしい?
この歳、赤眉の力子都、樊崇らが、飢えた民をあつめて、琅邪で起った。赤眉は数万になった。王莽は、郡国の兵をむけたが、勝てず。
赤眉は、王莽をほろぼす。順調に、新室がかたむいてます。つづく。