表紙 > 漢文和訳 > 『漢書』王莽伝下を抄訳し、光武帝を知る準備をする

02) 19, 赤眉を横目に、匈奴攻め

『漢書』王莽伝をやります。
光武帝を知る目的なので、天鳳4年(後17年)から。

ちくま訳を参照します。『漢書補注』でおぎなうのは、後日。

19年:赤眉をマジナイで牽制し、単于を代えたい

六年春,莽見盜賊多,乃令太史推三萬六千歲曆紀,六歲一改元,布天下。下書曰:「《紫閣圖》曰『太一、黃帝皆仙上天,張樂昆侖虔山之上。後世聖主得瑞者,當張樂秦終南山之上。』予之不敏,奉行未明,乃今諭矣。複以甯始將軍為更始將軍,以順符命。《易》不雲乎?『日新之謂盛德,生生之謂易。』予其饗哉!」欲以誑耀百姓,銷解益賊。眾皆笑之。

天鳳六年(19年)王莽は、盗賊が多いから、6年ごとの改元を定めた。符命に基づいて、改元を説明した。王莽は、万民をだまして、盗賊を抑えようとしたのだ。人々は、みな王莽を笑った。

後漢は、王莽と同じく、符命や図讖を信じた。『後漢書』の詔勅を読めば、「非科学的」な説明が、いくらでも付いている。もし班固が、王莽のマジナイを批判したら、後漢まで批判することになる。班固が、そんなこと、できるわけがない。
(だから班固は、後漢に逮捕されたのだろうか。笑)
班固は、王莽がやったマジナイの論法に、説得力がないことを笑っただけのはずだ。マジナイを実施すること自体を、笑ったのではないだろう。原文は「誑耀百姓」だ。
後漢でも同じだが、マジナイめいた詔書と、効果がいまひとつの実政策がセットだ。王莽だって、おなじだろう。しかし、マジナイを強調し、実政策の記述を減らせば、アナクロニズムな迷君に見せることができる。王莽は、作文が得意だ。文書が増えがち。アナクロニズムを強調しやすい。


初獻《新樂》於明堂、太廟。群臣始冠麟韋之弁。或聞其樂聲,曰:「清厲而哀,非興國之聲也。」

「新楽」という音楽を演奏した。音色をきいた人が、云った。
「清くはげしいが、悲しい音色だ。国家の発展を感じさせる、音色ではないなあ

ちくま訳は「興國之聲」を「新興の国の声調」とする。王朝名が新室なのに、「新興」という一般名詞をつかうなんて、センスがないと思う。笑


是時,關東饑旱數年,力子都等黨眾浸多,更始將軍廉丹擊益州不能克,征還。更遣復位後大司馬護軍郭興、庸部牧李曄擊蠻夷若豆等,太傅犧叔士孫喜清潔江湖之益賊。而匈奴寇邊甚。莽乃大募天下丁男及死罪囚、吏民奴,名曰「豬突豨勇」,以為銳卒。一切稅天下吏民,訾三十取一,縑帛皆輸長安。令公卿以下至郡縣黃綬皆保養軍馬,多少各以秩為差。又博募有奇技術可以攻匈奴者,將待以不次之位。言便宜者以萬數:或言能度水不用舟楫,連馬接騎,濟百萬師;或言不持鬥糧,服食藥物,三軍不饑;或言能飛,一日千里,可窺匈奴。莽輒試之,取大鳥翮為兩翼,頭與身皆著毛,通引環紐,飛數百步墮。莽知其不可用,苟欲獲其名,皆拜為理軍,賜以車馬,待發。

このとき関東は、飢饉と日照りが、数年つづいた。赤眉の力子都は、ふくらんだ。更始將軍の廉丹は、勝つことができず、帰還した。

すぐ上で省いた話だが。「更始將軍」というのは、王莽がエンギをかついで「甯始將軍」から改めた称号。のちに王莽の敵として、更始帝が登場する。敵に呼称をパクられるなんて、、商標登録はお忘れなく。
原文「擊益州不能克」を、ちくま訳は「益州を撃った」とする。しかし、赤眉は徐州だ。すぐ前で「關東饑旱數年」とあるから、西の益州はおかしい。「州兵を益した」という意味か。『補注』に、注釈はない。

蛮夷、江湖の益賊を平定した。匈奴の進攻がはげしい。王莽は、キワモノの人材を集めて、官軍を強化した。

どうキワモノなのか。食べなくていいとか、瞬間移動できるとか、空を飛べるとか。ドラゴンボール的な。
悪意をもって読めば、王莽は、ほら吹きにだまされた。ほら吹きに、軍を任せちゃっているから、バカだなあと。だが、好意をもって読めば、人材と技術の収集に貪欲だった。空を飛ぶ道具とか、発明ですよ。新技術に興味を向けるとは、近代的な意味で、軍事的にすぐれていると思う。班固は、けなす目的で、書いているのだと思うけど。
(曹操の人間くささを批判した文が、近代人には魅力的に映るのと同じ)


◆匈奴の単于を、漢民族の縁者に代えたい

初,匈奴右骨都侯須蔔當,其妻王昭君女也,嘗內附。莽遣昭君兄子和親侯王歙誘呼當至塞下,脅將詣長安,強立以為須卜善於後安公。始欲誘迎當,大司馬嚴尤諫曰:「當在匈奴右部,兵不侵邊,單于動靜,輒語中國,此方面之大助也。於今迎當置長安槁街,一胡人耳,不如在匈奴有益。」莽不聽。即得當,

もともと、匈奴の右骨都侯である須蔔當は、王昭君の娘を妻とした。須蔔當は、前漢にしたがったことがある。王莽は、王昭君の兄の子・和親侯の王歙をおくり、須蔔當を長安にまねいた。
大司馬の嚴尤は、王莽をいさめた。
「須蔔當は、国外にいるから、匈奴を抑えるために、役立っています。もし須蔔當を長安に来させたら、1個の胡人でしかありません。須蔔當は国外に置き、新室のために、役立てるべきです」

王莽は、強烈な中央集権をやりたい人だろう。だから異民族すら、長安に置きたい。だが、君主権力の集中は、反発を招くのが、ツネです。前漢が拡散して滅びたばかりだ。ゆるめるのも不安だ。バランスが難しいなあ。

王莽は、嚴尤のいさめを聞かない。須蔔當を長安においた。

欲遣尤與廉丹擊匈奴,皆賜姓徵氏,號二徵將軍,當誅單于輿而立當代之。出車城西橫廄,未發。尤素有智略,非莽攻伐四夷,數諫不從,著古名將樂毅、白起不用之意及言邊事凡三篇,奏以風諫莽。及當出廷議,尤固言匈奴可且以為後,先憂山東盜賊。莽大怒,乃策尤曰:「視事四年,蠻夷猾夏不能遏絕,寇賊奸宄不能殄滅,不畏天威,不用詔命,貌很自臧,持必不移,懷執異心,非沮軍議。未忍致於理,其上大司馬武建伯印韍,歸故郡。」以降符伯董忠為大司馬。

王莽は、厳尤と廉丹に「徴氏」の姓をたまい、「二徴將軍」とした。

厳尤と廉丹は、王莽政権で、重要な将軍だとわかる。廉丹は、赤眉だか益州だかを討っていた。負けたけど。
いま王莽は、2人におなじ姓をあたえ、擬似兄弟にした。ぼくは類例を知らないが、古典に、根拠があるのだろうか。『補注』は、注釈なし!

王莽は、いまの単于を攻め、須蔔當を単于に代えたい。
厳尤は、出陣のまえに、王莽を諌めた。匈奴よりも、赤眉を平定するほうが、優先だと。王莽は、厳尤をクビにした。
降符伯の董忠を、厳尤に代えて、大司馬とした。

王莽が侮辱外交をしたせいで、匈奴と戦争が始まったとされる。しかし、後漢になっても、異民族は盛んだ。あやまって、すむ問題ではなかった。
もし王莽が、侮辱した書面を送らなくても、早晩、漢族と胡族は、戦い始めたのかも知れない。胡族の人口が増えたとか、生産力が変動したとか、マクロな背景があったのでは? 悪事はすべて王莽のせいじゃない。笑


◆身長が1丈の巨人は、王莽をからかう作り話

翼平連率田況奏郡縣訾民不實,莽複三十稅一。以況忠言憂國,進爵為伯,賜錢二百萬。眾庶皆詈之。青、徐民多棄鄉里流亡,老弱死道路,壯者入賊中。

翼平の連率である田況は、郡県の徴税が足りないと、上奏した。

翼平は地名。山東の益都。さきの「益州」は、山東の地名だったのか?

王莽は、財産の30分の1を、あらたに課税した。田況は王莽に喜ばれ、伯爵にすすんだ。万民は、田況をののしった。青州と徐州では、故郷を捨てて、流亡した。老弱は道で死に、壮健な人は賊になった。

青州と徐州だけ、飢饉の記事がある。後漢の本紀をみれば、だいたい、飢饉は全国的に散発する。いま青州と徐州にかたよるのは、不自然かな。
ぼくが思うに班固は、赤眉を説明&強調するため、青州と徐州の天候不順を、たくさん書いたか。自然より人為があやしい。


夙夜連率韓博上言:「有奇士,長丈,大十圍,來至臣府,曰欲奮擊胡虜。自謂巨毋霸,出於蓬萊東南,五城西北昭如海瀕,軺車不能載,三馬不能勝。即日以大車四馬,建虎旗,載霸詣闕。霸臥則枕鼓,以鐵箸食,此皇天所以輔新室也。願陛下作大甲高車,賁、育之衣,遣大將一人與虎賁百人迎之於道。京師門戶不容者,開高大之,以視百蠻,鎮安天下。」博意欲以風莽。莽聞惡之,留霸在所新豐,更其姓曰巨母氏,謂因文母太后而霸王符也。征博下獄,以非所宜言,棄市。

夙夜の連率である韓博は、王莽に上言した。

夙夜も、山東。文登の東北。山東は、長安からもっとも遠い。いち早く、新室から脱落していたらしい。光武帝は王莽を見て、遠隔地が脱落するのをキラい、わざと真ん中の洛陽に遷都したのかも?

「2メートルを越える巨人が、異民族を討伐したいと、志願してきました。彼の名は、巨毋霸です。海の向こうから来ました。4頭だての馬車で、やっと運べます。鉄の箸で、食べます」
韓博は、王莽をからかって、この報告をした。

王莽は、あざなは巨君。巨ハ、霸トナル毋シ。「王莽は、覇者になれない」という謎かけだ。

王莽は韓博をにくみ、さらし首にした。
王莽は巨毋霸を呼び寄せず、巨母覇と改姓させた。

巨毋霸なんて、いないからね。呼べないのだ。笑
「毋」を「母」にしたので、「王莽の母は覇者だ」という、メッセージに代わった。エンギかつぎというか、トンチの仕返しというか。


明年改元曰:地皇,從三萬六千歲曆號也。

6年ごとに改元するルールにもとづき、「地皇」と改元した。つづく。